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第58話 芹沢は見た

「そういえば、こないだyourfで馬鹿たれを施術してくれた綺麗な美容師さんを見かけたが、あれはモテモテな様子だったぞ」  ウウゥンと静かなエンジン音を立てて車を走らせていた芹沢が、ふと思い出したように希逢に伝える。希逢は耳をぴくりと尖らせて芹沢に問いただす。 「は? いつ。どこで」 「あー。たしか道玄坂のバーだ」 「バー?」  希逢はスマホを触っていた手を止めて1週間前の記憶を思い出す。たしか、希逢が迎えに行く前に由羽はバーで後輩と飲んでいたと言っていた。 「バーの名前は、バー三日月」 「……」  地図アプリの検索履歴に残っているのを見て、希逢の中に暗いモヤがかかる。それを払拭するために芹沢に白状させる。 「由羽がモテモテってどういうことだ」  虎の目のように鋭くなった眼光に芹沢は戸惑う素振りは見せない。希逢のマネージャーを担当してから1年の付き合いの中で、こういった場面にはたびたび出くわすことがあり扱いに慣れているからだ。 「隣に座っていたモデルみたいな容姿の男に口説かれてキスされてたぞ。やっぱ美容師はモテるんだな。とはいえ芸能マネージャーの俺にも出会いの確率は高いはずだが……いつになったら俺にも春が来るのやら」  ぶつぶつと愚痴を吐き出す芹沢の言葉に愕然とする。由羽が口説かれてキスされただと? そういうことがあったのに、その後由羽は何食わぬ顔で希逢と会い、脈アリアピールをして添い寝までした。ブチンと頭の奥が爆ぜる。由羽の言動に苛立ちをつのらせる。なんだったんだ。あの晩は。てっきり好き同士のやりとりだと思っていたのに。これは即確認案件だ。希逢は由羽に数件のメッセージを送る。 『ねえ、あの日バーで飲んでて男に口説かれてキスされたってほんと? 芹沢が見たらしいんだけど』 『なんで俺に言わなかったの。ショックなんだけど』 『直接話したいから電話できるとき教えて』  と、立て続けにメッセージを送るが仕事中なのか既読はつかない。運転席に座っている芹沢は、何か希逢の地雷を踏んでしまったのやもしれぬと己の口の軽さを猛省する。そして、希逢がカチカチとネイルの先でスマホを叩いている音を聞いて、これはさぞかしご立腹の様子だなどと観察さえしている始末だ。芹沢は心の中で由羽に謝罪する。『由羽さん申し訳ありません。きっと馬鹿たれから鬼メッセと鬼電の嵐かと思います。どうか生き延びてください。嵐というものはいつかは過ぎ去るものです』 「ちっ。クソっ……はぁー」  2時間経過しても由羽から既読はつかない。イライラして5回ほど電話をかけたがそれも出ない。冷静に考えれば、由羽は今仕事中でスマホが見れないとわかるはずなのに、希逢の気性の荒さゆえに盲目になっている節があった。希逢は今日、メンズアパレル雑誌のモデル撮影の日だった。化粧をされているときも、衣装を合わせているときも頭の中は由羽のことばかり考えてしまう。仕事中だ、切り替えろと自分に言い聞かせても、より意識してしまいカメラマンから 「希逢くん。今日なんか不機嫌? 今回の撮影のテーマはバレンタイン特集のファッションだから、愛おしい人を思い浮かべてハートフルな表情で頼むよ」  と指示され、渋々「はい」と答えて不機嫌さをなるべく出さないように爽やかな営業スマイルを浮かべて撮影に臨んだ。その代わり、どっと疲れて帰りの車では夕寝をしてしまった。

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