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サヨナラの前の忘れ物 9

昼中は汗ばむくらいに暖かいのに、店内から一度外へと出てしまえば身を震わせたくなるような寒さに包まれる五月の夜。街灯の光りを頼りに店から少しだけ離れた電柱に凭れ、通話を了承した俺は持っているスマホを耳に当てて声を出す。 「……もしもし」 『こちら、竜崎さんの携帯でお間違いないですか?』 「はい、そうですが……」 連絡帳に番号が入っていない相手からの電話、仕事関係の連絡をスマホで請け負うこともあるため、俺は相手が名乗るのと同時に用件を待った。 すると、何処かで聴いたことのあるような声が電話越しから聴こえてきて。 『私、白石と申します。今朝は大変お世話になりました。竜崎さんには折り入ってお話したいことがあるのですが、ご都合の良い日はございますか?」 ……白石、まさか白石って。 でも、俺が今朝話した相手はこんなにまともな人ではなかったはず。同性で同じ苗字の別人という可能性だってあるとは思うが、俺がホテルで世話になった相手といったらそれは一人しかいなくて。 「いや、あの……僕はっ」 もう貴方に会うつもりはない、と。 ハッキリ言葉にしようとした時、電話越しで僅かながらに生々しい吐息が聴こえてきたような気がした。 何かを耐えているような、少しだけ早い息遣い。喉の奥で声を殺して、吐き出す吐息にやたらと色気が混じって聴こえて……その声のない音を聴いた俺の胸が一瞬、ドクンと大きく跳ね上がってしまったから。 言おうとした言葉が俺の口から出てくることはなく、俺は言葉を失ったまま、無意識に電話越しの音に集中してしまった。 記憶にはないはずなのに、何度も彼の音を聴いたような感覚が全身を駆け抜け、外に出て寒いと思っていた身体はあっという間に熱を持つ。 僅かな吐息と、深い琥珀色の瞳。 その二つが俺の頭の中で徐々に重なっていき、途切れた記憶の中の破片が一つ、俺の元に落ちてきて。 ……飛鳥、もっと。 昨日の俺は、彼にそう呟いて。 強請るように、甘えるように、彼の首に腕を回していた。彼の瞳に映る俺のそんなはしたない姿だけが、切り取った写真みたいに鮮やかに蘇ってくる。 そしてソレは、俺の身体に快楽という名の深い爪痕を残したまま消えてはいないことに気がついて。今、俺は彼の呼吸音に少なからず興奮しているのだと……俺がそう自覚した頃には、時すでに遅し状態で。 電話越しの彼が一人ではないことを告げる女性の声がし、俺は彼が今している行為を想像してしまうのに。 『……竜崎さん、もしかして俺のこと、もう忘れてしまったんですか?』 俺が吐いた小さな溜め息の後を追うように、電話越しの彼は俺に問い掛けてくるけれど。 忘れるどころか嫌なことまで思い出してしまい、挙げ句の果てに俺は今、貴方の息遣いで発情しそうでどうにかなりそうです……とは、口が裂けても言えなくて。 「白石飛鳥さん、ですよね」 とりあえず、彼を忘れていないことだけを伝えるために口を開いた俺は、今日知ったばかりの名を口にした。 『覚えていていただけたようで、安心しました。それでしたら、来週の金曜日、22時に前回お会いした場所でお待ちしております』 「……は?」 『お忙しい時間にも関わらず、ご対応頂き感謝いたします。それでは、失礼いたします』 「え、あ……ちょっとッ!?」 彼の声が消え、機械的な音だけが響く。 一方的に話をされ、一方的に切られた電話。何がどうなっているのかさっぱり理解できない彼の言動に、俺は今日一日振り回されているだけだった。
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