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第26話

***  その日は結局ハルの声で会話することはせず、タイマーの終了時間を告げる通知音が鳴るまで、希声は琉星に手を好きにさせた。  最近、契約時間内というのにハルの声を届ける時間が短い気がする。そう思って琉星が会計を済ませたあとに尋ねてみようとしたが、希声としてもハルの声で琉星と話すことに最近は抵抗を感じていた。  ハルの代わりに、琉星から注がれる愛の受け皿になるのが辛い。できればこのまま契約期間を終えたいというのが正直な気持ちだった。  スキルのサービス提供者として失格だと思う。でも一人の人間として怖気づいてしまったのだ。  どうせ琉星との契約はあと二週間ほどで終わる。その期間、ただ静かに時が経つのを待っていればいい。  琉星と付き合いたいとか自分の気持ちを知ってほしいなんて気持ちは、希声の中にこれっぽっちもなかった。もともと人と深く関わるのが好きじゃないし、自分が誰かと長く付き合える人間ではないと思っている。誰かと生きていくよりも、一人で生きていくことの方がずっと向いている。  片想いしている相手の心に、一生を誓いたかったほどの愛する人がいるならなおさらだ。琉星への気持ちを自覚した時点で、この恋は自分の中でひっそり終わらせるつもりだった。  だから契約外の日に、琉星からメールで誘われたときは目を疑った。 【前に電話で話したスパ銭、一緒に行きませんか?】  メッセージアプリに届いたその文面を、希声は思わず二度見、いや三度見した。  以前、同僚からスーパー銭湯の割引チケットをもらったと言っていた。希声がその話を琉星の口から聞いたのは、ハルの声で電話しているときだ。  自分が誘われているような錯覚に陥りそうになったものの、その誘いはハルに対して向けられたものであり、決して叶わないものだと自分に言い聞かせた。まさか希声自身に誘いが舞い込んでくるなんて、予想外中の予想外だ。  琉星いわく、平日休みでは友達と休みが合わないらしい。一人で行こうと思ったが、ダメもとで希声に声を掛けてみたという。 「前に土日関係なく働いてるって言ってたじゃないですか。ということは希声さんも平日休みなのかと思って、訊いてみたんです」  スーパー銭湯の最寄り駅で待ち合わせたあと、歩いているときに琉星は希声を誘った経緯を教えてくれた。  琉星の言動に他意がないことは知っている。そんなところだろうなと思っていたので、驚きや期待が裏切られることはなかった。  希声が行く気になったのは、今日行くスーパー銭湯が昔よく足を運んでいた場所だったことと、琉星が提案した曜日が水曜日だったというのが決め手だ。気がついたら自分のキャパシティを越えて予定を詰めがちなので、水曜日は気が向いたら編集作業をするぐらいに留め、基本的になるべくリフレッシュ以外の予定を入れないようにしている。  それに、一度でいいからハルを介さない時間を琉星と過ごしてみたかった。琉星の前で裸になることを考えると尻込みするが、その気が全くない人間を前にソワソワするほど性欲が強いわけでも、恥ずかしがり屋でもない。自分から琉星の体を見ようとしなければ、何も問題はないと考えた。  目的のスーパー銭湯は駅から徒歩五分の場所にあった。 「希声さんは前に来たことがあったんですね」  琉星は初めて行くスーパー銭湯らしい。ここに向かう途中で自分は何度か来たことがあると言ったら、琉星は「もっと早く言ってくださいよ」と苦笑いした。 「なんでだよ。何回来ても飽きる所じゃなかったし、べつに言う必要ねえじゃん」 「それは……そうなんですけど」  琉星は頭の横を掻いて口ごもる。琉星がそんな顔をする理由がわからなかった。ブツブツと何やらぼやいている男に、「先に行くぞ」と声を掛けてから中に入る。  館内の入口で受付を済ませ、館内着とタオル類の入ったメッシュバッグとロッカーキーを受け取った。  受付の流れがスムーズなのも、慣れた場所だからだ。ロビーの真ん中にある熱帯魚の巨大な円柱型の水槽に目をやる。外装は綺麗になったが、中は変わってないんだなと思った。  飽きない場所とは言ったが、同時に苦い思い出の場所でもある。希声が八年前に付き合っていた養成所講師の男が、当時この周辺に住んでいた。  男と来たことはない。男との付き合いに悩んでいた当時、男のアパートから抜け出してよく通っていた。男と別れてからは足が遠ざかっていたが、今この場所に立ったところで湧いてくる感情は、久しぶりだなという懐かしさのみだった。  長年引きずっていた過去だが、月日は傷を癒し、自分のメンタルを強くしてくれたようだ。片想いをしている相手に忘れられない男がいようとも、その相手と裸の付き合いをすることだってできるのだ。

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