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第9章:運命 4

運命の番が何を言ったとしても藍の気持ちがブレることはない。 ぽっと出の見知らぬオメガの男性より、藍の心の中にずっと住んでいるのは『椿由利』しかいないのだ。誰にも言えない関係だし誰からも祝福されないと分かっているけれど、どうしても彼のことだけは手放せない。いや、手放したくない。 それは何よりも藍の『本能』がそう言っていた。 「何度もお伝えしていますが、僕には付き合っている人がいます。その人のことを愛しているし、大切なんです。だから僕はたとえ運命の番だとしても鈴香さんとは番になれません。傷つけて申し訳ないと思っていますけど、あなただけを大切にしてくれるアルファが絶対にいるはずです」 麗が先日言った『藍はいつか刺されそう』という言葉に怖がっているわけではないが、ここは由利が住んでいるマンションでもあるので衣都をあまり刺激しないよう、先日より気持ち穏やかに話しかけた。 でもヒヤッとしたのは、マスクを顎まで下げ帽子の下からこちらを見る衣都の目が、あまりにも冷めきっていのただ。 「……アルファ同士じゃ番になれないくせに?」 「え?」 「由利さんはアルファなのに、どうして二人が付き合ってるんですか?」 「何を言ってるんですか?」 「普通、このマンションに二人とも別々で住んでるとか、そんな偶然ナイでしょ」 一緒に住んでいると言っても、由利と時間を合わせて二人で帰ってきたことはない。しかも結構念入りに周囲を確認してマンションに入っていたが、やはり衣都はどこかで後をつけてきてこのマンションに由利と藍が住んでいるのを特定したのだろう。 藍が調べた限りでは由利がこのマンションに越してきたのは衣都と別れた後なので、元恋人の彼が知るはずないのだ。シラを切ってみせたが衣都の目が『二人は恋人同士』だと物語っていた。 「あの人はアルファで子供も産めないしそもそも番になれないのに、何がいいの?僕なら番になれるのに。あなたのために生まれたのは僕のほうなのに!」 完全に目が据わっている衣都を下手に刺激すると何をするか分からない。そんな危うさが今の衣都にはあって、藍はごくりと唾を飲み込んだ。 なんせ今はもう深夜で人通りも少ない。この近くの飲食店は歩いて10分はかかるし、近くのコンビニにダッシュしようにも衣都がいる方向に行かなければならないのだ。かと言って、話し合う余地もなさそうだし、話し合いで解決できるなら彼は今ここにいないだろう。 「あの人の何がいいんですか?確かに外見は綺麗だけど、僕だって可愛いじゃないですか。それにあの人だって、僕のフェロモンに発情するただのアルファですよ?本当に意味わかんない……僕を選ばないとか正気なの?」 「……外見で選んでるわけじゃありません。というかそもそも、僕は由利さんと付き合っているわけじゃないです」 「絶対ウソ。だってYURIさん、一度もゴミ出ししてないもん」 「は……?」 「だってずっと見てたもん、僕。YURIさんのことずっと見てた」 自分も人のことは言えないが、かなり恐怖を感じた。 藍も相当由利に対して執着していたのは認めるが、純粋に衣都のストーカー行為に恐怖を抱いたのだ。彼は親指の爪を噛みながらブツブツと呪いでも呟くように「このマンションの管理人も清掃業者も買収したんだよこっちは…それで言い逃れできると思ってんの……?」と言っている。 しつこいオメガだと思っていたけれど、まさかマンションの管理人も買収して調べているとは思わなかった。由利と藍が義理の兄弟だというのはバレていないようだが、恋人同士なのは確信しているらしい。 ――ゴミを調べられているということは、当然アレもあるわけで。 そりゃあ、二人が恋人同士だと疑わず確信するのも納得する。