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第3話
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すりガラスが埋め込まれた木製のドアを開けたら、足に何かが巻き付いてきた。びっくりして足元を見る。真っ白な猫がこちらを見上げてミャオと鳴いた。希声の黒のスキニージーンズは毛だらけだ。
保護猫だろうか。左耳の先端が割れ、桜の花びらみたいな形になっている。
「ごめんなさいね。人懐っこい子なんです」
店から出てきた六十代ぐらいの女性が教えてくれる。曰く猫は店主の飼い猫らしく、この店の看板猫でもあるらしい。この店で働いているのか、女性は「一名様ですか?」と希声に尋ねた。
「後からもう一人来ます。……予定では」
案内してもらったのは窓際のソファ席だ。四人くらいは座ることができそうなほど広々としているが、カフェの店内にいる客は少ない。平日の十四時ということもあるのかもしれない。駅から少し離れている場所のせいか、新宿という土地柄なのに喧騒とは程遠い落ち着いた雰囲気だ。
店内に置かれているブリキのおもちゃや壁に掛けられた振り子時計、ランプのようなステンドグラスの照明は昭和レトロを思い起こさせる。カフェというより、喫茶店と言い表す方が適している。
希声は水を運んできてくれた先ほどの女性にアイスコーヒーを注文した。九月も終盤になり、うだるような夏の暑さは陰を潜めたものの、日中はまだ半袖で十分だ。とてもホットメニューを飲む気にはなれなかった。
注文を終えたあと、希声はソファ席に背を預けた。このカフェ――いや喫茶店を指定してきたのは、まだ顔も知らない依頼主だ。
事の始まりは三日前。
自宅マンションで和気と電話を終えたあと、希声はスキルシェアサービスのサイトから新着メッセージを確認した。
依頼内容は、亡くなった恋人の声で『ある言葉』を言ってほしいとのことだった。
言ってほしい言葉を指定されるのはよくあることだし、依頼メッセージの文章の長さも人それぞれだ。が、多くの依頼主は大体メッセージの段階でその言葉を伝えてくるし、依頼に至った理由も説明してくる。というのも希声自身が依頼募集の要項に希望する言葉と、どういった理由から依頼してきたのか教えてほしいという旨を記載しているからだ。
別にどんな経緯でも理由でもよかった。人を傷つけるような内容や法律に関わるような内容の依頼でないことを確認できれば。
ここまで手短で、かつ一番大事な何を言ってほしのかを濁らせた依頼は初めてだった。それに内容もちょっと……。
「ヘビーだな」
あまり独り言を口にするタイプではないが、依頼内容を見た瞬間希声は思わず口に発した。
こういう重たい内容ははっきり言って苦手だ。死人の声真似の依頼は今までもあるが、亡くなった相手が恋人のパターンは初めてだったのだ。
希声はモニター画面の前で一人暗い気持ちになった。
とはいえ、自分に依頼してくれたのだ。無下にはできない。希声はキーボードで返信用の文字を打ち込んだ。
【ご依頼ありがとうございます。お付き合いされていた方がお亡くなりになられたとのこと、心中お察しいたします。ご依頼の件についてですが、『ある言葉』というのを先に教えてもらえますでしょうか。また、サービスの質を高めるためにも恋人様がどんな方だったのか具体的にお尋ねすることになります。おつらい思いをさせてしまうかもしれませんがよろしいでしょうか。】
返信すると、依頼主もちょうどスマホかパソコンを操作していたタイミングだったらしい。返信は一分もしないうちに【大丈夫です。】と短く送られてきた。
催促しても希望する言葉を言わないのか。これは書き忘れではなくあえて無視されてるなと確信した。
まあ最終的に教えてもらえればそれでいいか。イラッとしたが、希声はぐっと堪えて再びキーボードに指を走らせた。
【承知しました。それでは恋人様の身体的な特徴とお人柄の詳細、差し支えなければ生前のお姿やお声などが映っている動画をお送りいただけますでしょうか。恋人様の声を再現するにあたって、必要な情報になります。】
希声の返信から数分後、それはきた。
【直接会って恋人の特徴を伝えるじゃダメですか?知らない人に彼のデータを送るっていうのはちょっと抵抗があって。】
じゃあそもそもなんで素性のわからない自分に初めから依頼してきたんだ。返信を読んだ瞬間、希望は「はぁ?」とイライラした。
声真似をしてほしい人物の写真や音声データ、動画を送ってもらう旨はもともとサイトの要項に書いてある。なにより依頼主のプライバシーは厳守だ。守秘義務についてはサイトで活動を開始する時点で運営側から厳重に注意を受けている。
こちらだって、個人的にさほど興味のない人間の情報を漏らして安定した収入源を失いたくはないのだ。これまでの依頼主のプライバシーは間違っても外に出ないようにしているし、金輪際出すつもりもない。
「舐めてんじゃねーぞ、クソが」
相手が愛する人を亡くし傷心中であることも忘れ、希声は前のめりになる。
【直接お会いすることはトラブルの元になりかねませんのでお断りさせていただいております。】
少し強めにキーボードを打つと今度は、
【口コミを見たら実際に会ってサービスを受けたという声もありましたけど。】
届いたメッセージを見た瞬間、ぐっと下唇を噛んだ。確かにサービス内の範囲であれば、スキルの提供者と依頼主が会うこと自体は禁止されていない。力仕事やカウンセリングなど、スキルによっては対面でなければ成り立たないものもあるからだ。
なんにせよ、早くも手を出したくない案件だ。何よりこの馴れ馴れしいというか人の揚げ足取りのような感じの文面が苦手だった。ぼーっとしているようで鋭いところがあり、つかみどころがない。文字だけで伝わる性格も面倒くさそうだと判断した。
男声の自分に頼んできたということは、おそらく依頼主は女性だろうか。敬語の甘さから察するに、まだ学生か社会人になりたてか……少なくとも自分よりは若い気がする。
どうやって断ろうか。考えていたそのとき、希声を揺らがす一言が送られてきた。
【報酬はそちらの希望額の倍払います。】
それが決定打だった。金にがめつい訳ではない。ただ来月に購入を検討していたカメラを、もうワンランク上の高性能カメラにすることができるかもしれない。そんな下心が働いてしまったのだ。やりにくさを感じながらも、依頼を引き受けることにした希声だった。
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