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第36話 安心できる場所③
〈藤行視点〉
二十分ほど横になっていたが、弟を送ってくれた伸一郎さんがなかなか帰ってこない。
(コンビニでも寄ってるのかな?)
喉が渇いたので湯を沸かしてお茶を淹れる。
(青空に心配かけちゃったなー)
目が覚めて激狭キッチンを覗くと伸一郎と青空が立っていた。お、俺のために……青空がお粥……。
この思い出だけで生きていける。
お茶を飲みながら居間でぽけっとしていると、玄関の扉が開いた。
(あ)
帰ってきた。
嬉しくなり、出迎えたかったが身体が重い。もたもたしているうちに手洗いうがいを済ませた二メートル男が顔を出した。
「おう。起きてたのか」
「おかえりー。伸一郎さん。青空は? ちゃんと家に入った?」
彼を信じていないわけではないが、それとこれとは別だ。弟が無事に帰宅した報告を受け取るまで安心できないのだ。
伸一郎は表情を緩ませた。
「ああ」
「ありがとね」
「は?」
「ッ、キスは! 今度ちゃんとするから!」
万が一。風邪の可能性も捨てきれないのだ。この男が風邪引くとは思えないが念のため。
「そうか。五倍返ししてもらうぜ」
「ど、どういう意味? 五回キスしろってこと?」
恐る恐る聞き返すがスルーされた。
――おい! 不安を残さないでよ!
何されるんだろうと思うだけで、あろうことかズグンと下半身が疼いた。彼から与えられる快楽を思い出し、身体が求め出す。
(うっそだろ……? そんな……)
しかし嫌ではなかった。早く元気になって彼と触れ合――
そこまで考えてプッシューと頭から湯気が出た。湯呑を握ったまま突っ伏す。彼はすぐに横に座ってくれる。
「? 薬効いてこないのか? 救急車呼ぶか?」
「あ、ちち違うの! その……、う」
言い淀んでいると揶揄うように笑われた。
「ハッ。なんかエロいこと想像したのか?」
「……うん」
素直に頷く。揶揄っていたはずの彼が「え? マジ?」みたいな表情をしたのが気持ち良かった。
「俺だって、早くキスしたいし」
「ほーん? 元気になった時が楽しみだな。こっち向けよ」
「うるさい」
こんな顔見せられるか!
絶不調中だからか、いつものように顎を掴んで無理矢理顔を覗き込もうとしてこなかった。
伸一郎は下げていた袋を机に置く。近くのコンビニの店名が印刷されていたので、やはり寄り道していたのか。
「何買ったの? 夜食?」
袋から出して机に並べていく。買ったものを袋のまま冷蔵庫に放り込む暴挙に出る男だったので「それだと買った物忘れるだろ。机に並べろ」とかなり前に一回言ったのを、律儀に守っている姿にキュンとなる。
「風邪の時でも食べやすそうなものとか。適当に」
――自分のご飯買えよ!
他人に気を遣うのが当然だったから、他人から親切にされることがこんなに嬉しいなんて。好きな人が、俺のことを考えて何かしてくれる。これだけで胸いっぱいだ。……胸いっぱいってこういう気持ちなんだな。
「それと一応酒のつまみも」
「なんで?」
酒飲み友達でも来るの?
「それなら俺、帰った方が良くない?」
「良くない。俺に、お前以上に優先する人間はいないから、気にせず寝とけ」
「……」
布団に頭から突っ込んだ。
すぐこういうことを言うだろこの男は。
「藤行。ケツ出してどうした? 誘ってんのか? 手を出せない時に煽ってくるなよ。拷問と同じだぞそれ」
「違うし誘ってねーよ! 見んな!」
見るなとは言ったが見ている気がする。恥ずかしいので布団から出た。
「髪の毛ぼさぼさだな」
手櫛で整えてくれる。
「ありがと。伸一郎さん。上着借りていい?」
「ん。寒いか?」
「トイレ行きたい」
「ここですれば?」
「バカタレが。黙って上着寄こせよ」
このアパートには、部屋にトイレがついていないのである。大家さんがごめんねテヘペロしていたのだとか。極寒深夜だろうが灼熱真夏だろうが、トイレに行きたくなったら外にある公共トイレを使うしかない。不便過ぎないか? ここに住んでる人たちは猛者ばかりなのだろうか。
買った物を並べ終えると、小型冷蔵庫に仕舞っていく。
「外出たら死ぬぞ」
「そんな寒い?」
「風呂場でしてこいよ。やったら流せばいいだけだろ」
「……っ」
顔が赤くなるのを感じる。トイレも風呂場もどうせ流すけど……抵抗がある。でも!
