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第2章:同居 1
飲み会で藍のアシスタントから有益な情報を得た後、今日はひどく疲れた一日だったので二次会には参加せず由利は帰路についた。
「あ、乗ります!」
エレベーターに乗り込んで扉が閉まる瞬間、薄い隙間から腕を差し込まれてビクッと体を震わせた。ベタなホラー映画の演出のように腕が伸びてきたら誰でも驚いてしまうだろう。でも実際は生きた人間の腕だったので、由利は慌てて『開』ボタンを連打した。
「大丈夫ですか!?お怪我とか……!」
「大丈夫だよ、兄さん」
「そうですか、よか…った……」
エレベーターに乗り込んできた男は黒いマスクをしてグレーのキャップを深く被っている。狭いエレベーターの中で由利を見下ろしてくるその男の目に、心臓が止まるかと思った。
「な、なんでお前がこのマンションに!?」
「今日、飲み会の時間にちょうど引っ越し業者が来る時間だったんだよね」
「いやっ、来る時間だったんだよねじゃないだろ!」
「別に僕がどこに住もうが由利には関係ないでしょ」
「関係…ないかもしんない、けど……」
まさか今日久しぶりに再開した弟が、同じマンションに引っ越してくるなんて思ってもいなかった。自慢ではないが高層マンションの上の階に住んでいる由利は、こんなに階数があるんだからマンション内で会うことなんてほぼほぼないだろうとたかを括っていた。
「……なんで着いてくんの?」
「僕の家もこっちだから」
「……」
なぜか由利が住んでいる階で藍も降り、後ろをついてくる。この階のどこに空室があったのか知らないけれど、途中で藍が他の部屋に入ることはなく、もう由利が住んでいる突き当たりの部屋まで着いてしまった。
「もう俺の家しかないんだけど」
「だから、僕の家もこっちで合ってる」
「は?」
こいつ意味わかんないな。
そう呟きながら鍵を開けようとすると、由利の後ろから伸びてきた腕が『由利の家の』鍵を差し込んだ。もちろん由利の手から鍵を奪ったわけではなく、最初から藍が持っていたものを、だ。
「な、な、なんで?なに、どういうこと!?」
「話聞いてなかったの?兄さん。今日引っ越しだったんだってば」
「そういうことを聞いてるんじゃない!なんで俺の家に……っ」
玄関には見知らぬ靴が並んでいて、部屋の中にはいくつかの段ボール。玄関に立ったまま困惑している由利を横目に、まるで自分の家のように藍は上がり込んだ。
「どうして俺の家が分かったの……?」
「あはは、ずいぶんひどいこと聞くんだね、兄さん。兄さんが思ってなくても僕たちは"家族"なんだよ。兄さんがいくら僕を避けてても、母さんに聞けば簡単だよね」
「でも、鍵はどうやって!」
「母さんに合鍵渡してたでしょ。相変わらず母さんには甘いよね、兄さんは」
万が一のことを考えて母に渡していた合鍵が、いつの間にか藍の手に渡っていたようだ。息子たちが同じ家に住むことは別に変ではないし、そんな風に仲のいい兄弟は世界中に山ほどいるだろう。だとしても一言相談して欲しかった。由利も藍もすでに成人を迎えたいい大人なのだし、恋人の一人や二人いるとは思わなかったのだろうか。
「言っておくけど、母さんは悪くないよ。僕が兄さんに伝えておくって言ったし、相談したって嘘ついたから。僕は兄さんと一緒に仕事することになったのは父さんたちに伝えてたけど、サプライズにしたいから黙っててって口止めしてた。あと、僕の進路のこともずっと」
玄関から動けない由利に近づいてくる藍から逃げようとしたが、後ろはドアがあって退路を断たれた。後ろ手にドアを開けたらいいかもしれないけれど、それでは由利のほうが怪我をする可能性が高いので諦めた。逃げ場がないと悟った由利を追い詰めた藍は控え室で会った時と同じように由利の手を握り、繋いだ手に唇を落とす。柔らかく温かい唇がちょうど指の第二関節に触れて、由利の中に熱を送り込んだ。
「僕は別に、兄さんを怖がらせたいわけじゃないよ」
「え……?」
「復讐したいとか、そういうことを思ってるわけじゃない。怒ってないって昼間にも伝えたでしょ」
「藍、」
「ただ、僕は兄さんのことが好きなんだよ。大好きなのに突然避けられて、傷ついて、兄さんに見合う男になろうと思って努力してきた」
「だからってなんでこんなこと……!」
「このくらい強引にしないと、由利は僕を見てくれないから」
『兄さん』ではなく『由利』と呼ばれたことで、由利は全身の血が沸騰しそうだった。藍の顔をまともに見られなくて俯くと、頭上から小さく笑う声が降ってくる。そうだ、この弟は兄が狼狽えるのを見てただ楽しんでいるだけなのだ。だったらこっちも強気に出ないと、藍のペースに飲まれてしまう。
「……一緒に住むくらい、別になんともない。勝手にしろよ」
「優しい兄さんならそう言ってくれると思ってた。勝手にしろって言われたからそうする」
多分いいように誘導された気がするが、両親がこのことを知っているなら下手に追い出すこともできない。由利の母も藍の父ものほほんとした性格なので、由利が意図的に藍を避けていたのは気づいていないかもしれないが、一緒に住むのを拒否したと知ったら怒りはしないが二人とも悲しむだろう。別にマザコンというわけではないけれど、せっかく幸せを手に入れた母を悲しませたくはないのだ。
ただそれだけの感情であり、藍のためだという気持ちはない。色んなことを考えた結果、藍の同居を受け入れるのが今一番の最善策だと考えた。
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