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目には見えない不確かなもの 18
「……へぇ、結構キレイにしてんじゃん」
思っていたより散らかっていなかった隼の家内、部屋に対して物が少ないからなのだろうけれど。ゴミが散乱していることもなければ、脱ぎ捨てた服が放置されているわけでもない部屋は、単純にキレイだと思った。
ある一点を除いては。
「そっか、ありがとう」
俺から洩れた感想に、へらっと笑う隼ちゃん。その姿は、少年のようで何処か幼いが。
キッチンのカウンター上に視線を向けると、60cm程の水槽の中に濾過フィルターやら、流木やらが無造作に置かれていた。生体がいる雰囲気はなく、水も入っていないくたびれた印象の水槽。
まるで隼の過去を見せつけるように残された水槽をぼんやりと眺めていると、俺の視界に隼本人が入り込んでくる。
「そんなに見つめても、この中にはもう何もいないよ……俺の心と同じだ、だから捨てられないままなのかもしれない」
「ふーん、戒め?」
「みたいなものなのかな。この家がその水槽だとしたら、彼女はそこにいた熱帯魚だったんだよ。俺独りじゃ維持できないと分かっていたなら、最初から飼育なんてするもんじゃなかった」
そこにまだ魚が生きているかのように水のない水槽に手をつき、隼はなんとも儚い後ろ姿でその言葉に哀しみの色を添える。
その背中を抱いてやり、水槽に触れる隼の手をなぞるように俺は指先を絡めていく。
「……どんなの、飼ってた?」
逃がさないように隼の左側から右肩を掴むと、重なった手を振り解くことのないまま、隼はゆっくり呟いた。
「ネオンテトラとコリドラスパンダ……ネオンテトラは青と赤のラインが綺麗な熱帯魚、コリドラスは小型ナマズの仲間で、パンダって名前の通り白黒柄の可愛い子」
「どっちもちっせぇヤツらか?」
腕の中にいる俺より小柄な男に問うと、隼の頭はこくりと頷いた。
「そうだね、小さい子たちを40匹くらいで飼育してたよ。ネオンテトラはサムライブルー、コリドラスはサッカーボールみたいで、本当にキラキラして綺麗な水槽だった」
「なるほど、けど今は空っぽなワケだ」
「アクアリウムって、維持するのにそれなりのメンテナンスがいるんだよ。仕事ばかりで彼女すら構えなかったのに、趣味を楽しむ余裕なんてなかったから……彼女がこの家を出た後、生体は生ゴミになってしまった。俺が、殺した」
その言葉で水槽から離れた手は俺の腕を掴み、そこに入る力加減で隼がどれだけ悔いているのかを理解してやることができた。
「元々、日本古来の生体じゃない生き物は自然に還してあげられない。ゴミとして処分してやる方が、今後の生態系を脅かすことがないから。飼育者の務め、だった」
自分を可愛がれないヤツが生き物を飼育している時点で、遅かれ早かれ無理が出る。それでも、彼女と2人なら……と、隼がこの水槽を立ち上げた時、そんな淡い期待も一緒に込めていたんだろう。
「……アクアリウム、今でも好きか?」
「え?」
「後悔してんだろ。恋愛も、この水槽も、俺には分んねぇけど、お前はこのままでいいのかよ?」
「初めて、言われた……そんなこと」
……明日起きたらぜーんぶ忘れてるクセに、イイ顔すんじゃねぇか。
驚きと戸惑いが混じり合った幼い表情で俺を見上げる隼は、普段大人で隠している感情を露わにする。
「好きだよ……俺は、本当は次に進んでみたい。この水槽も、自分自身も……だから飛鳥、俺はっ」
「俺に飼われてみるか、隼ちゃん?」
人のネクタイを使って背伸びをし、頬に口付け笑った男からの回答は沈黙だった。
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