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第1章:再会 3
藍が控え室を出て行き姿が見えなくなった途端、ドッと汗が噴き出てくる。ばくばくと早鐘のように脈打つ心臓を抑え、椅子に座って呼吸を整えた。
この世には男女の性別の他に、もう一つ特別な性がある。
それは『アルファ』『ベータ』『オメガ』に分類される第二性と言われるもので、男も女も関係なく分類されるのだ。食物連鎖で言えばアルファは頂点に君臨するエリートが多く、ベータは中間層で一番この性を持つ人が多い。最後にオメガは最下層に位置する性で、男女共に妊娠が可能な特別な体を持っている。オメガは主にアルファを誘惑するフェロモンを出す発情期というものがあり、誰でもかれでもフェロモンに反応してしまうので迷惑だと社会的にも冷遇されているのだ。
その中でも由利はオメガの母から生まれたが、離婚した父親がアルファだったらしく、アルファとして生を受けた。そして母が再婚した藍の父親はアルファなので、弟の藍もアルファだったのだ。ただ、彼がアルファなのは出会った頃はまだ検査を受けていなかったので、知らなかったのだけれど。
でもなんとなく藍がアルファなのは分かっていた。由利が予想していた通り、高校生になる前の検査で彼はアルファという結果が出た。アルファである由利でも気圧されるくらい圧倒的なアルファのオーラを、由利は覚えていたのだ。
「はぁ……」
久しぶりに真正面から藍のオーラを受け、ドッと疲れてしまった。せっかくセットしてもらった髪の毛をぐしゃぐしゃかき回していると、再び控えめにドアがノックされた。
「由利さん、楪です。YURIさんが撮影を再開するからヘアセットをって言われたんですが……」
「あ、あぁ…入ってきていいよ、お願いします」
「すみません、失礼します…って、由利さん!髪の毛がめちゃくちゃ乱れてるじゃないですかーッ!」
「ごめん、ちょっと、つい……」
「ついってなんですか、もー!」
文句を言いながらも心は素早く髪を元通りにセットし直して、真っ青になっている由利の顔に血色感を与えるためにメイク直しを始めた。
「さっきYURIさんが来たと思うんですけど、大丈夫でしたか?」
「体調を気遣ってくれただけ。大丈夫だったよ」
「由利さん、なんか本調子じゃなかったですもんね」
「歴史がある出版社での仕事だから、急に緊張してさ……」
「由利さんでもそんなことあるんですね〜!」
「俺だってただの人間だから」
そう、ただの人間だからこそ、YURIを義弟かもしれないと思って具合が悪くなっていたなんて、口が裂けても言えない。別に藍と兄弟だとバレたところでただ騒がれるだけで仕事に支障はないと思うけれど、二人が『普通』の兄弟ではないから、隠してしまうのだ。
「由利さん入られます!」
「撮影を中断させてすみません、よろしくお願いします」
撮影前と同じようにヘアメイクをしてもらい、スタジオのまばゆい白い照明を見ると由利は撮影スイッチが入る。カメラの前には最初と同じように黒いマスクとグレーの帽子を深く被った藍がいて、相変わらず絡みつくような視線で由利を見つめていた。
でも、YURIの正体が藍かどうか分からなかった時より、正体が分かった今のほうがすっきりした気持ちで撮影に臨める。カメラ越しに見つめられ、舐めるような視線を送られても耐えられるのは、藍に対して『やれるもんなら俺を綺麗に撮ってみろ』という対抗心があったから。
休憩に入る前にびくびくしていた由利とは打って変わった姿に藍は驚いているようだったが、目だけしか見えていなくても彼が笑うのが分かった。
「由利さん、目線をこっちにもらっていいですか」
藍が手を上げて、ひらりと指を動かす。まるで蝶々を追いかけるようにそちらに視線をやると、パシャリとシャッターが降りる瞬間が見えた。カメラ越しに藍と目が合っているような感覚で、彼の鋭い視線に心臓を貫かれているような気分。視線は固定したままポーズを変えていると、藍によってストップの声がかかった。
「次は椅子に座ってください。ポーズは自由に。あなたの一瞬を僕が切り取るので」
偉そうなことを言いやがって、と思ったけれど、藍が撮影した写真を見ると業界が彼を『売れっ子カメラマン』と言ってチヤホヤしている理由が分かった。
由利は決してナルシストではないが、撮影されたそのどれもが自分じゃないほどかっこよく、綺麗だなと感じたのだ。
「……すごいな」
「気に入りましたか?」
「まぁ、はい…」
「どれがいいと思います?」
悔しいけれど、藍から『視線をこっちに』と言われた時の写真が一番印象的で、記憶に残るような写真だ。素直にそれを指さすと「僕も同じです」と言って空気が和らいだので、周りが一気にざわつく。今の会話の中でなにか気づかれるよなことがあったのか!?と心配したが、耳を澄ませてみると別の意味でざわついたらしい。
「もしかしてYURI先生、微笑んでる……!?」
「今まであんな風にモデルさんに意見を聞いたことあったっけ!?」
という、藍のアシスタントと思われる人たちの会話が聞こえてきた。
こいつ、普段どんな感じで仕事してるんだ……?
