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第27話

「熱帯魚が好きなんですか?」  水槽を見ていた希声に、琉星が尋ねる。希望は「べつに」と首を横に振った。  更衣室のロッカーはなんとなく近所になったが、天然温泉や洗い場のある温浴エリアに入ると琉星は、 「じゃあ風呂上がったら、また受付のところで落ち合いましょう」  と言って近くの洗い場へと一人移動していった。風呂は自分のペースで入りたいタイプか。希声も同じく一人で入りたいタイプだし、裸で琉星と行動を共にするのはやっぱり少し緊張する。希声も奥の空いている洗い場へ向かった。  頭と体を洗ったあと、希声は天然温泉とサウナを回った。平日ということで土日に比べたら客は少ないのかもしれないが、希声の予想よりは混んでいる。風呂の縁で井戸端会議をしている年配男性たちがちらほらいた。  途中琉星の姿を何度か見かけたが、邪魔するのもされるのも好きじゃない。こちらから話しかけることはしなかった。  最後に露天風呂にでも入ろうと、希声はサウナ後の水風呂から移動し、露天風呂の重いドアを開けて石畳を踏んだ。  湯気で靄がかかっているが、露天風呂にはまだ誰もいなかった。足の裏のこそばゆさを我慢し、東屋風の藁屋根の下に向かった。  湯口の竹筒から、チョロチョロと湯が流れている。足先から首まで浸かると、筋肉が弛緩するとともに心地いいため息が漏れ出た。これも一人だから出せる声だ。  屋内の風呂に比べて、露天風呂はどうも人の気配が気になる。音が天井に反響しないせいで、どんなに小さな音でも近くに聞こえてしまう。誰かが入ってくるまで満喫しようと、希声は風呂の中で手足を伸ばすことにした。  一人の時間は長くは続かなかった。希声が入ってから五分と経たずに、露天風呂のドアが開いた。程よく体は温まってきたが、まだ浸かっていたい。希声は伸ばしていた手足を折り、風呂の隅で丸くなった。  後から入ってきた客の足が、ヒタヒタと近づいてくる。風呂の縁でその足は止まった。  そのときだった。 「やっぱり希声だ」  突然降ってきた声に、希声の心臓はドクンと大きく跳ねた。琉星……の声じゃない。 「駅で見かけたときにもしかして希声じゃないかと思ったんだ。受付や更衣室で見て確信したよ。髪、だいぶ短くしたんだね」  声のする方に向かって、恐る恐る顔を上げる。そこには、風呂の縁外に立つ男がこちらを見てニコニコと笑っていた。  細かい天然パーマに面長の顔。口は笑っているものの、感情の読めない細目が眼鏡の向こうからこちらを舐めるように見つめている。希声より十五歳年上だったはずだから、現在は四十四歳ということになる。昔より額や目尻に皺が増えたが、大人が子どもを諭すような抑揚のある声はあの頃と変わらない。 「……っ」 「会いたかったよ。でも君に連絡しようとしても、メッセージもメールも送ることができないんだ」  男が口を開くたびに、体の震えが強くなる。奥歯から歯を噛み合わせる音がガチガチと鳴る。 「君と一緒にいた男は誰かな? 一緒に行動していないということは彼氏ではないんだろう?」 「たす、け……っ」  希声は強張る全身を奮い立たせ、急いで露天風呂から出た。濡れた石畳に足を滑らせ、転びそうになる。距離を取りながら男から離れる。室内の温浴エリアに戻ったあと、すぐに更衣室へ逃げ込んだ。 「あ、希声さんももう上がりますか?」 「……っ」  ロッカーの前には琉星がいた。すでに館内着に着替え終わっている。 「ちょうどよかった。俺も今ロビーに向かおうとしてたところです」  琉星の声を聞いた瞬間、全身からドッと力が抜けた。水を吸った服を肩に乗せられたようにその場にしゃがみ込み、はあ、はあ、と息を整える。 「き、希声さん!? どうしたんですかっ?」  琉星は駆け寄って希声と同じ目線になった。 「なんでも、ない。ちょっと……眩暈がしただけだ」  風呂から出てすぐ走ったせいか頭が痛い。男が追ってきてやしないかと背後を振り返るが、幸い男は更衣室までは追ってきていないようだった。  今すぐ帰りたかった。それ以上に男が入ってくる可能性の高い更衣室から早く離れたかった。心配する琉星を無視し、希声は慌ただしく館内着に着替えて更衣室を飛び出した。
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