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第14話
こういうところも真面目で律儀な男だ。行き当たりばったりで、融通は利かせるものとして生きてきた自分とは違うと思った。
そうこう考えているうちに、手元のスマホが鳴った。琉星からの着信だ。すぐに応答ボタンをタップし、自身の体温で温くなったスマホを耳に当てる。
『遅くなってごめんね』
電話越しでしか聞いたことのない琉星の声が優しく耳を衝く。同じ声なのに同じ声に聞こえないのは、電話を通していることだけが理由ではない。希声は「ううん、大丈夫だよ」とハルの声で応える。
「今日は残業?」
『いや、偶然友達が職場に買い物に来てさ。久しぶりに会ったら盛り上がっちゃって、さっきまで飲んでたんだ』
自分は友達という設定になったのか。急なシナリオを思いついて演じられるなんて、向こうもなかなかの役者だ。
「そうだったんだ。職場の近くで?」
『うん。ボニッシモだよ。ハル君ともよく行ったでしょ?』
そうなんじゃないかと思っていたが、やはりハルとの思い出の店だったらしい。どうりで店慣れしていると思った。
「うん。燻製の牡蠣はあった? オリーブに漬けてあるやつ」
『あったよ! 友達も美味しいって喜んでくれた』
「よかったね。琉星の友達が気に入ってくれて僕も嬉しいよ」
希声はハルが言いそうな言葉を選んで言った。琉星はハルの性格を仏のようだった、と言い表していた。ポジティブで、どんな悪意のある言葉もポジティブな言葉に変換するのが上手だったと。
「今は帰り?」
『うん。友達と別れて、今は改札の近くでちょっと酔いを醒ましてるところ』
「酔ったまま電車に乗ると気持ち悪くなったりするから正解だね。それだけ楽しかったんだ?」
『楽しかった。でも……』
それまで明るかった男の声が急に陰る。
『なんだか今日はすごく……すごく、ハル君に会いたい』
男の震える声が、鼓膜に触れる。どきりとした。
「……僕も会いたいよ。でももう終電ないし、琉星は明日も仕事でしょ」
『うん……わがまま言ってごめん』
「そういうときもあるよ。何かあった?」
『いや……ただ、久しぶりにハル君とよく行ってた店でいつも頼んでたもの食べて……ちょっと寂しくなっちゃった。店出たあとさ、駅に向かいながらよく手を繋いで歩いたなとか……思い出しちゃって』
自分はただここの店うまいなーとか、琉星に襲われたらどうやって逃げるかとか。そんなことしか考えていなかった。だが琉星はひっそりと傷ついていたのだ。恋人との思い出に浸りながら、たった一人で。
希声は視線を横に流し、コンビニの前に立つ男に目をやった。琉星はこちらに背を向け、いつもピンと伸びた背筋を丸くさせている。自分より身長の高い男の背中が、今は子どものように……いや、すべてを失くした老人のように見えた。
このときどうして自分があんな行動を取ったのか。希声はあとから何度考えてみてもわからない。
強いて言えばサービスの一環だった。同情からくるサービスのようなものだった。若くして恋人を亡くした依頼主が、あまりにも寂しそうで不憫に見えたから。可哀想だと思ったから。
希声はスマホを右手から左手に持ち直し、ゆっくりと歩き出した。人込みをゆらゆらと掻き分けて、男の背中へと近づく。
「『困らせてごめんね。弱音吐いたら、ちょっとすっきりしたよ』」
直接聞こえた男の声が、少し遅れて電話越しに聞こえる。希声がすぐ後ろにいることには気づいていないみたいだ。
「つらいときは困らせていいんだよ。僕は琉星の彼氏でしょ?」
すぐ後ろから聞こえた声に驚いたのか、琉星が振り返ろうとする。
次の瞬間、希声は男の空いていた左手にするりと自身の手を絡めた。恋人繋ぎだ。酒が回っているのか、男の手は温かい。男らしく角張った見た目とは反対に、繋ぐと想像よりも柔らかく、手袋に包まれているみたいな安心感のある手だった。
途中で後ろを向くことをやめたらしい。目が希声を捉える前に、琉星は頭の動きを止めた。その代わりというように、繋がれた希声の手をためらいがちに握り返してきた。ゆっくりと、熱を調べるみたいだった。
自分の手は、ふくよかだったハルの手とはおそらく感触も質感も違うはずだ。声は限りなく同じでも、それ以外はどうしたって誤魔化せない。
だけど希声はこのとき、確かに思ったのだ。この人にハルを感じさせてあげたい。寂しい気持ちを、少しでもハルをぶつけることで減らすことができたらと……。
やってしまった。正気に戻ったのは、そのときだった。
「くっ……うう……っ」
こちらに背を向け、手を握りしめたまま琉星が静かに泣き始めた。肩を震わせながら、弱々しく膝が崩れていく。
「なんでっ……」
しゃがむ男に合わせて、希声も慌てて膝を折った。同じ目線になるが、琉星と目が合うことはない。
しゃがみ込んですすり泣く男を、通行人がチラッと見ては自分には関係なしとばかりに横を通り過ぎていく。雑踏の音が遠くの方へと離れていく。今はとにかく、琉星の声を聴くことしかできなかった。
「なん、で……死んじゃったんだよぉ……っハル君……っ!」
初めて聴く、琉星の叫び。
「あっ……」
声を掛けようとして、希声は口をつぐむ。
自分は一体誰なんだろう。誰としてこの手を絡ませたんだろう。誰の言葉でこの人に声を掛ければいいんだろう。
どしゃ降りのごとく降ってきた後悔に茫然とする。男がむせび泣く姿をただただ見つめる。琉星の手を繋ぎ続けるのも、離してしまうのもどちらも地獄だと思った。
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