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タイムスリップ(7)
浴場に入ると湯気と湿気に包まれた。
時間帯もあってか、おじさんやおじいさんが多い。
「まずはゆっくりあったまるか」
翔サンはそう言うと、浴槽の前でかけ湯をした。
俺も見様見真似でかけ湯をする。
そして浴槽に入ろうとして……。
「おい、そのまま入る気じゃねえだろうな?」
翔サンが鋭い声を向けた。
「えっ?」
「タオル。外して入れよ。浴槽に入れんな。最低限のマナーだぞ」
で、でも、よくテレビ番組とかでは腰とか胸に巻いたまま入ってるし……。こんなタオル一枚くらい見逃してくれても……。
などなど言っても、当然ながら聞いてもらえない。
「じゃあ、向こう向いて」
「はぁ?またか!」
「いいから!」
ブツブツ文句言いながらも明後日の方向を見てくれたのを確認して、俺はタオルを外すと浴槽に足を入れ……。
「あ、あつっ!」
湯温が思いのほか熱かった。
「どうだ?……ってまだ入ってないんかよ!」
「まだこっち向くな!」
慌てて股間を隠した。
「お前、肌も猫舌かよ……いや、猫肌か?意外と全身入っちまえば平気になるから、頑張って入れ」
再び明後日の方向に向き直りながらアドバイスしてくれた。
「う、うん……。あつっ、あちち。くーっ」
何とか入れた。ふぅ、と息をついた。
「入れたか?……つーかお前、そんな狭っくるしい格好で座らんでも足伸ばしていいんだぜ?」
体育座りの俺に呆れ顔で言う翔サン。
「いいんだよ、これで」
とにかく早く暖まって体洗ってサッサと出たい。
「もう……」
「おお!翔じゃねーか!こんな遅い時間に来たら補導されちまうぞ!ハハハ!」
「もう出たい」と言おうとした言葉がかき消され、威勢のいいおじさんの声が響いた。
「滝山のおっちゃん!おっちゃんの声でけーからみんな振り向いてんじゃん」
「そうかぁ?ハハハハ!つーかよ、おめーらの声もさっきからうっさく響いてたぜ。賑やかなガキどもがいると思ったら、翔だしよ。……で、このガキは、お前の弟か?」
「ちげーよ、ダチだよ。こいつ今、うちに居候してんだ。……なんか結構おっちゃんたちに『こいつは弟か?』って聞かれんだけどそんな似てる?」
ザバザバと入ってきたおじさんに場所を空けてやりながら翔サンは聞いた。
おじさんは頭に載せたタオルをどかし、キュッと絞ってから顔を拭いた。
「似てる似てる。隠し子か?って思ったくれーだし」
俺は思わずブッと吹き出した。
おじさんはこっちを一瞥し、再び口を開く。
「ま、翔の年からすっとありえねーかとは思ったけどさ。あんた、中学生か?中一にしてはデカいが」
「違いますっ。……高二です」
「はー……」
目が丸くなるおじさん。どうせ童顔だと言いたいんだろう。
「いやま、てっきり、ちん毛も生えてねーからそこだけ見ちまったわ。わりぃな」
「はっ……はぁ!??」
心臓が一瞬止まったみたいになって、全身が硬直した。
見られた見られた見られた!!
「え、ちん毛?お前、気にしてたのそれ?」
俺の様子で全てを察したのであろう。素っ頓狂な声を上げる翔サン。
「生えてねーの?」
「生えてる!」
「いや、ツルッとしたもんだったぜ」
「生えてます!……産毛程度ですけど……」
そう。なぜか俺の体毛はものすごく薄い。腕も足も脇も。そして陰毛も。
中学の修学旅行で同級生にそれがバレて以来、卒業までいじられ続けたことがトラウマで、大衆浴場嫌いになってしまった。
いつまでも子供みたいで、大嫌いな体。
……もう帰りたい。
しかし突然、翔サンが俺の頭をモシャモシャと撫でた上、ガシッと俺に肩を組んできた。
そして耳に口を寄せる。
「お前は体毛は薄いかもしんないが、頭の毛はモッサリ生えてる。絶対にハゲねえ。……逆に考えてみろ。体毛モッサリで頭頂部ハゲとどっちがマシか……!」
翔サンはコソッと、しかし確実におじさんの頭を指差した。
「おい、聞こえてるぞ、翔~」
おじさんはツルッとした頭を輝かせながら、翔サンを捕まえようとした。
「陽翔、逃げろ!洗い場直行!」
「う、うん!」
バシャバシャと浴槽から出る俺たち。
もう隠すことなんか忘れてた。
銭湯帰り。二人で静かな夜道を歩く。風が涼やかで、火照った体に心地いい。
翔サンが横でクククッと笑う。
「あーマジすげー笑った!」
「もー翔サンてば、ハゲの人見つける度に俺に目配せするんだもん!笑い堪えるの大変だった!」
「お前だってこっちチラチラ見ただろーが!同罪だ!……つーか今日やけにハゲ多かったぜ」
プーッと二人で吹き出した。
……そうだ、今なら悩みを言えるかも。
「あ、あのさ」
「ん?」
「俺、体毛薄いじゃん。頭の毛だけ無事っておかしくない?いつか、ハゲたらやだな……」
翔サンが俺の髪をクシャッと撫でて、立ち止まると俺の前に屈み込んだ。
「俺の髪触ってみ。なんかお前のと髪質似てる気すんだよな。俺の家系ってハゲいないんだぜ。オヤジもじいちゃんもフサフサでさ。だから、髪質似てるお前もフサフサでいられる!な!」
翔サンの髪と自分の髪を触り比べてみる。確かに似てる。……さすが、親子。言えないけど。
でもこの体毛の薄さは一体誰に似たんだろ?……母さん?どうだったっけかな……。
考えながら目の前の翔サンを見上げると、ちょうど視線が絡んだ。
あっ、と思う間もなく、翔サンの顔が近づき唇が重なった。
柔らかい。
ドキドキする。息が苦しい。キスの時、どうやって息すればいいんだ……?
