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第28話
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男湯の暖簾から出たあと、希声の希望で二階のレストランに向かった。男は希声が一人のときを狙って声を掛けてきたのだろう。人の目が多い場所に行けば、下手に接触してくることはないんじゃないかと考えた。
「本当に大丈夫ですか? 風呂を出てからあまり顔色がよくありませんけど」
琉星は持ってきてくれたセルフの水が入ったグラスを二つ、テーブルの上に置いた。
「休んでたらすぐ治るって」
「本当に?」
「……ああ。ほら、若者なんだからなんでも好きなもの食え」
話題を逸らすように、希声は琉星にメニューを渡した。
露天風呂で希声に声を掛けてきた男は間違いない。かつて俳優養成所に所属していた当時付き合っていた男――三橋智哉《みはしともや》だ。
養成所の非常勤講師で、周りには内緒で付き合っていた。あるとき三橋の講座を希声一人だけが受講し、レッスンスタジオで二人きりになる日が続いた。演技の相談や浮気癖のある元カレの相談をしているうちに二人で飲みに行くようになった。
三橋の大人ならではの考えや演技論を聞くのが好きで、尊敬はいつからか恋に変わっていった。体の関係になってからは、より三橋に夢中になった。
今思えば、二十代そこそこの自分は大人の男と恋愛している自分に酔っていたのだろう。三橋の意見は絶対だった。三橋から受けたアドバイスを聞いて守っていれば、恋も演技の上達も順調にうまくいくものだと信じて疑わなかった。利用されていたことにも気づかずに……。
ずっと記憶の端に追いやっていた八年前の嫌な記憶が蘇る。忘れたと思っていたが、過去は干からびたガムのようにこびりついていたらしい。
全く乗り越えられていない自分にも三橋の存在にも吐き気がする。気持ち悪い。希声は琉星が持ってきてくれた水を一気に飲み干した。
「もう一杯注いできましょうか?」
「いや、自分で行く」
席を立ち、水を注ぎに行ったところで考える。今日のことを琉星に話した方がいいのだろうか……と。
そうすると、自分の過去を話さなくてはならなくなる。琉星のことだから、きっと否定はしてこないだろう。会いたくない男に会ってしまったことを伝えれば、今すぐここから出ようと言ってくれるかもしれない。
けれど……今日はせっかく琉星が誘ってくれたのだ。せっかくハルの声を偽ることなく、二人で過ごせる時間だ。自分の前でリラックスして過ごしている琉星を見ていると、水を差すようなことは言いたくなかった。
琉星となるべく離れないように気をつけていれば大丈夫だろうか。三橋と付き合っていた当時、精神的に参ることはされたが、暴力などの物理攻撃をされたことはない。
さっきの様子から、琉星が希声の彼氏ではないことを見抜いていた。琉星に何か害が及ぶ可能性は低いはずだ。
何も知らない琉星に心配を掛けたくない。希声はテーブルに戻ったあと、それから努めていつも通りに振る舞った。
湯上りの酒を一杯だけ飲み、昼食の蕎麦を食べてから漫画エリアに移動した。
琉星と離れることに抵抗があったため、漫画を選ぶ時間を短くしたかった。少女漫画コーナーを通った際、ハルの好きだった少女漫画『恋のスイートバニラ』を片手に持てるだけ手に持って、少年漫画コーナーへと直行する琉星の後に続いた。
「それ希声さんも好きなんですか?」
あぐらをかきながら漫画を読んでいると、琉星が小声で訊いてきた。初めて読むのだから、まだ好きか苦手かなんてわからない。
そもそもこの作品を選んでいる時点で、ハルを意識しているみたいに見えないだろうか。ハルが好きだった作品だから手に取ったとは、なんとなく言いづらかった。
「まあ、ドラマ化されてたしな。読みやすいよ。主人公の女の子も周りに頼ってばっかじゃなくて、自分でなんとかしようとしてるところがムカつかない」
一巻の終盤までを読んだ感想を同じく小さな声で言うと、琉星は「ハル君は主人公にもっと周りに頼っていいのにって言ってました」と微笑んだ。
ハルと比べられたことがなんだか胸につっかえた。いつもなら気にならないのに、今日はどうしたんだろう。自分でハルの愛読書を選んでおいて理不尽かもしれないが、あまりいい気はしなかった。
そのあとは互いに漫画を読み、二時間近く経った頃で琉星が再び声を掛けてきた。
「俺もう一回風呂に入ってこようと思うんですけど、希声さんはどうしますか? まだここで読んでますか?」
もちろん希声に選択肢はなかった。
「いや、俺も行く」
読みかけの漫画をパタンと綴じる。本当はさっき三橋と遭遇した一階の浴場に行くのは気が引けるが、一人でいるよりはマシだろうと思った。それぞれ漫画を元の棚に戻したあと、周りを警戒しながら階段で大浴場のある一階へと下りた。
これだけ時間も経っているのだ。さすがに三橋も館内から出たかもしれないと思った、次の瞬間だった。
「探したよ、希声」
後ろから――今下りてきた階段の上から声が降ってくる。
ゾッとして全身が固まった。冷や汗が一気に額に噴き出る。
突然立ち止まった希声を心配してか、琉星が「希声さん? どうしました?」と振り返った。
「や……っ」
こっちを見るなと言いたいのに、声が出なかった。誤算だった。まさか琉星と一緒にいるときに声を掛けられるなんて。
心臓がバクバクと嫌な拍動を刻む。恐怖で足が立ちすくむ。階段を下りる足音が近づいてくる。
後ろを見ることができずにいる希声に代わり、不思議そうに琉星が希声の背後に目をやった。
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