(……限界、かも)
膀胱が。
どこに力を込めれば我慢できるのかも分からなくなってきた。
「借りるけど。ちゃんと掃除するからね⁉ ごめんな?」
「流さなくていいけど? なんでお前はそういうこと言うんだ?」
「風呂場を新品同然にしてくるわ」
やれやれと浴室の扉を開ける。
きっと俺が気負わないようにふざけて、冗談で、言ってくれたのだろう(冗談だと信じたい)。脱衣所でズボンを下ろした。
風呂場で。しかも他人の家。で、やったことがすごく恥ずかしい。
居間に戻っても一言も発せられない。空気を読んだのか彼も無理に話しかけてこず、俺は伸一郎さんの膝の上に尻を乗せ、分厚い身体にもたれていた。
家主を座椅子にしてしまっているが苦情が出てないので別にいいだろう。彼はビール片手にテレビを流し見ている。天気予報では、今夜遅くから雪だとか。俺はテレビを見ずにひたすら彼に額を擦りつけて甘える。
ああ~。最高。
これなら拷問でも何でもないだろうと考えたのだが、伸一郎さんの目がどんどん据わっていくのでミスったかもしれない。
やがて満足すると自分ばっかり甘えているのが寂しくなり、ぽつりと零す。
「だ、抱きしめてよ……」
「あ?」
蚊の鳴くような声量しか出なかった。羞恥から思わず逃げようとしたが服を掴まれる。
缶ビールを机に置くと、両腕ですっぽりと抱きしめてくれた。
男として憧れるほどがっちりした腕。それが自分を閉じ込めていると思うだけでボッと顔が熱くなる。しかもこんな腕しておいて、羽毛に触れるかのように優しく抱いてくれる。
おまけに髪も撫でてくれて、ここ(膝の上)で一日過ごしたくなりました。
「身体、だるくないか?」
「……めっちゃ聞いてくるよね」
「当たり前だ。五分に一度は報告しろ」
「心配し過ぎだって!」
「お前。青空が熱出したらどうするんだ?」
「は? 泡吹いて死ぬ」
「……」
ああ。そのくらい伸一郎さんも心配なんだな。ようやく気持ちが分かったぜ。
「今日は、ありがとね? 急に押し掛けたのに何も言わずに受け入れてくれて。お世話になりました」
ペコっと頭を下げる。
またそんな事でこいつは……みたいな表情でもう無視されたが、言っておかないと気が済まない。俺は、伸一郎さんがいるから体調を崩せたんだと思う。甘えられる場所があるって、悪くないな。もちろん頼りっぱなしは嫌なので、元気になったらご馳走を作ろう。
何が良いかな。
「伸一郎さん。鍋とか、好き?」
「お前が好きだ」
「おっ」
急にハートで殴らないで。受け止める準備してなかったよ。
「う、うん。……キムチ鍋とかあるじゃん? どんなのが好き?」
「あ? あー……。ラーメン鍋?」
「麺類から離れろ。他には?」
「あの白い魚、なんだっけな。鱈だったか? とにかく魚が入っている鍋」
「タラ? いいじゃん。お礼に作るからね」
「身体で払ってくれればいい。また風呂場でヤろうぜ。浴室で嬌声が反響するの好きなんだよ」
「作るから黙って食えよ?」
軽く肘で小突いておいたが、ま、まあ、一度くらいなら……
「伸一郎さん。普段性欲オバケなのに、こういう時は本当に手を出してこないよね」
「ああ。奥歯粉砕しながら耐えてる」
「そんなに⁉ え、えっと。あの。ちょっとだけなら」
わしゃしゃしゃっと頭を撫でられまくる。
「はは。冗談だよ。体調不良者の喘ぎ声聞いても、俺が萎えるだけだからな」
いやあの、笑顔で言ってるけど硬いモノが当たっているんですけど。
自分自身に興奮してもらえることが、嬉しいと思える。
(はー。好きになっちゃったなぁ……)
頬が緩むのが抑えられない。
「……明日朝一で帰るから、送ってってね?」
「は? お前いつここに永住するんだよ」
俺だって永住したいけど、いきなり家を放置してここに来られないし。
「もうちょっと、その、待ってね? お俺も準備してるからさ」
「お? マジ? 楽しみにしておくわ」
急かさずに待ってくれる。器の大きさもそうだが、たまに彼は俺なんかには、勿体ないんじゃないかと思ってしまう、時もあった。
(でもそれ言ったら、『分からされ』そうなんだよな……。黙っとこ)
心ではあれこれ考えるが、もしライバルが現れたら俺は絶対に彼を渡さないだろう。伸一郎さんが自分を捨てて他のところに行く想像をしただけで寝込みそうだ。
「はー。今日たくさん寝たから眠れないかも。夜……」
ぼやく俺の頭に顎を乗せてくる。
「映画とか観てていいぜ。俺は横になるけど、なんかあれば起こせよ? 我慢したらお前がどんだけ嫌がっても外でヤるからな」
「はーい。絶対起こします。湯呑で殴って起こすわ」
「破片でお前が怪我したら嫌だから、別のにしろ」
「……」
か、勝てない……。
就寝時間となり、彼はざっとシャワーを浴びて布団に入る。
夜中に遊びに来たことは何度もある。その際は俺が持ってきたアニメを見まくっているが、手ぶらで来てしまった。
真っ暗にした部屋で(伸一郎さんは部屋の電気つけててもいいと言ってくれた)映画を観る。彼がチョイスしただけあり、俺が選ばないようなものばかり。
それが新鮮で、気がついたら空が白んでいた。
ちらっと特に用もなく背後を振り向く。布団から足をはみ出したデカ男が眠っている。俺が声をかければすぐに起きそう……な予感がするため、彼に触れないように気をつけていた。
(でもそろそろ触りたいな)
まだちっとも眠くないが、自分用ではなく彼の布団に潜り込む。予想通り彼は「藤行?」と目を覚ましたが黙って腕に手を絡める。
「……」
彼も寝ぼけているのか寝返りを打つと、しっかり俺の頭を抱き込んだ。胸板にむにっと顔を押し付けられる。ボディーソープの奥に伸一郎さんの体臭を嗅ぎ取り、幸せな気持ちになった。
【おしまい】
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