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第9章:運命 2

ただそんな『悪夢』は、ずっと付き纏うから『悪夢』なのだ。 こちらの意思とは関係なく迫り来るもので、その対処の仕方が今のところは分からない。 「藍!忙しいところ呼び出して悪かったな」 「いえ。師匠もお元気そうで何よりです」 「お元気そうで何より?そんな綺麗な言葉、いつから使えるようになったんだ」 藍の師匠である速水紫と会う時は決まって会員制の静かな鮨屋と決まっている。個室があるプラベート空間で仕切られている店で雰囲気もいいし、従業員の接客も文句のつけどころがない。久しぶりに訪れた店に入ると、先に到着していた紫が満面の笑みを見せて出迎えた。 「今は一応ファッション誌の専属にもなってるので、失礼がないようにと思いまして」 「そうかそうか、成長したなぁ。お前の活躍はこっちまで届いてるよ」 「師匠の話も、相変わらずどこでも聞きますよ」 「あはは!俺も捨てたもんじゃないな」 「……僕の憧れの人も、師匠に写真を撮ってもらいたいそうです」 「それはそれは、由利くんがそんなことを?会ったことないけど、会いに行ってみるか」 「やめてください。僕の立場がなくなるから」 藍と紫の出会いは、藍が大学生の時。 元々由利の進路に合わせて同じ業界に行こうと思っていた藍は大学の映像学科に進学していたのだが、特別講師として現れた紫に撮影した写真をボロクソに批評されたのがきっかけだ。 『君の写真はダメだ。"撮りたいもの"が他にあるから』 由利のことしか眼中にないのをたった一枚の写真で見抜かれ、そのことが他の人にバレるわけにはいかないと思った藍はしつこく紫にアタックして、ようやく弟子にしてもらったのが大学3年生の時。人並みに『良い』写真を撮れるように、それはもう思い返せば血を吐きそうなほどスパルタ指導をされた日々。 ただそのおかげもあり、今こうして仕事をしているから彼には感謝しかないのだけれど。 「どうですか、監督の仕事は。お忙しいみたいですけど」 「あぁ、まあな……長期の撮影はさすがに体に堪えるな」 「もう40代後半なんですからあまり無茶しないでくださいよ」 「お前は俺を貶してるのか心配してるのかどっちだ?」 「心配しかないでしょ、普通に」 「ったく」 40代後半といっても、紫の外見はほとんど変わらない。昔はモデルでもしていたのか?と疑うほどスタイルはいいし、後ろに束ねている長髪もツヤツヤで、見た目は完全に30代前半にしか見えない美魔女ならぬ美おじだ。 彼の言う『長期撮影は体に堪える』は確かに年を取ったから体力的にという意味もあるかもしれないが、紫は『番を解消させられたオメガ』なのだ。アルファから番を強制解消されたオメガは、今後二度と誰とも番えずに発情期に耐えなければならない。 噂でしか聞いたことがないのだが、他の人との性行為に吐き気を催すらしく、まともに番を作ることも性的欲求を解消することもできないまま一生を終えるのだと。 だから紫にとって長期撮影は体力的にもきついし、その間に発情期がきたら更に辛いのだろう。まぁ、基本的には発情期がこないタイミングを考えて撮影に挑んでいるのだろうけれど。 「どうした?何か悩んでる顔だな、藍」 「いえ……悩んでいると言えば、そうなんですけど……」 「俺にも話せないことか?」 藍は紫のことをとても尊敬しているし、師匠としてではなくどことなく父親に似た存在でもある。こんなでかい子供がいるなんて癪だと言われてきたけれど、父親のような、おじのような、年の離れた兄のような人なのだ。 由利や家族とは違う『大切な人』だからこそ、今の藍の状況を彼に話すのは気が引けた。なんせ紫も『運命』に追放された側の人間だからだ。 「師匠にこの話をするのは、忍びなくて……」 「なんだ、どういう意味だ?」 「……僕の、運命の番が現れました」 『運命の番』 その言葉を口にすると、紫は今し方飲んでいた日本酒のグラスを置いてため息をついた。グラスを置いて自由になった手がそのまま首を這い、うなじを撫でる。これは、紫が不安を感じた時にする癖で、うなじにある『噛み跡』をなぞるのだ。 「すみません。この話をするつもりはなかったんですが……」 「気にするな。お前はそのオメガとどうなりたいんだ?」 「……どうもなりたくありません。その人と番になるつもりはありませんし、僕は由利と……」 「由利くんと付き合ってるのか?」 「まあ、えっと、はい……」 「そうか。こっぴどく振られて片想いのまま死ぬかと思ったら」 「麗と同じこと言わないでくださいよ」 「ははっ。じゃあお前は、運命のオメガと番になるつもりはないってことか」 「はい。相手にもきっぱり言ってるんですけど……」 紫は番のアルファに捨てられたオメガなので、運命の番の行動はどうだったか、なんて酷なことは聞きたくない。10年ほど前の話だと聞いているが、今はやっと念願の仕事をして紫は一人でも生きられているというのに、弟子である自分のちっぽけな相談なんかのせいで彼の感情を乱したくはなかった。 「運命の番っていうのは、厄介だからな。付き纏われてるだろ」 「……」 「俺のアルファもそうだった。番のいない運命のオメガに付き纏われて最初は厄介だって追い払ってたけど、いつからか可哀想だと思うようになってな。あのオメガには自分がいないとダメなんだって言って俺を捨てたけど……俺だってあいつがいないとダメだったのに、酷いもんだよ」 「やっぱり、それくらい強い結びつきなんですね……」 「そうなんだろうな。まぁ、お前と由利くんはアルファ同士だろ?お前に捨てられたとしても由利くんはアルファだし俺みたいにはならないだろ」 「――捨てる気はありませんッ」 シンっとした店内に藍の声が響く。いくら個室だと言っても今の声は他の客にも聞こえただろう。子供のように声を荒げてしまったと反省していると、俯いた藍の頭をぐしゃぐしゃと紫が撫で回した。 「俺が悪かった、すまん。お前はあいつとは違うもんな……義理の兄を追いかけ回してる一途なピュアボーイなのを忘れてた」 「なんすかそれ…バカにしてるでしょ……」 「ふはっ!そんなに怒るなって。でも大変だろ、アルファ同士の恋愛も。由利くんだってオメガのフェロモン浴びたら発情しちまうし、気が気じゃないだろうなお前は」 実際、衣都のフェロモンで発情したアルファの由利を見た時、血管が切れるかと思うくらい怒りが沸騰した。由利は僕のものなのに、どうして他の奴のフェロモンで発情するのか、あの時の混乱している頭ではそんなバカみたいなことしか考えられなかったのだ。 そもそもアルファのフェロモンがアルファに効くのかすら分からない。効かなかったらとても虚しくなるから試していないのだが、衣都が現れた時も藍の頭の中を占めていたのは由利のことだけだった。

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