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サヨナラの前の忘れ物 2

広いホテルの一室に取り残されなかったのは、今日が初めてだ。 身の上話をするのは好まないけれど、俺がこうしていつも通りではない朝を迎えたのはこれが3度目で。酒が弱い俺は、何度かこのような事態に遭遇している。 1度目は、朝起きたらテーブルの上に丁寧な字で書かれた小さなメモと紙幣が残っていて、俺を抱いたはずの男の姿は残っていなかった。ただ、そのメモに残された言葉とホテルの室内に漂っていた移り香は今でも記憶にあって。 2度目は、1度目とは違い、物も人も残っていなかったから2度目の記憶は全くないに等しいのだけれど。 そういえば、この部屋にいる3度目の男も『最初の人』と同じ香りがする、と……僅かな記憶を頼りに思い出した過去と今を重ね、いつまで経っても酒に溺れて成長しない自分自身に失笑した。 ……俺は、女性が好きだったはずなのに。 取り戻せない過去に、思い出したくもない思い出に縛られ、やり切れないいくつもの感情を抱えたままの日々を過ごすのは辛過ぎて。 明日を見失いかけた昨日、その時間を手繰り寄せるように俺はホテルのソファに腰掛け身支度を整えてゆくけれど。 「……顔に似合わねぇ苗字してんな、隼ちゃん」 俺から奪い取った名刺を眺めつつ、ニヤリと笑った男。そんな彼は、未だに裸のままベッドの上でタバコを銜えていて。態度も、表情も、その全てに苛立ちを感じた俺は、ネクタイを結ぶ手を止め彼に向き直った。 「僕が一体どんな顔をしていたら、竜崎が似合う顔になるんですか。逆に聞きますけど、僕がどのような苗字なら貴方は納得してくれるんですか」 「お前、一人称戻ってんじゃん。敬語も、僕呼びも、それは仕事モードな隼ちゃんなワケ?」 彼は、俺の何を知っているというのだろう。 ただセックスをしただけの関係、それ以上でも以下でもないこの男に、俺は興味なんてないのに。 一人称を使い分けるのは、俺の癖のようなもの。他人との距離を計るための敬語も、仕事モードと言われればそうなのかもしれないが、コレと言って理由があるわけではないから。 「あの、人の話聞いてます?というより、気安く下の名前で呼ばないでもらえませんか」 癇に障ることを一々言ってくる彼に、俺は大人げなく嫌な顔をして口を開いたけれど。 「苗字なんてなんでもいいだろ。それに、昨日はお前が勝手に俺に名前教えてきたんだぜ?気安く呼ぶように仕向けたのは、俺じゃなくてお前だ」 ……なんとも、噛み合わない会話。 先に苗字の話をし出したのは彼のはず、それなのに何故か話題を変えられてしまった。 「不満そうな顔しちゃって、言いたいことがあんならハッキリ言えよ。あー、こんなクズ野郎にケツ穴貸したなんてマジ最悪ぅー、とか」 「いや、そこまでは思っていません。ただ、容姿は頗るいいのに中身が残念な人だなと……発言が卑猥ですし、貴方と話していても会話が成立しないと判断しただけです」 大人げなく返しても彼には意味がないことを、この少ない会話で俺は学んだから。それならなるべく大人な対応をと思い、俺は身支度を整え意見を述べた。 すると、彼のふざけた態度が一変し、彼が纏っていた空気が急激に変わって。 「……飛鳥、白石 飛鳥(しらいし あすか)だ。三度目はねぇから今のうちに俺の名前覚えとけよ、酔っ払いのド変態野郎さん」 鋭く刺さるような視線、自信に溢れた笑み。 サヨナラの前に告げられた名はおそらく、昨夜の俺の忘れ物。

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