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第5話

 かく言う自分もゲイ寄りのバイだ。初めて付き合った相手は高校時代、同級生の女子だったが、高校を卒業してからは男としか付き合ったことがない。自分の場合、男と付き合うようになってからはいい思い出が少しもないけれど。  希声は一人納得する。恋人と同じ性別だから、この男は自分に依頼してきたのか。 「わかりました。では彼氏さんの声でどんな言葉を言ってほしいのか、教えてもらっても?」  スマホをテーブルの上に置き、いつでもメモ機能に記入できるようにセットする。だが質問をした途端、「それは……」と琉星は言葉を濁した。 「後でもいいですか? 先に綾戸さんがどれぐらいハル君の声を再現できるか聞いてみたいんです。あ、ハル君っていうのは俺の亡くなった恋人の名前です」  少し照れくさそうに琉星が首を傾げる。  いきなり依頼内容を教えろというのはさすがに性急すぎたか。依頼を受ける際には、いつもネット上で必要最低限の情報のやり取りしかしてこなかった。いつもの癖が出てしまったらしい。 「いいですけど、さすがに彼氏さんの音声データ、もしくは喋っている動画を見せていただくことになります。そちらは可能ですか?」 「それはもう、はい。直接なので全然大丈夫です! むしろ見てもらいたいです」  琉星は嬉々としてスマホを取り出した。 「これなんてどうです? 付き合って二年目の記念日に表参道のイタリアンで一緒に撮った写真です」 「あの、写真じゃなくて動画を……」 「そうでしたそうでした! この日は動画も撮ったんです。その動画がこれで」  男がスマホ画面をこちらに向けてくる。小さい画面に映し出されたのは、肌の白いふくよかな男性だった。頬をこれでもかと盛り上げて、一重の目を細めている。 『ここ、Oの文字がUになってる。リューセイじゃなくてリョーセイだね』  優しげな笑顔で、記念日にサプライズで運ばれたケーキプレートに書かれたチョコペン文字の間違いを指摘している。  シロクマのような男にスマホを向けて撮っているのは琉星なのだろう。当時の琉星は動画に映っていないが、『今日から俺のことリョーセイって呼んでいいよ』と冗談を飛ばす笑い声が、スピーカーの近くで聞こえる。 『それもう琉星じゃないじゃん』  琉星の冗談に乗って、ハル君がケラケラと笑う。 『じゃあ食べようか』 『うん! 僕ケーキ見てたらまたお腹空いてきちゃったよ』  ハル君が膨らんだ腹をさすっているところで、動画は終わった。  幸せそうなカップルの動画だった。これだけ幸せなオーラをまとっていたのに、今は片方がこの世にいない。琉星には今日初めて会ったが、見ているこちらまで少し切なくなった。同情した。 「ねっ? 可愛いでしょう?」  こちらのセンチメンタルな気持ちも露知らず、琉星は自慢げに同調を求めてくる。 「はあ」  苦笑交じりに返すと、「ですよねっ?」と琉星はスマホを抱きしめた。 「ハル君は抱き心地がいいんですよ。本人は自分のお腹についたタプタプのお肉が気になってたんですけどね。俺がオムライスとか唐揚げとか作ると、いつも誘惑に負けて食べちゃうんです。もうそんなところが本当に可愛くて可愛くて」  ハル君とやらの動画を見せてくれとは言ったが、ノロケ話を聞きたいわけじゃない。「はあ、そうですか」と適当に相槌を打つが、ヒートアップした琉星はさらに別の写真を見せてきた。 「これは俺がハル君の髪をドライヤーで乾かしてるときに、ハル君がインカメラで撮ってくれた写真です。ね? すごくないですか? 自分でも気づかなかったんですけど、俺こんなデロデロな顔してハル君の髪を乾かしてたんですよ? ハル君に『琉星がずっと見てくるから恥ずかしかった』ってあとで言われちゃって。そんな風に言うハル君ももう可愛くて可愛くて……っ!」  琉星は鼻の穴を膨らませながら語る。その様はさながら推しを語るファンのようだ。  意識していなかったが、希声はドン引きの目を相手に向けていたのだろう。琉星はハッと我に返り、 「こ、こんな感じですけど、ハル君の声できそうでしょうか?」  と手元の水を飲んだ。 「はい、まあ、できますよ」  希声とは見た目も体型もまったく異なるが、ふくよかな人間の声を出すテクニックはある。喉を広げたり顎を引いたり、頬を膨らませたりすれば、本来の自分の声よりも野太い声はいくらでも出せる。 「今の会話でよければ早速やってみましょうか」  希声は琉星のスマホを指さした。 「え、いいんですか?」  男が目を丸くする。先にハル君とやらの声を再現してくれと言ったのはそっちだろ、と心の中でツッコむ。  琉星の亡くなった恋人は、見た目から察する通りの優しい声をしていた。喋り方はゆっくりとしたスピード感で、声のトーンが少し高い。まるで風船がおだやかな昼の空をたゆたうようなイメージだ。大人数でいたらまず埋もれてしまう声だが、特徴が捉えやすい。再現しやすい声だと感じた。  とはいえ、本人と希声の見た目はあまりにも違う。琉星の恋人はシロクマのような体型で、かく言う希声の体は鶏ガラのように細い。  本日も例に漏れず、少しでも大柄に見せようとオーバーサイズのシャツを着てきたくらいだ。骨格や肉の付き方だけでなく、顔の造りだって人種レベルで異なる。  さすがに自分の顔を見たまま恋人の声を聞いたら、本人と同じように聞こえる声も別人の声に聞こえてしまうかもしれない。希声は「ちょっと目を閉じていてください」と相手に伝えた。  素直に目を閉じた男を確認したのち、先ほど見せてもらった動画内の会話を脳内に反芻する。そして――  ――ここ、Oの文字がUになってる。リューセイじゃなくてリョーセイだね。  次の瞬間、琉星の閉じていた瞼がぴくっと動いた。希声は見逃さなかった。すぐさま自身の声に戻し、「当時と同じ返しをしてみてください」と目の前の相手に小声で促す。  琉星は戸惑いながらも、ゆっくりと口を開いた。 「……きょ、今日から俺のこと、リョーセイって呼んで、いいよ……」  ――それもう琉星じゃないじゃん。  ゴクッと唾を飲む音が琉星の喉で鳴る。 「じゃあ食べよう、か……」  ――うん! 僕ケーキ見てたらまたお腹空いてきちゃったよ。  たかだか数秒の会話。ドラマや映画によっては台詞にもならない、端折られてしまうであろう何気ない会話だった。少なくても希声にとっては、街中で聞いたところで記憶に残らないカップルのそれだと思った。  だが、琉星はしばらくのあいだ目を開けなかった。瞼がさっきよりも震えているように見えた。 「古波倉さん?」  しびれを切らした希声が声を掛けると、琉星はゆっくりと目を開けた。こちらの顔をちらりと見てから、複雑そうに苦笑する。 「……びっくりしました。ハル君と話しているみたいで」  その顔は満足そうであり、不満そうにも見えた。  希声は気づいていた。目を開けたその一瞬だけ、琉星の目が写真に映っていた琉星と同じ目――愛おしそうに恋人を見つめる目になったことを。

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