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回顧 (13)

 ここは自分から折れて、両目に涙を浮かべ青い顔で立ち尽くしている沙織に優しい言葉の一つでも掛けてやればそれで済む、わかっていても、今の悠臣には出来なかった。  悠臣はスマートフォンと煙草を持って無言で玄関へ向かう。 「どこ行くの?」 「……ちょっと頭冷やしてくる」  慌てた様子で玄関まで追いかけて来た沙織に振り向くことなくそう告げて、悠臣はマンションを出て行った。  あてもなく夜の街を一人彷徨う。  沙織の少し強引な性格もはっきり物を言うところも嫌ではなかった。むしろ付き合いやすくて頼りにもなって、そんなところも可愛く思えて好きだった。  だけど大人になった今、付き合い始めた高校生の頃のように純粋な気持ちだけでは一緒にいられない。  気持ちに翳りが見え始めたきっかけは何だったのだろう、悠臣は思い起こそうとして止めた。  そんなこと考えたって仕方がない。どんなに願ったって過去にはもう戻れない。今を生きるしかないのに、昔の良かったことばかりをつい、思い出してしまう。  日付が変わる前にマンションに戻るも、寝室には入る気になれずソファで一夜を明かす。朝になって沙織が起きて来た物音で目を覚ましたが、寝たふりをしてそのままうとうとしている間に、支度を終えた沙織は仕事へ行くため部屋を出て行った。  十年付き合ってきて、喧嘩らしい喧嘩をしたことの無い二人は仲直りの仕方もわからない。  そしてタイミングを逃してしまい、お互い歩み寄れないまま迎えた週末、明け方に帰宅した悠臣は沙織の荷物が数点無くなっていることに気が付いた。沙織の姿も見当たらない。  出て行ったのだろう、即座にそう思い至ったが悠臣はどうする気にもなれなかった。  もう、どうでもいい……。  沙織が今何を思っているのかも、悠臣からの連絡を待っているのか、待っていないのか、これからどうするのか、ちゃんと向き合わなければならない、頭ではわかっていても悠臣の心が、身体が考えることを拒否していた。

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