そんな意味を込めてじっと見つめていると、視線に気づいた藍がモニターを覗き込んでいた由利を見上げて「どうしました?」と首を傾げてきた。そんな仕草、デカい成人男性がやっても可愛くもなんともないんだよと罵ってやりたいところだが、かつて『可愛い』と思っていた弟に弱い由利はぐっと言葉を飲み込んだ。ダメだ、騙されちゃいけない。それで痛い目にも遭ってきたし、藍という沼に引きずり込まれたら今までの努力が水の泡になる。
「個人的には、こっちの写真も好みなんですけど」
「好みって……」
モニターに映し出されたのは、立ち姿から椅子に座って撮影した時のもの。足を組んだ膝上に腕を乗せて頬杖している写真だ。少し見下ろすような視線を真っ直ぐカメラに向けていて、どこか挑発的な一枚が藍としては好みらしい。好みだと言われてドキッとしてしまった単純な自分は、どこまでも馬鹿である。藍はどう転がっても由利の弟、なのだ。
「……僕を挑発しても、"誘ってる"と勘違いするだけだよ、兄さん」
――ああ、もう、本当に。
8年くらい藍を避け続けてきた由利への仕返しだろう。控え室で話した時は『過去』の出来事に対して怒っていないとか恨んでいないと言っていたけれど、心の底ではきっと由利のことが憎いのだ。だからこうして目の前に現れて由利を困らせて、人生を台無しにしてやろうと思っているに違いない。
そんな魂胆が見え見えで藍をぎろりと睨むと、ただ笑ってかわされてしまった。
「由利、もしかしてYURIさんと知り合いだったのか?」
「え?」
一時はどうなることかと思った撮影が終わり、萩尾がこそこそ耳打ちしてくる。なぜそんなことを聞かれるのか分からなくて首を捻ると、萩尾は眼鏡のフレームを指でクイっと持ち上げた。
「YURIさんのアシスタントさんたちが、あんなに柔らかい雰囲気のYURIさんは初めて見るって」
「ふうん……」
「本当にずっと由利と一緒に仕事をしたかったらしいよ」
「誰が言ってたんですか?」
「そのアシスタントさんたちから聞いた。同じ名前だから運命を感じてるって話してたんだって、昔から」
「は……ふざけてんな、あいつ…」
義兄と同じ名前で活動して、挙げ句の果てに『運命を感じている』なんて、コメディ映画の見過ぎではないだろうか。『美しい兄弟の絆』だったり『家族愛』なんて二人の間には存在していない。いや、実際には藍の気持ちは分からないのだが、少なくとも由利にとってはそうだった。
「別に知り合いじゃないですよ。ただ名前が同じだから、他人と思えないだけじゃないですか?」
何を考えているのか分からない人間、というか、藍は苦手だ。心をかき乱されないためには淡々と仕事だけをこなして他のことでは一切関わらないと、由利は固く胸に誓った。
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