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サヨナラの前の忘れ物 3
渡した名刺と、告げられた名前。
彼より先にホテルを出る時、俺がテーブルの上に置いていった1万円札は役目を果たしてくれたのだろうか。
合意の上での行為だったのか、金銭のやり取りを含んだ行為だったのか……そもそもどちらから誘い誘われたのかも不明な昨日の出来事を、俺はとりあえず置いていった金で全て忘れようとしていた。
目には見えない不確かなもの。
そんなもので溢れているこの世界の片隅で、昨日の俺は名も知らない誰かと肌を重ねただけだからと。一夜限りの関係だと、今までもそうだったじゃないかと。
俺はそう自分に強く言い聞かせ、桜も散って爽やかな風が吹き抜けていく五月晴の空模様を見上げた。眩しく感じる太陽の光が、俺の全身を照らすけれど。歓楽街のど真ん中で浴びる清らかな陽射しは、俺の心を抉っていくばかりで。カラッとした清々しい青色の中に、俺は一際淀んだ溜息を零すしかなかった。
忘れたはずの過去なのに、曖昧な記憶と共に蘇ってくる6年前の出来事を思い出し、身体に残る痛みに受け入れる側の苦労を知る。
好きだった人、どんなワガママでも聞いてあげることができるのではないかと思っていた相手。俺が大学生の時に出逢ってできた同い年の彼女は、笑顔が可愛くて、とても優しい人だったのに。
お互い社会に出ることがなければ、学生のままでいられたのなら……きっと、俺から彼女が離れていくことはなかったんだろうけれど。
俺だけが、彼女との交際は順調だとばかり思っていて。俺だけが、彼女との結婚を真剣に考えていて。互いに社会人になって1年が過ぎ、婚約まで交わしていた彼女から俺は突如別れを突き付けられた。
どんなに人を愛していても、いつか終わりがくることを知って。どんなに傍にいてほしくても、それを相手が望まければ関係は途切れてしまうことを知って。
……もう恋なんてしない、と。
恋愛はしないと決めて、当時の俺は全てを彼女の所為にした。今思えば、悪いのは全部俺なんだけれど。
仕事に必死で、彼女の誕生日を祝ってやれなかった自分。クリスマスも、付き合った日の記念日も、いつも一日遅れだったこと。
俺が抱きたい時に、俺は彼女を抱くだけ抱いて。彼女が仕事で悩んでいた時に、俺は自分の仕事が忙しいからと彼女の話すら聞いてやらなくて。彼女の心が徐々に俺から遠ざかり、他の男に向いていたことにも気付かずに、俺は彼女の隣で笑っていたから。
彼女から別れを告げられ、漸くそのことに気付けた時。彼女が最後に流した涙の理由をなんなく理解できたけれど、俺は彼女に何ひとつ謝罪ができないまま彼女の背中を無言で見送ることしかできなかった。
彼女の優しさに甘え、自分自身に甘えていた。
だから俺は、彼女がどんな時でも俺を受け入れてくれることを望んでいた。でも、それは結局俺の独りよがりな愛情に過ぎなかった。
彼女のワガママならいくらでも聞いてきたし、それが女性の特権だと思ってやってきたのに。ささくれのように手強く痛む心の傷はなかなか癒えてはくれなくて。
彼女のことが忘れられず、真面目に生きていくのに疲れ果てていたそんな時だった。もう恋なんてしないと、遊びなら誰でもいいだろうと。彼女と別れて間もなく、俺は酒に溺れ、名も知らぬ男に抱かれたのがおそらく1度目の相手だ。
そうして、女の相手が出来なくなった俺は一夜限りの過ちに溺れ、今日も癒えない傷を傷で塞いでフラフラと生きている。
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