5 / 110
再逢 (1)
「尚、起きろよ、今日早番だろ」
寝室にしている八畳の和室の戸襖を開けると、先週入れ替えたばかりの畳の匂いが悠臣の鼻腔をくすぐる。
「ん〜、……もうちょっと」
「ならもう先に食べて出るぞ。仕事遅れんなよ」
「待って!起きる」
和室に置かれたダブルベッドの上で気怠げに身体を起こすと尚行は大きな欠伸をした。そのまま一分程ぼーっとした後、ようやくゆっくりとベッドから降りて隣接するダイニングに行くと、悠臣はすでにバターを塗っただけの食パンを齧っていた。
尚行は悠臣の正面の席に座るとまだ眠そうな目で悠臣が入れてくれたコーヒーを一口飲む。
「悠臣、今日何時頃仕事上がれそう?」
「あぁ、俺今日と明日泊まりの出張だから。昨日のシチュー冷蔵後に残ってるから全部食っとけよ。明日も帰りは早くて夕方か、多分もっと遅くなる」
悠臣の一言でようやく目の覚めた尚行は目を丸くする。
「はあ?聞いてねーよ」
「だから今言ったろ」
「明日土曜日なのになんで仕事なんだよ」
「今日午後から本社で打ち合わせと明日は向こうで食品イベントがあって、うちの会社も参加してるから元々本社勤めだった俺が応援に回されたんだよ」
「んなことどうでもいいわ、明日の朝どうすんだよ」
土曜日なのになんで仕事なんだと自分が聞いたくせにどうでもいいとは何だ、と思いながらも時間の無い朝から言い争うのも面倒なので受け流した。
「自力で起きろよ、明日は遅番だし大丈夫だろ」
バターがしっかり染み込んだ食パンに齧り付きながら尚行は恨みがましい目付きで悠臣を睨む。
「……朝電話して」
視線を逸らして尚行はぼそっと呟くように言った。
「はいはい、今くらいの時間しか無理だけど、それでもいいか?」
「……うん」
まだ不満げではあるものの、少しは怒りがおさまったようだ。
「じゃあ俺もう出るから、食器片付けておまえも遅れずに出ろよ」
悠臣は自分が使った食器をシンクに置き、軽く水につけてから仕事用のバッグを手に取るとすぐに玄関へ向かった。綺麗に揃えられた革靴を履いていると少し遅れて付いて来た尚行が悠臣のすぐ後ろに立っている。
「……行って来ます」
「行ってらっしゃい」
まだ少し眠そうな尚行に苦笑しながら悠臣は家を出た。
――随分懐かれたな。
駅までの道のりを歩きながら悠臣はこれまでのことを振り返ってみた。
出張で訪れた地で尚行がフロントマンを務めるインスト・バンド“Southbound”の路上ライブを偶然観て、その後に行ったバーで尚行と会い、少しだけ会話をしたあの日から四ヶ月後、会社の人事異動で悠臣の転勤が決まった。転勤有りの会社だとわかった上で入社していたからさほど動揺はしなかったが、全国各地にある営業所の中でまさかこの地に決まり、この街に移住することになるとは、当たり前だがあの時は想像もしていなかった。
新しい土地での新しい人たちとの仕事にもようやく慣れて来た頃、久しぶりにSouthboundのライブ情報がSNSに上がった。金曜日の夜、時間は20:30から、場所は以前と同じ。
休日出勤を避けるためにギリギリまで残業してから適当に入った牛丼屋で軽く夕食を済ませ、あの日と同じ駅前の大通りを一人で歩く。時刻はまもなく20:30になろうとしている。見えてきた広場前にはすでに人が集まっていて、その視線の向こうではメンバーが機材のセッティングをしているようだ。歩くペースを少しだけ速くして悠臣が観客の輪に加わると程なくしてメンバーが音を出し始め、サウンドチェックから極自然な流れでライブがスタートした。
初っ端から全開の尚行のギターに一瞬で心を持っていかれる。
――やっぱ、とんでもないな。
尚行のような男とは関わらない方が良い、バー「Strange Brew」からの帰り道、悠臣は確かにそう思っていたはずだった。だけどもう、その時点でとっくに手遅れだった。
出張を終え自宅に戻り、Southboundと検索して見つけたライブ動画は片っ端から観た。売れる気は微塵も無さそうだったので少し意外だったがスタジオ録音されたオリジナルの音源も配信されていて、関わらなくても一方的に聴くくらい良いだろうと、以来毎日のように聴いていた。
それで十分だ、そう思っていたはずなのに、ここへ来て、自分がどれだけこの男が奏でるギターの音を欲していたか、嫌という程痛感させられる。それと同時に、とうに忘れたはずの劣等感や焦燥感を呼び覚まされる。そんな自分を誤魔化そうと無意識に笑ったところで悠臣はライブ中の尚行と目が合った、気がした。
ロード中
ともだちにシェアしよう!