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第4話

 五分ほどして、希声の前にアイスコーヒーが運ばれてくる。駅から歩いたことで喉が渇いていたがアイスコーヒーにはまだ手をつけず、代わりにグラスに入った水を流し込んだ。  間もなくして、斜め前の空席で箱座りをしていた猫が大きな伸びとともに立ち上がった。床に降りて出入口に走り出す。同じくしてカランカランとドアの上のベルが鳴る。客が来たようだ。  猫は希声の来店時よりもっと興奮した様子で鳴きながら、たった今入店してきた客の足元にくねくねとまるで八の字を描くようにまとわりついている。 「ミーコ久しぶりだね。元気にしてた?」  若い男の穏やかな声が耳に入る。男は猫の目線に近づけるように跪くと、慣れた手つきで猫をふわりと胸に抱いた。 「もう元気元気。この前なんてお客さんに出したパフェのクリームを舐めようとしてね。鼻にクリームをつけてお客さんに写真撮られてたよ」  寡黙だと思っていたカウンターキッチンの中にいた初老の店員が男に説明する。 「はは。相変わらずヤンチャしてますね。あとでパフェ頼むから、俺の席にもおいで」  大きな手を器用に動かして、男は猫の額を撫でてから降ろした。  男はキョロキョロと辺りを見回す。希声より頭一つ分ほど大きく、身長は百八十センチを優に超えているだろう。半袖のクルーネックニットは薄いグレーで、少しダボッとした黒色のパンツとスニーカーはシンプルなのに、モデルのようなすらりとした体型のおかげで、ずいぶんと似合っていた。  ボディバッグからスマホを取り出すと、男は何かを打ち込む。そうこうしているうちに、今度は希声のスマホにメールの受信を告げる通知音が届いた。  え、と希声は自身のスマホに目を落とす。 『こちら店に着きました。パンダZさんはもう店にいますか?』  パンダZというのは、希声がスキルシェアサービス内で使っているアカウント名だ。  メッセージ文と店の出入口で誰かを探している男を見比べる。依頼主は女性だと思っていただけに、男だったことが衝撃だった。 「あ、あのっ」  少し距離があると思ったが、希声は咄嗟に席を立ち男に声をかけた。声に反応したのか、ドアの前で形のいい横顔を見せていた男の頭がこちらを向く。 「自分、パンダです。パンダZ」  他の人もいるというのに、なんて突飛な自己紹介だろうかと反省する。男は気にしていないのか、希声を見るなり笑顔になると、飼い主を見つけた犬のように小走りで向かって来た。 「こっちが指定したのに遅くなってすみません。駅から歩いてる途中で知り合いに捕まってしまって」  汗ばんだ額をハンカチで拭いながら、男は申し訳なさそうに希声の対面に座った。 「いえ。自分も今来たところなんで気にしないでください」  どんな女が来るのかと身構えていただけに拍子抜けする。希声はチラチラと目を配らせながら、店員に注文している男を窺う。  シークレットパーマをかけたツーブロックの黒髪に、一瞬冷たく見えるが表情豊かな切れ長の目、それに筋が綺麗に通った鼻梁と厚すぎない唇を見るに、だいぶ……いやかなりの男前に分類されるだろう。  呼びかけたらすぐ駆け寄ってくる素直さはとっつきやすい印象で、昔親戚の家で飼われていた黒の秋田犬に似ているなと思った。  男が注文を終えたところで、希声はずっと気になっていたことを質問した。 「あの、ハル丸さんですよね?」  男は一瞬キョトンとしたあと、「はい、そうです」と笑顔で返事した。 「本名は古波倉文字(こはくら)といいます。古波倉琉星文字(こはくらりゅうせい)」  まさか初手から本名を告げられるとは思っていなかった。二十代前半だろうか。少なくても自分よりは絶対若い。プライバシーに対する危機感の低さと、そこはかとなく感じる幼さからまだ学生だと思った。 「あ、本名まで教えなくていいです。一応ネットで知り合った者同士なので」 「あ、そっか。でももう教えちゃったしな」  ハル丸もとい琉星は続けて、「パンダZさんのことはなんて呼べばいいですか?」と訊いてきた。  遠慮のなさと距離の詰め方の勢いに気圧される。確かに我を通そうとする所は、依頼メッセージでのやりとりをした際に感じた依頼主のイメージと同じだった。  でも確かに、スキルシェアサービスで使っている名前を人前で連呼されるのも、身バレのリスクを考えると控えてもらった方がいいのだろうか。だったらいっそ名前を教えてやりとりする方がいいかもしれない。希声はそう考え、綾戸という苗字だけ伝えた。  琉星の前にどちらも生クリームたっぷり上に乗ったチョコパフェとアイスココアが運ばれてくる。見ているだけで胃がもたれそうだ。ミーコと呼ばれる看板猫も一緒に、テーブルの上に我が物顔で乗り上げてきた。  猫アレルギーの客が来たら発狂するだろうが、希声は猫アレルギー持ちではない。自由気ままな猫をそのままに、改めて琉星に向き合った。 「依頼内容の件ですが、亡くなられた恋人の声で、ある言葉を提供させていただく――ということでお変わりないでしょうか?」 「はい! それでお願いします」  元気のいい返事は傷心中の男とは思えない。 「見ての通り自分は男ですが、出せる女性の声の幅は男性のものよりかなり狭いです。それでも私に依頼するということですが、古波倉さん。あなたの亡くなられた恋人というのは男性の方ですか?」  琉星はミーコがチョコパフェに顔を突っ込もうとしているのを手で阻止しながら、何てことないように「はい、男です」と答えた。  そういうことか。琉星が男だと知ってから、どこかでそうじゃないかと考えていた。この喫茶店の立地的にゲイタウンも近い。同性愛者全員がそういった地域を聖地にしている訳ではないだろうが、琉星がこの店を指定してきたのも、そういった事情があるのかもしれない。

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