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第25話

「そう思ったら俺、なんかどうしようもなくなっちゃって……っ」  首を垂れる琉星の目からは、再び大粒の涙が溢れた。何も言えずにいると、琉星は同調してほしそうに「俺ダメですね」と乾いた笑いをこぼした。 「前を向かなきゃって、この二年間ずっと思ってたんです。ハル君ならいつまでも落ち込んでいたらダメだよって、そう言うんじゃないかと」  でも全然できてないや、と琉星は自虐的に言い、目尻に溜まった涙を指先で拭いた。  確かに希声も、今の話を聞くまではそう思っていた。いつまでも亡くなった人間――過去の人間にこだわっていても仕方ないと。琉星はまだ若い。人生はまだまだこれからなのだ。もう戻ってくることのない相手を想い続けるのは、時間の無駄なのではないかと思っていた。  でも今は……そうは思えなかった。喉の奥に乾いたティッシュがぎゅうぎゅうに詰まったみたいに苦しい。こんなにハルのことを想っている琉星を見るのはしんどい。だけど、今このときも亡き恋人を恋しがる男を否定する気持ちは微塵も生まれなかった。  気づいたら拳の震えが止まっている。希声は言葉を選びながらゆっくりと口を開けた。 「無理やり前を向かなくてもいいんじゃないの」  琉星は「え?」と頭を上げてこちらを見た。 「今はまだ頭が重たいんだろ。そんな状態で頭を無理やり上げて前を向いたって、首を余計に痛めるだけじゃん。頭が軽くなってから、また上げればいいんじゃねえの」 「……」 「まあマッサージとか整体とか、頭が軽くなるようにする治療は必要かもしんないけどさ」  チラッと男に目をやり相手の様子を窺ってから、希声は目を落として言葉を続けた。 「前を向くのはそれからでもいいだろ」  琉星はそれからすぐに返答しなかった。  相手がどう受け取ったかわからない。反応を見るのが怖い。びくびくする。でも正直な気持ちだった。忘れられないなら、無理して前を向く必要なんてない。  だが沈黙が続くとさすがに希声も焦った。今自分は変なことを言ってはいないだろうか。例えがわかりにくかった? 琉星の沈黙がひどく長く感じた。 気まずさに耐えきれず、希声は重たい空気を和らげるため冗談っぽい口調になる。 「なんなら俺がマッサージしてやろうか?」  顔の前で両手をエアモミモミさせた、そのときだった。  琉星の手が伸びてきて、希声の手を正面から掴んだ。互いの指の付け根を合わせるように指が絡んでくる。手の甲の筋に琉星の指先が食い込んだとき、希声は逃げられない状況にあることを知った。 「えっ、ちょ……っ」  動揺した。放させようと手を引くが、琉星の力が強くてままならない。わかったことといえば、琉星の手がひどく冷たいということだけだ。  次の瞬間、涙で腫らした男の目と目が合った。近くで目が合うのは初めてで、ドキッと心臓が跳ねた。 「ちょっとだけ……この手をハル君だと思ってもいいですか」 「え……?」 「嫌だったら断ってください」  そう言いながらも、琉星に握られた手には少しずつ力が込められていく。断っていいと口では言っておきながら、琉星の目と強く握られた手からは、断りの言葉を言わせるつもりはなさそうに感じる。  手を貸すといったって、具体的に何をするつもりだろう。琉星の言葉尻から、物理的な話であることは間違いない。 「ハ、ハルさんの手だと思うには無理ないか? 俺の手はその……肉付き良くねえし、カサカサだし」  遠回しに断っているつもりだったが、琉星は「構いません」と切羽詰まった声で言う。 「ハル君がいなくなってから、誰とも手を繋ぐことなんてなかった……でもあの日、希声さんと手を繋いで思い出したんです」  あの日というのは琉星の職場近くで食事した帰り際、ハルの声で琉星と電話をした日のことだろう。よく二人で手を繋いで帰ったと話していた。少しでも喜ばせたくて、希声から琉星の手を握った。 「人の手ってこんなに暖かかったんだって……一人はこんなに寂しいんだって……っ」  琉星は正面から捕らえた希声の手を、自分の方へと優しく引いた。本のページをめくるように希声の手を翻すと、男は手の甲にそっと口づけた。  ちゅ、と柔らかい唇と温かい息が手の甲を撫でる。顔が一気に火照り、ドキドキした。 「愛してる……出会ったときからずっと、ハル君だけを愛してるのに……っなんでもう、会えないの……っ」  希声の手を借りながら、琉星は手の甲へのキスとともに何度も「愛してる」と愛の言葉を何度も繰り返した。目の前にいる希声ではなく、亡き恋人に対して。  愛してると琉星が口にするたび、触れられている手から流れる電流が希声の全身を熱くさせた。一方で胸の奥だけは、氷の矢で何度も貫かれているみたいに冷えていく。  この二年のあいだ、琉星の想いは行き場を失くしていたのだ。募りに募った愛の捌け口がほしかったことに、今になって気づいたのかもしれない。  琉星の目から流れた涙が、希声の手を濡らしていく。なんで自分はこんなことをしているんだろうとは思わなかった。  この男に惹かれている自分に気づいてからは、薄々こうなることはわかっていた気がする。琉星の頼みを断れない。泣いている姿を見たら、居ても立っても居られなくなる。そもそもこの男を気になりだしたきっかけは、こちらから手を繋いだときに目の当たりにした、泣き崩れた姿だった。  琉星の中には、最初からハルという恋人がいた。自分が傷つく資格なんてない。わかりきったことだ。  それなのに、どうして――。 「愛してる。今すぐ会いたいよ……」  琉星がこちらの手に頬ずりする。わずかに伸びた相手の髭が擦れ、チクチクした。  それが自分への言葉だったら、どんな気持ちになっただろう。自分のものではない愛の言葉に、切ない気持ちで胸がいっぱいになる。胸がズキズキと痛む。苦しかった。  パンパンになって破裂しそうな感情の箱を、琉星から落とされるキスと「愛してる」が無慈悲に踏みつけてくる。  破れないように、壊れないように……希声は目を閉じて、耐えることしかできなかった。
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