それにしてもやり方が汚いんだよと言ってやろうと思ったが、ここで藍が戸惑ったり声を荒げるのは得策ではない。どうしたら穏便に済ませられるかと考えを巡らせていると、衣都が持っていたバッグの中から出てきた鈍い光が藍の目に入ってきた。 「別れられないなら、いなくなれば(・・・・・・)僕のことを選んでくれますよね?」 衣都が何をしたいのか理解した。衣都は多分、持っているナイフで藍を刺して怯ませた後、藍の荷物の中からマンションの鍵を奪い取るつもりだろう。管理人を買収したと言っていたのでマスターキーを持っているかもしれないけれど、藍を動けないようにしておかないとどっちみち由利の元には行けない。 鋭いナイフの切先がこちらに向けられていて、自分が刺される恐怖よりも由利をどうやって守ったらいいのかを考えた。 一応防御はするつもりだが刺されたとして、由利を守るにはどうしたらいいのか。ナイフを奪い取るのが一番いい方法だろうけれど、行動の予測ができない衣都は果たして今考えている通りの動きをするだろうか――? 「……藍?」 衣都が藍の予想通りに動かないことよりも、由利がマンションの外に出てきてしまったことのほうが誤算だった。もうすぐ着くよ、というメッセージを送ってから大分時間が経っているので心配して出てきてくれたのだろう。 あぁ、どうしよう。今そんな優しさを発揮しなくていいのに。今までの8年間みたいに僕のことなんて避けてくれていたら、どんなによかったか……。 頭の中ではそう思っていても、心の中では本当は嬉しかったのだ。藍の帰りが遅いからとわざわざ外に出てきてくれる由利の優しい気持ちが、ただ嬉しかった。 「え、い、衣都くん?」 「――ゆうりっ!」 由利の声に反応し、藍にナイフを向けていた衣都の標的が変わる。衣都はナイフを両手で握ったまま藍ではなくその後ろにいる由利に向かって走ってきて、藍は反射的に後ろを向いて由利を抱きしめて身を挺して庇った。 「………は!?あんた誰だよ…!?」 想像していた痛みは藍を襲わず、抱きしめた由利の体を確認しても出血していない。でも後ろで困惑する衣都の声が聞こえて振り向くと、腹部を押さえてうずくまる女性がいた。 「麗――ッ」 衣都が握っていた血だらけのナイフがカランっと音を立てて落下する。彼自身、関係ない人を刺すつもりはなかったのだろうし、その勇気もなかっただろう。藍にとっても麗の登場は予想外で、腹部を押さえている麗に駆け寄った。 「てめぇ、この野郎……!」 「麗さん、大丈夫!?いま救急車呼んでるから!なんでこんなことに、どうして麗さんが……っ」 「ぼ、ぼ、ぼくの、ぼくのせいじゃな……ッ」 麗は話す余裕もないのか短く荒い呼吸を繰り返していて、由利に肩を抱かれて震えている。今まで妹に横暴な態度の兄だったと思うけれど、他人に傷つけられたら話は別だ。 「鈴香衣都!お前だけは絶対に許さねぇぞ……!」 藍の気迫に逃げようとする衣都を捕まえようと腕を伸ばすと、それより先に衣都の体がふわりと浮く。呆気に取られた一瞬のうちに衣都の体は地面に沈んでいて、麗の恋人である菖蒲大雅(あやめたいが)によって取り押さえられていた。 「麗がいきなり警察呼んでって言いながら走り出して…なにがあったんすか、藍さん……!」 「ごめん、とりあえずコイツを警察に突き出してほしい。麗は刺されたから病院に連れて行かないと……っ」 大雅は現役警察官で、今日は麗とこの近くで食事をしていたらしい。その帰り道に麗が偶然現場を見かけてしまい、藍と由利を庇って刺されたということだ。こればっかりは、兄として情けない。由利が着ていたカーディガンで一生懸命止血してくれているが、青白い顔をしている麗を見て足がすくんだ。 「――麗」 由利の腕の中でぐったりとしている妹に話しかけても、彼女はぴくりとも動いてくれなかった。

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