21 / 110

歪み (5)

   閉ざされた扉に向かって尚行は顔を顰める。 「……何だあれ、ムカつく」  独り言のような呟きは隣に座っているSouthboundのキーボード、小野塚歩(おのづかあゆむ)の耳にもしっかり届いていて、歩は堪え切れず笑ってしまった。 「ならなんでもないふりなんてしてないで、“浮気してんじゃねぇ!”っていつもの調子で詰め寄れば良かったじゃないですか。仕事終わって即来るくらい気が気じゃなかったんなら」 「いつもそんなことしねぇよ、……それに別にあいつは、そんなんじゃねぇし」 「啓太さんから聞きましたよ、今のところはまだ尚さんの片想いだって」  自分の知らないところでまたネタにされていることとか、“今のところは”とか“まだ”とかいちいち強調されているところとか、気に触る点はいろいろあったが、それ以上に今見たばかりの光景と片想いという現実がやけに胸に突き刺さって尚行にしては珍しく何も言い返せなかった。 「ま、そんな心配しなくても聞こえて来た限りでは単なる大学の頃の友人て感じでしたけどね」 「……ならそう言えよ」  尚行が働いている店の閉店時刻より少し前に歩は尚行にメッセージを送っていた。『尚さんの彼氏さんが男と二人でStrange Brewにいますよ』と。 「俺はライブの後とかに尚さんと喋ってんの見て顔覚えてたけど、向こうは俺に全然気付いてなかったから良い感じに盗み聞き出来ました」 「お前ライブの時と普段別人だからな」  今年二十七歳になる歩は普段はシステムエンジニアとして市内のIT企業に勤めている。細身の体型に仕立ての良いスーツが良く似合っていて尚行に引けを取らない端正な顔立ちをしているのだが、Southboundでは必ず深めのハットとサングラスを着用している為、どちらかの姿しか知らない人に気づかれたことは一度も無い。 「尚さん、あの人にベース弾いて貰いたかったから他全部断ってたんですね」 「……他のやつ、特に啓太には絶対言うなよ、弾ける確証ないからメンバーにはまだ言うなって約束だから」  悠臣がベースを弾く代わりに突きつけた条件、そのうちの一つがSouthboundのメンバーはもちろん、今はまだ誰にも口外しないこと。 「言いませんよ、でもその代わり何であの人、青木さんでしたっけ?ベース辞めてたのか、それだけは気になるから教えてもらえます?」  歩の真剣な表情を静かに横目で確認すると尚行は煙草に手を伸ばし、火をつけてから大きく一つ息を吐く。 「……ジストニア」  尚行の呟くような一言に歩は思わず目を丸くする。 「マジですか?」 「マジ」 「マジでジストニアでベース辞めた人に、ベース弾けって、言ったんですか?」 「……あぁ」  流石の歩も黙り込んでしまった。  悠臣と悟の会話を盗み聞きしていて、もしかしてと思っていたが、まさか本当にジストニアだったとは。  それでも、多くは語ろうとしない尚行が全部わかった上で言い出したことなので口を挟むつもりはない。そもそもSouthboundは尚行が全権を握る、尚行のバンドだ。尚行が納得しなければ動きようがない。ただ、自分はもう慣れたが、それに今最も振り回されている悠臣は大変だなと同情を禁じ得ない。 「まぁ、尚さんのやることに口出すつもりは無いけど、実際のところどうなんですか?さっきの二人の会話だとジストニア以前にブランク取り戻すのに必死って感じでしたけど」 「知らねぇ、会ってないし。……つーか、そっか、今そんな感じなんだ」 「え?会ってないんですか?啓太さんの話では毎日家に来て食事作ってくれて身の回りの世話全部やってくれてるんじゃなかったんですか?」

ともだちにシェアしよう!