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第3話

 この若者はまちがいなくロバート・ブリッジを襲った男だとハイドは見抜いていた。特徴に一致するし、客を待つ男娼であるのも確かなようだ。ロバートは情事の最中に相手から噛みつかれ、首の肉をえぐられ失血するという惨事に遭ったという。彼は血まみれになって思わず叫び声をあげ、安っぽいホテルの寝室を飛び出て浴室に避難した。しばらくしておそるおそる寝室に戻ったとき、男娼の姿は影も形もなかった。  ロバートは服を身につけると血まみれのままホテルを出て、病院に直行した。傷口はそこにつけられた歯形がわからないほどぐちゃぐちゃになっていて、彼は医者に「飼い犬に噛まれた」と伝えた。ロバートは弟にだけ怪我の原因を話した。退院したのはつい昨日のことだった。  まず重要なのは――ハイドは頭の中を整理する。  さらに確実に、この青年がロバート・ブリッジに危害を加えた人間であると証明すること。本人から話を聞きだせれば都合がいい。それから、青年が本物の吸血鬼であるのかどうか確かめる。もちろん、ハイドは本物の吸血鬼に出会ったことがない。空想上の生き物、病と死に対する無知が生んだ生き物だと思っている。それでも、一夜の行為の代償に血を要求するところは興味深かった。  医者の卵だろうか、とも思う。医科大学の人間たちが、無頼の者にたのんで解剖に使う遺体を墓から掘り出させていた話は有名だ。なんらかの理由で人間の生き血を集めているのだろうか、とハイドは考えた。  もし本物の吸血鬼なら、ロバートはその首を切り落とし心臓に杭を打ち、肉体を燃やしてやるのだと息巻いているらしい。  ハイドの隣を歩きながら、青年はまっすぐ伸ばした背筋を崩さない。精悍な顔つきで前を向き、重々しい足取りで歩くさまには隙がなかった。  すすけた大通りを曲がり歓楽街の賑わいとは離れていきながら、ハイドは声をかける。いくらだと尋ねられ、青年は隣を振り向いた。凍えるような夜、彼は青ざめて口を開いた。 「金はいりません」  そうつぶやいて目を伏せ、また前を向く。暗がりに、ハイドは隣を歩く若者の睫毛が長いことに気がついた。繊細なかんじはするが、それが意志の強そうな彼の雰囲気を和らげているわけではない。青年はまたハイドのほうを向き、言った。 「あなたの血を分けてほしいんです」  ハイドはうなずき、微笑みを浮かべてささやいた。 「そういうプレイが好きなのか?」  青年は顔を背け、無言になる。ハイドは彼がかすかに頬を赤らめたのに気がつき、なぜかそれに胸を打たれた。ハイドは「いいよ」と答え、青年の腕を引いた。 「ハンサムをつかまえるよ。ぼくの家に行こう。そうだ、遅くなってしまったが――」ハイドは辻馬車を呼びとめると機嫌よく御者に手を振り、青年のほうを振り返った。「ぼくの名前はハイドだ。きみは?」 「ウィルクスです」  かすかに微笑んで青年が言った。ハイドはうなずいた。ブリッジに聞いた名前と一致する。どうせ偽名だろうが、使い捨てではないらしい。 「ウィルクス君」ハイドは屈託なく言った。「よろしく。ぼくみたいなおじさんでもいいか?」  ウィルクスは目を伏せて眉を吊り上げたが、もう一度ハイドを見るとかすかに微笑んでうなずいた。 「あなたは魅力的ですよ」  どこかはにかむように言った彼の肩を軽くたたき、ハイドはありがとうと笑った。 ○  ストランド街にハイドが構えた探偵事務所兼自宅は、地下一階、地上三階立ての角ばった煉瓦づくりの建物だった。建てられた十九世紀初期にはそれなりに現代的なデザインの家だったが、現在はどことなく色あせている。玄関に外灯がついているが、窓の中に灯りは見えない。住みこみで働く使用人の老人と、通いのメイドはこの夜から二日間休みを与えられていた。ハイドは玄関を開け、廊下に灯りをともすとウィルクスを招きいれた。木の階段をのぼりながら、ハイドは青年のほうを振り返らずに言う。 「飲み物を飲んであたたまらないか?」  ウィルクスは首を振った。 「どうぞおかまいなく」 「ぼくは飲むけれど、いいか?」 「ええ。もちろんです」  ハイドは扉を開けて電気をつけ、事務所兼居間にウィルクスを通した。