数秒間、唇を唇でついばむように優しく甘噛みされた。
やがてスッと離れた翔サンは、目を伏せたまま俺の手を掴んで歩き出した。
そのまま一度も会話や目を合わせることもなく、アパートに辿り着いた。
無言の空気が重い。
玄関のドアが閉まるとようやく翔サンはこっちを向いた。
でも表情が強張ってて。
「言っとくけど、俺はホモじゃねえ。でも……」
『ホモ』?
「俺だってホモじゃない!」
カッとなった。ホモなんてキモいもの、そんな……。
「翔サンがいきなりしてきたんじゃん!」
「は?お前が誘惑してきたんだろうが!」
「してない!」
「した!エロい顔で誘ってる!いつもいつも……」
「お、男なんて誘うわけない!そっちこそ舌入れたり、キモいキスしてくんなよ!」
「舌なんて入れてねー!」
「ラーメン屋で酒飲んだ日!ここで!」
翔サンの顔色が変わった。
「お前っ、覚えてたのか!?」
「思い出したくなかったのに!嫌なんだ!」
ことあるごとにあの感触を思い出してしまう。
初めてのキスが男でディープキスで。それだけでもありえないのに、父親かもしれない男なんて。
こんなのダメだ。
「絶対にもうしないで。居候の分際で言えた義理じゃないけど、こんなのおかしいよ」
翔サンがハッと自嘲気味に笑った。
「そうだよな、ホモじゃねーし。確かに俺が率先してやったのは事実だから謝るわ。もうしねーから」
翔サンはそう言い放ち、ドサドサと乱暴に銭湯道具を置いた。
……眠れない。
あれからすぐに就寝となったが目がさえてしまっている。ふぅ、と息をついた。
明かりを消した室内で、月の光に透かすように腕を上げた。
水晶の数を数える。
あと何日で迎えが来る?
早く帰って、ここに来る前の自分に戻りたい。
翔サンのことなんて忘れたい。
ディープキスのことも。楽しかったことも。
……胸が苦しい。
ジワッと瞳が潤む。
「早く、帰りたい……」
かすかに呟き、手のひらで両目を覆った。
気づけば明け方になっていた。
ノソッと起き上がる。ほとんど眠れなかったから、体が重い。
……そうだ、朝飯作ろう。
世話になってるんだから、それくらいはしないと。
瞼をゴシゴシと擦り、冷水で顔を洗ってから朝食を作り始めた。
「うーん、すげーいい匂い……」
鍋で味噌を溶いていると、翔サンの声がした。
俺は心の中で気合いを入れる。……ヨシ!普通に普通に!
