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歪み (1)
明けて翌日の土曜日、午前八時半、悠臣はいつものように合鍵を使って尚行の家に入ると二人分の朝食を用意していた。コーヒーメーカーのスタートボタンを押し、尚行を起こしに行こうとしたタイミングで寝室のドアが開いてまだ眠たそうな顔の尚行が姿を見せる。
「珍しいな、自分で起きてくるなんて」
「まあ、たまには、……つーか来てたんだ」
「……お前が来いって言ったんだろ」
悠臣の言葉を無視してコーヒーがまだ抽出途中だとわかると尚行はダイニングテーブルにはつかず、ソファに座って煙草に火を付ける。その姿を見て悠臣は昨夜の出来事を改めて思い出した。
「昨日泊まらなかったんだな」
「莉子?泊めるわけねーじゃん、あれから一時間くらい喋って帰らせたよ」
その後『明日の朝起こしに来て』と尚行から連絡があったのでそんな気はしていた。
「久しぶりに会ったんじゃないのか?泊まってゆっくりしていけば良かったのに」
「あいつの愚痴と説教に一晩も付き合ってらんねーよ。だいたいこの家に他人泊めるのあんまり好きじゃねーし」
「姉弟なんだから他人じゃないだろ、近所に住んでる俺にはしょっちゅう泊まってけって言うくせに……」
笑ってそう言いかけたところで悠臣は口を噤む。どういう意図があってこれまで尚行がそう言っていたのか、ここへ来て悠臣はようやく理解した。
「やっとわかった?つーか昨日の、一応伝わってはいるんだな。なんか悠臣いつも通りだからちゃんと伝わってねーのかと思ってた」
「……伝わってるよ。だいたい、いつも通りにしてって言ったのはおまえだろ」
悠臣がコーヒーを二人分カップに入れてテーブルに置くと、煙草を一本吸い終えた尚行が席に着く。
「で、あれから考えた?」
躊躇うことなく真っ直ぐ視線を向けてくる尚行に気圧されて悠臣は思わず目を逸らしてしまった。
「考えたよ、あれもこれも。おかげであんまり眠れなかった」
「マジか、俺のこと考えて眠れないとか最高だな、言った甲斐あったわ」
笑いながらそう言う尚行に少しむっとしながらも、同時にいつもと変わらない気安いやりとりに悠臣は安堵した。
「けどまあ、そっちは昨日も言ったけどすぐに答え出さなくていいし、今すぐ聞きたいのはベースの件」
ここへ来る前に悠臣が近所のパン屋で買ったたまごサンドを食べながら尚行は言う。
「念のため、もう一度聞くけど、本気で言ってるんだよな?」
「あたりまえだろ、音楽に関して俺は冗談言わねーし本気じゃなきゃ昨日の今日で来いとか流石に俺だって無理言わねーよ」
尚行が音楽に関して冗談を言わないのはわかるが、明日来いとか今から来いとか言われるのはいつものことだと思っていたので、多少は無理を言っている自覚はあったのか、と突っ込みを入れたい気持ちはあったが、尚行が本気で言っているのなら悠臣も真剣に話をしなければならない。
「真面目な話、俺はバンド辞めてからベースも機材も全部売って、本当にそれから一度も弾いてないんだ。一応言っとくけど、当時出てたジストニアの症状は、指弾きしてる時に右手の中指が巻き込んで思うように動かせなかった。今も同じ症状が出るのか全くわからないし、診断受けた時に完治するのは難しいとも言われてる。それに、ジストニアがどうって以前に、昨日も言ったけど六年のブランクがあってSouthboundのベースを弾くのは、はっきり言って無謀な挑戦だよ」
一度言葉を区切り、悠臣は尚行の様子を窺うが、尚行は何も答えず二つ目のたまごサンドに手を伸ばす。
「尚、聞いてるか?」
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