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第10章:楽園 3

それから急いで病室に行くと、途中で看護師から「院内では走らないでください!」と注意された。それくらい急いで来たのだが、藍が病室の前でピタッと固まる。そんな藍の背中に鼻をぶつけた由利が怪訝な顔で彼を覗き込むと、緊張しているのかドアに伸びかけた手が震えていた。 「藍、大丈夫」 「いや、でも……冷静に考えると、あいつに合わせる顔がない……」 「俺たちが一緒にいることが大事だと思う。麗さんはきっとそのために俺たちを守ってくれたんだから」 病室の中から父の声がするので小声でしか話せなかったが、由利は震える藍の手に自分の重ね、ゆっくりとドアを開けた。 「――お兄ちゃん!由利さんも…!無事でよかったぁ……!」 二人が揃って病室に入ってくると、すぐに由利たちの姿を見つけた麗は二人の無事を泣きながら喜んだ。あの事件からすでに1ヶ月以上経過していて、その間麗は点滴で命を繋いでいたから体も痩せ細ってしまったのに、それでも自分が命懸けで守った由利と藍が元気でいることに涙していた。 どこまでも綺麗な心の持ち主であり、勇気もあって優しい女性だ。 「無事でよかったは、こっちのセリフだろうが……っ」 麗が起きている姿を見て安心したのか藍の目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。彼は乱暴に手の甲で自分の目元を拭って、それから控えめに麗の体をぎゅっと抱きしめた。 そんな藍の涙にもらい泣きしていると、麗が藍の肩越しに由利を見て「由利さん」と言いながら腕を伸ばす。由利は麗の兄ではないし本当の家族ではないけれど、藍と同じように大切にしたい妹のような存在だ。そんな意味も込めて、由利も泣きながら麗のことを抱きしめた。 「二人とも私の行動に怒ってるだろうけど、仕方なかったの。無我夢中だったんだもの」 「開き直ることじゃない……」 「うん、でも、あの時の私には考えるよりも先に体が動いてて……ごめんなさい。でも無事だったからいいでしょ?」 「お前な……!」 「ま、まあまあ、藍。麗さんは起きたばっかりだから落ち着いて。これからゆっくり回復していってね、麗さん。元気になったら浅沙さんも復帰して欲しいと思ってるだろうから」 「本当に迷惑かけちゃって申し訳ないです……水着の撮影もできなくなるかな。意外と傷痕が大きくて。私は別に見せてもいいけど、大雅は水着の撮影に反対してたからいい機会かも」 そこまで頻度は高くないが、夏に向けた撮影となるとやはり露出が多い衣装が多くなるのが一般的だ。水着ではなくても腹部を見せるような衣装は多くあるので、体が一種の商売道具であるモデルにとっては致命的である。 こればっかりはどうやっても償いきれないし、時間を元に戻さないと治らない傷なのだが―― 「よく俺の担当をしてくれるヘアメイクさんがいるんだけど、特殊メイクとかも勉強してた子でね。傷を隠すメイクがすごく上手いんだよ」 「由利さんのヘアメイクさんっていうと、楪さんですよね?」 「知ってた?」 「Camelliaの現場で何度かお話しさせてもらったことがあるんです。すごく気さくで明るい方ですよね」 「そうそう。麗さんと気が合いそうだなって思ってたんだけどさ。……実は俺も、心ちゃんに傷痕隠し、してもらってるんだよね」 「え?」 由利たちの父や麗の母は医師の話を聞きに行ったり、食事に出かけたりしたので病室には由利と藍、そして麗の三人しかいない。 恥ずかしいけれど由利は後ろを向いて、少し長くなった襟足を手でどけて見せた。 「分かる?」 「え、え、なにも見えないけど……でも、もしかして……!」 「心ちゃんには恋人からふざけて噛まれただけだって言ってるけど……俺が同意して、藍から噛んでもらったんだよね」 「わ、わぁ…!私まだ夢を見てるわけじゃないよね!?」 「ううん、現実だよ。でも綺麗に隠れてるでしょ」 麗に見せたうなじはぱっと見、傷もシミもひとつもない綺麗な肌だ。でもそれは楪の手腕によるもので、藍からつけられた噛み跡はメイクで完璧に隠されている。ここまで綺麗にメイクで隠せる彼女だから、麗の腹部の傷もきっと隠せると思うのだ。 「もし麗さんが望むなら心ちゃんのことを紹介させて。それが俺にできる精一杯のお礼かな……」 「そんなの、私は二人がそうなってくれたことのほうが、お礼だから……っ!」 麗は由利と藍が付き合った時も喜んでくれたが、由利がオメガに転換して藍の番になると決めたことのほうが余程嬉しかったのだろう。麗は二人が無事だと確認した時よりも号泣してしまい、由利と藍は顔を見合わせて微笑んだ。 「ただ、噛んでもらったと言っても変化は感じられなくて……」 「もしかしたらビッチングの条件とかうなじを噛む状況が違ったのかもしれないけど、とりあえず僕たちの気持ちは一致してるから」 「そっか、そっか…二人とも番になれるんだね……!」 「上手くいけば、ね」 先日藍としっかり話をして、二人で決めたことだ。番になるためにうなじを噛む行為は発情期の最中だったり、体を重ねている最中が効果的だと言われているけれど、それはオメガとアルファの関係での話で。 ビッチングに関して分かっているのは、アルファがオメガになることを受け入れる、ということ。だから由利はそれを受け入れたので、体を重ねる必要はないと思ったのだ。 でも由利の体はオメガに変わっているかどうか、自分ではよく分からない。一度かかりつけの病院でバース検査を受けたほうがいいか、体を重ねてもう一度噛んでもらうか検討中である。 「なんにしても、二人の決断に私は賛成。あんな人より二人のほうがよっぽど運命だもん」 「ありがとう、麗さん。麗さんのおかげで俺も覚悟が決まったんだよ」 「私?」 「うん。麗さんが救ってくれた命だから……誰にも言えない関係だけど、それでも一緒にいようって、藍を愛していこうって決めたんだ」 「そうなんだ……すごく素敵。由利さん、前より綺麗になってる気がする」 「それは気のせいだと思うけど……」 「由利はいつでも綺麗だよ。毎日その日が一番綺麗」 父たちがいないからと言って甘い言葉を囁く藍の額をぺちんっと叩く。つい先日まで麗の目が覚めないと不安がっていたのに、やっと安心したのか場所も弁えずくっつくいてくるなんて現金な奴だ。でも、久しぶりに楽しそうな藍を見て内心由利もホッとした。 「目覚めたばっかりの妹の前でいちゃいちゃ、いちゃいちゃしないでもらえます?」 「ごごごめん……!」 「謝らなくていいんだよ、由利。どうせ麗なんだから」 「こら。めちゃくちゃ憔悴してたくせに何言ってんの」 「えー!お兄ちゃん憔悴してたの!?」 「……うるさいな」 泣きながら抱きしめていたくせによく言うよ。 そんなことを思いながら由利がくすくす笑っていると、麗の目の前で唇を奪われる。こればっかりは「ばかばかばか!」と叫びながら思いっきり頭を叩いたのに、藍はなんだか嬉しそうな顔をしていた。

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