「おはよ。もうすぐ朝飯出来るよ。食べるよね?」
「あー……ああ」
気まずそうな返事。
「布団畳んでちゃぶ台用意してくれる?」
「わかった」
「……」
コトッ、カタッと食器の音と、咀嚼音が響く食卓。
「テレビつけてもいい?」
無言が耐えられなくて、聞いてしまった。
「いいぜ」
「やった!よいしょっと」
不精して座ったまま腕を伸ばし、パチッとつけたテレビから楽しそうな笑い声が響いた。
何となく空気が和む。
「……お前さ、目……」
翔サンの声にドキッとするも、平静を装いながら口角を上げて見せた。
「ん?なに?め?」
「いや、め……滅多に味噌汁なんて食わねえからさ、こんなに美味いもんだって知らんかったわ。ダシ?とかの配合とかさ、誰に教わったんだ?」
「……母さんだよ」
「喧嘩中の?」
ギクッとする。
「う、あ……う、うん」
「当然、喧嘩する前だよな、教わったの」
「うん。ずーっと前。小1の時かなんかだったかな……」
他の料理はレシピ本見たりとか独自のアレンジOKって感じだったけど、味噌汁だけは分量をしっかり伝授された。
もちろんその分量が俺もベストだと思う。でもそれ以上に母さんの口癖が「お父さんが大好きな味だったのよ」だからだ。
結婚したての頃は父さんにかなり味噌汁の味について絞られたそうだ。他の料理は美味しいって言って文句一つ言わないのに、味噌汁だけは父さんに強いこだわりがあって鍛えられたらしい。
俺は翔サンを見た。
「味噌汁、美味しい?」
「ああ。今まで食った中で一番だ。多分、これ以上の味はねえよ」
「そっか……」
その誉め言葉は、俺を通り越して母さんに向けられてる。
「ありがと。母さんもきっと喜ぶよ」
「お前のオカンじゃなくて、俺は……」
「あ!これ可笑しいね!」
テレビを指差し、笑ってみせた。
指差した手首のブレスレットが目に入り、無意識に残りの数を数えてしまう。
きっと、あと数日。
数日で帰れる。
それから毎日、朝食と夕食に味噌汁を付けた。
昼間は散歩がてら食材の買い出し。
食材用のお金は翔サンが快く出してくれた。
夕方前にはアパートに帰宅し、夕飯を作る。
帰宅が遅くなる日はその日の朝までには教えてくれるので、以前のような待ちぼうけはなくなった。
そんな日々を送っていたある日の朝。
いつものように慌ただしく準備した翔サンがカバンを持った。
「じゃ、行ってくる」
「いってらっしゃい」
朝飯を食べ終わってない俺は、座ったまま翔サンにヒラヒラ手を振った。
ん?でも翔サンの襟がなんか変?
「あ、ちょっと」
靴を履いてる翔サンに声をかけた。
「ん?」
「襟が変だよ。折れ曲がってる」
「どれ?」
詰め襟に手をやる翔サン。
「違うって、中のシャツの……」
「時間ねーからいいや」
「待って待って」
箸を置いて翔サンに走り寄り、襟に手を伸ばした。
「ここの中のが……。……よし、オッケー」
その時、目を合わせた翔サンの瞳が熱っぽく揺らめき、顔がわずかにこちらに寄った。
「わっ!早く行けよ!」
慌てて後ずさりすると、翔サンはフンと鼻を鳴らした。
「自意識過剰じゃね?なにビビってんだ。アホが」
そう言い放って出かけて行った。
「は!?アホってなんだよアホ!」
襟を直してやったのにアホ呼ばわりかよ!もう直してやらないから!
昼間、散歩に行くことにした。
食材は買ってあるから、純粋に散歩。
「なんか雲行き怪しい……?」
誰に言うでもなく呟いた。空に厚い雲がかかってきていた。
天気予報で雨降るって言ってたっけ?
まあ、遅くならないうちに帰れば大丈夫かな。
今日は商店街のほうに行ってみよう。
現代だとこの近くに大型スーパーが出来てて、ここは確かほぼシャッター通りになってた、と思う。確信が持てないほどこの辺に来る機会が無かった。
今目の前に広がる光景は活気に満ち溢れてるのに、ここの未来を思うと切なさが広がる。
気を取り直して歩いていると、コロッケ屋のおじさんと目が合った。
「あっ」
「おっ!」
ほぼ同時に声が上がった。
「おめえ、翔んとこの……毛が薄い奴じゃねえか!ちん……」
「わー!!こんにちは!」
この前、銭湯で会ったおじさんだった。
「相変わらず生えてねえのか?」
「その話はやめてください……」
「なあに?どうしたの?」
奥からおばさんが出てきた。
おじさんはニヤニヤしながらこっちを指差す。
「いやな、翔のダチなんだが、この前銭湯で会ったら……」
「おじさん!!」
「ガハハハ!あの時、散々俺の頭をバカにした罰だ。……どうだ、コロッケ食ってくか?揚げたてだぞ」
「俺今日、財布持ってきてないんで……」
残念。美味しそうなのに。
「なあに、驕りだ。食え」
紙に包んで渡してくれた。
「いいんですか?」
「どうぞ、食べて」
優しいおばさんの微笑みにホッとしながら包みを開けてありがたくいただくことにした。
見るからに熱そう……。
フーフー息を吹きかける。
「おめえ、猫舌か!そういや翔のヤローがそんなこと言ってたな」
「はい、まあ。いただきまーす」
ソッとかじり、頬張った。まだ熱々で火傷しそうだけど美味しい。
──続く──
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