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第18話
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二週間は短いようで長い。約束の木曜日の朝、普段なら昼過ぎに起床するところを希声は朝の八時に起きた。髪を切りに行きたかったのだ。首まで覆う後ろの髪と鼻先にまで触れる前髪が、ここ最近やけに気になるようになっていた。
最寄り駅の美容室で髪を揃えてもらったあと、一旦家に帰って服を着替えた。いつもはほとんどスウェットで出歩いているが、今日はちゃんとした服を着たい気持ちだった。
家のクローゼットには自身の細い体を隠すようなダボッとしたオーバーサイズのトップスしかない。唯一マシかな、と思った服はどこかカビくさい気がした。
基本的に服を買うのはネット通販だが、今日は琉星との約束まで時間がある。少し早めに家を出て、適当な店でマシな服を買うことにした。
新宿の駅ビルの中で適当に服を買ったのは日が暮れはじめた頃。結局いつも着ている服と似たようなワンサイズ大きめの服を買った。変な匂いがするよりはいいだろうと、着て行ったヨレヨレの服を処分してもらう。店内の試着室で新しい服に着替え、ダウンジャケットを羽織ってから店を出た。
駅ビルを出てから腹が減っていたことに気づいたが、合流してから琉星と一緒に食べるかもしれない。希声は通りに立ち並ぶ飲食店を脇目に、目的のカラオケ店に向かった。
カラオケの外観が見えてくると、店の前には長身の男が立っていた。琉星だった。黒のフライトジャケットにグレーのスラックスと、カジュアルな装いだ。
今日はシフトの関係で半休だと事前に聞いている。昼間は何していたんだろう。疑問に思ったが、自分には関係のないことだ。希声は小走りで男に近寄った。
「すまん、待ったか?」
「俺も今来たところなので気にしないでください」
人好きのする笑顔で言う。琉星は「入りましょうか」と店の中へと入っていく。服はともかくとして、希声が髪を切ったことには気づいていないようだった。
まあそうだよな……となぜか気落ちしている自分にあれ?となる。どうしてそんな風に思うのか、自分でも不思議だった。
受付を済ませ、ドリンクバーでお互い飲み物をグラスに入れたあと部屋に入る。モニターは休みなくCⅯを映し、部屋は常に何かしらの音が流れている状態だ。狭すぎず広すぎず、五人ぐらいが入れるほどの広さの部屋もちょうどいい。
照明を点けてから、希声はモニターの下に置いてあるデンモクを手に取る。いきなりハルの声で話し出してもいいが、場所を変えたばかりだ。先にお互い場に慣れた方がいいんじゃないかと思った。
「一回何か歌っとく?」
「いや俺は……遠慮しときます」
琉星が気まずそうに首の後ろを掻く。
「カラオケ苦手だった?」
「聞くのは好きなんですけど歌うのが苦手で。ものすごく下手なんです」
「ものすごくって逆に聴いてみたくなるけど、まあいいや。悪いけど俺は一曲歌ってもいい? 場所変えたからかな。地味に緊張しててさ」
本当のことだ。この部屋に入ったときから、希声はなぜか緊張していた。二人きりになれる場所の方が落ち着いていられると思ったのだが、予想に反して体に力が入ってしまう。座ると意外と琉星との距離が近いからだろうか。
琉星はデンモクに向かって手のひらを差し出した。
「どうぞどうぞ。なんでも好きな曲を歌ってください」
お言葉に甘えて「サンキュ」と曲を入れ、マイクを手に持つ。デンモクに入れた曲はアンパンマンのマーチだ。緊張しているときに歌うと、のどかな歌詞と曲調が相まって、喉の緊張が緩むような気がしてここぞというときに歌うようにしている。
曲の終わりとともに緊張も解れたところで、希声はマイクを置いた。「じゃ、始めるか」と斜め横に座る男を見る。
すると、琉星が笑うのを堪えるように口を押えていた。
「え、なんで笑ってんの? 俺なんかした?」
笑われる理由がわからない。マイクの持ち方が変だった? 変な歌い方の癖でもあっただろうか。
困惑していると、琉星は「だって」と肩を震わせる。
「急にイケボが真面目にアンパンマン歌い出すんですよ。しかもめちゃくちゃ上手い」
くくくっ……と必死で笑いを堪えながら、琉星はなんとも失礼なことを言う。琉星がこんな風に笑う姿を見せるのは初めてだ。少し重かった感情がわずかに軽くなる。
「悪かったな。アンパンマンで」
「希声さんのドラえもんも聴いてみたいです」
「調子乗んな」
希声は笑いながら相手の肩を軽くパンチした。
「ハルさんってゲイバーの店員だったんだろ。あの声質だし、歌とか得意だったんじゃないの?」
デンモクで今流行りの曲のランキングを見ながら訊いた。琉星の表情から爆笑が消え、穏やかな顔つきに戻る。
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