座るように促すと彼は暖炉から遠い椅子に腰を下ろそうとしたので、ハイドは気がついて呼びかけた。 「火を入れるから、暖炉のそばに座ったほうがいいよ。寒いだろう?」  帽子とマフラーを脱ぎ、ハイドはそれをコート掛けにコートと共に掛けた。ウィルクスのコートも受けとる。青年は首を振った。 「おれは寒くありません。ここで大丈夫です」 「そうか? ぼくは暖炉のそばに行くが……」  ハイドは壁際のサイドボードに向かいあうと、ガラス戸の奥からポートワインのデカンタを取りだした。切子のガラス細工が明かりを受けて光る。彼はグラスに一杯注いだ。 「ほんとうに、なにもいらないかな? ぼくはワインを飲むよ。酒は苦手?」  振り向くと、ウィルクスはいささか緊張した面持ちで姿勢よく椅子に腰かけていた。ハイドと目が合うと、彼は首を振った。 「お気遣いありがとうございます。でも、いりません。……もし水があれば、いただけますか」  ハイドは水差しからグラスに水を注ぎ、ウィルクスに渡した。彼は礼を言って受けとった。ハイドはワインを一口飲むと、グラスの中身をウィルクスの目の前にかざした。キリストの血に例えられるように、ワインは濃い赤い色をしていた。ハイドがグラスを回すと中の液体も揺れ、ウィルクスは催眠術師のコインから目を逸らすように視線を伏せた。  火を熾すためハイドは暖炉に近寄り、ウィルクスに背を向けた。青年は片手で椅子のひじ掛けをつかんでいた。 「きみの仕事はわかっている」ハイドが火掻き棒で炉床を探りながら言った。「こうやって、本題に関係ないところで夜じゅう拘束するつもりはないよ。時間は?」 「今夜一晩」  ハイドはうなずいた。彼は振り向き、「暖炉に火を入れる時間はないようだね」と言った。ウィルクスは水を一口飲み、目を細めた。 「人を買ったことはありますか?」  ハイドはマントルピースの上に置いたグラスをとり、ワインを一口飲んだ。 「使用人は二人いるが、それは『買う』ではなくて『雇う』だね。父の若いころは、家に金で買った黒人の使用人がいたそうだが……。きみが言いたいのは、金で春をひさぐ人間を買ったことがあるか、ということだね?」 「ええ」ウィルクスは静かに答えるとグラスをそばのテーブルに置いた。「ありますか?」 「ない。女性もないし、男性を買うのもこれが初めてだ。とてもプライベートでデリケートな問題だから、きみも……」 「もちろんです。秘密は守ります」  ハイドはありがとうと言って背中をマントルピースに押しつけ、やや遠くに座る青年を見下ろした。 「男と寝るのも初めてでね。これでも緊張しているんだ」 「そんなふうには見えませんよ。とても慣れているように見える」 「そうかな?」ハイドは目を丸くして自分の頬を擦った。 「きみこそとても男娼には見えない。堅そうだし、きびきびしていて有能な将校や、私服刑事みたいだ。いや、しかし食っていくのは大変だな。なんとか自分でできる方法で稼がないことには……」 「病気はもってませんよ」  ハイドの言葉に本来はない意図を読みこんで、ウィルクスはやや必死で言った。 「手当たり次第誘ってるわけでもありません。だから、大丈夫です」  ハイドは彼のこわばった顔をまじまじと見つめると、胸の前でワイングラスを揺らした。ウィルクスの目は釘付けになり、しかし彼はまた逸らした。低い声でささやく。 「そろそろ、行きませんか?」  そうだな、とハイドはつぶやいた。彼はウィルクスの向かいの椅子に腰を下ろした。青年が視線を上げる。探偵は尋ねた。 「血を分けてほしいと言ったが、どうすればいいんだ? 注射器で抜きとるとか?」 「首の血管に歯を立てて、もらいます」ウィルクスは焦げ茶色の瞳を細める。「決して痛くしませんから、安心してください。暴れて変なところに刺さらなければ。ときどき、そういう意気地なしがいるんです」 「きみの歯はそんなに鋭いのか? ぼくと変わらないように見えるが」  ウィルクスは椅子から立ちあがった。絨毯の敷かれた床を音を立てずに歩くと、ハイドの前に歩み寄る。探偵は青年を見上げた。黒い影が覆いかぶさると、ハイドの体はその中に隠れた。

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