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サヨナラの前の忘れ物 6
「いらっしゃいませ、お客様」
電池が切れたような身体を無理矢理引き摺り事務所を出て、俺が向かった先は家ではなく昨日訪れていたはずのとあるBARだった。
今日一日の間で、忘れようと何度も思った昨晩の出来事。それなのに、忘れるどころか吸い寄せられるようにして、俺は重いBARの扉を無意識に開いていたから。
「とりあえずビール……じゃない、えーっと、シンデレラをお願いできますか?」
空いていたカウンターの席に腰掛け、昨日の過ちを繰り返さない為に、俺は自分が唯一知っているノンアルコールカクテルを注文した。すると、若いバーテンダーの男の子が俺に向かいにっこりと笑顔をみせてくれたのだ。
パーマがかった赤茶色の明るい髪色と、どう見ても左の耳朶を貫通しているようにしか見えない安全ピンを付けた男の子。見た目はかなり若そうだし、それに加えてチャラそうな彼の雰囲気に俺は一瞬、戸惑ったが。
俺を見て笑った彼の表情が何処か幼く、そしてなんだか頼もしい笑顔だったため、俺は戸惑いを安堵に変えて小さく深呼吸した。
……そういえば、この店のチャージ料は一体いくらかかるんだろう。
普段はBARに足を踏み入れることがない俺でも、多くのBARでは客が着席した時点で席料が発生することくらい俺でも知っている。しかし、店によってチャージ料金は異なるし、ノーチャージで席料をサービスしてくれる店もあるから。
この店の落ち着いた外観の雰囲気に魅せられ、昨日が初来店だった俺。だが、来店したことは記憶にあるけれど、その後の記憶がない今の俺にとっては結構気になる問題で。
カウンターを挟んで向かいにいる男の子の少しぎこちない動作を眺めながら、昨晩の席料も飲み代も全て、三度目の彼が支払ってくれたことに俺は今更気がついたけれど。
「あの、昨夜は大丈夫でしたか?」
「え?」
シェイカーに三種類の果汁ジュースを入れてゆく男の子の手元をぼんやりと見つめていた俺は、男の子に突然声を掛けられて動揺してしまうが。
やはりぎこちない手元とは裏腹に、男の子はしっかりとしたバーテンダーとしての振る舞いをみせて。
「お客様の個人的なお話を聞き出すのはタブーだと思ってはいるんですが、その……昨夜は随分と酔われていたようでしたし、その状態のままお客様はうちの常連さんに連れられていってしまったので」
昨日が一見さんだった俺のことを覚えていた男の子の記憶力に感心し、自分の記憶力の情さなを痛感した俺は、シェイカーを振る男の子の姿を瞳に映し口を開く。
「そうなんですね……お恥ずかしい話ですが、僕は酒にかなり弱くて。昨日、この店に来店したことまでは覚えているのですが、その後の記憶がないんですよ」
自分より何歳下かも分からぬ相手に話すことではないと分かっていても、こんな俺を心配してくれる男の子の優しさに、俺の気はつい緩んでしまったけれど。
「あー、なるほど。それじゃあ、俺の魔法にかかってみる気はありませんか?」
カシャカシャと一際大きな音を立てて鳴っていたシェイカーの動きが止まり、そう言った男の子の言葉の意味が理解できない俺はオウム返しのように聞き返す。
「……魔法、ですか?」
「ええ、お客様の記憶が少しだけ蘇る魔法をかけておきました……どうぞ、シンデレラです」
カクテルグラスの中で光る金色の液体、男の子がシェイクしたこのカクテルに魔法なんてかかっているはずがない。俺はそう思いつつも、半信半疑で差し出されたカクテルに手を伸ばしていた。
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