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第29話

「その人は誰ですか?」  警戒心をあらわにして眉間に皺を寄せると、三橋が答える。 「僕は希声の元恋人だよ。フラれてしまったけどね」 「元恋人……」  繰り返す琉星に、希声は胸を押さえながら声を絞り出した。 「琉星君、今日はもう……ここで解散しよう。またあとで連絡するから……」 「元ってことは、今は他人ってことですよね?」  希声の提案が聞こえなかったのか、琉星は毅然とした態度で三橋に投げかけた。  食いついてくるとは思わなかったらしい。三橋は希声の耳元で「へえ」と興味深そうに感心する。 「そうとも言うね。でも君はかつて恋人だった相手を、今はもう他人だと言い捨てることができるのかい?」 「! そ、それは……」  恋人と一生の別れを経験した琉星にとって酷な反撃だ。琉星は気まずそうに目を落とした。 「希声が裏切ったせいで、僕の人生は滅茶苦茶になったんだ。おっと……その顔は思い当たる節が存分にあるようだね」  希声の顔を覗くようにして、ぬっと男の顔が横から出てきた。下手な美術作品でも見ているような気持ち悪さが、希声の視界をぼやけさせる。息の仕方を忘れ、呼吸が荒くなる。  自分に伸びてくる無数の手に、男たちの荒い息遣い、生温い体温と吐く息にむせ返る汗、男の匂い――忘れたと思っていた記憶がフラッシュバックする。  ――いい子だ。次もできるね?  三橋の声と手が頭を撫でてくる。あのときの感触に体が震える。拒否の言葉を頭からすっぽり抜かれ、希声は「はい」としか口にできない犬にされた。 「あなたと希声さんの間に何があったか知りませんけど、もういいですか? 俺たち、これから風呂に入るところなんです」  琉星が強い口調で三橋に言う。だが三橋はニヤニヤして琉星を見下ろしている。 「何があったか教えてあげようか?」 「やめてくれっ!」  ようやく希声は声を張り上げた。 「お願いだ……っ、あの子には何も……何も喋らないでくれ……!」  琉星には……琉星だけには知られたくなかった。一途に人を愛し続ける男に、自分の過去を知られるのだけはどうしても嫌だった。幻滅されたくない。汚い目で見られたくない。  三橋は不適に笑っているだけで、何を考えているかわからない。今すぐこの男と琉星を引き離したかった。希声はもつれそうになる足で階段を下り、琉星の手首を掴んだ。  自分より大きい男を引いて更衣室に逃げ込む。「ごめん、ここは奢るから一緒にこのまま帰って」と言いながら館内着から服に着替える。  戸惑っている様子だったが、琉星は何も訊かず一緒になって着替えてくれた。そそくさとロビーの受付で会計を済ませ、施設から外に出た。  まだ夕方の四時だというのに、空はだいぶ暗い。雨が降りそうな空模様だ。心なしか空気が湿っている。  スーパー銭湯から出たあと、駅に急いでいるときだった。琉星から「ちょっと待ってください」と呼び止められた。  無理もない。突然現れた男に、パニックになりかけた希声。理由も聞かされず着替えさせられ、駅に向かわせられているのだ。呼び止められたことで、あっと希声も冷静になる。 「あの男の人、希声さんの元恋人だって言ってましたけど本当なんですか?」 「琉星君には関係ないから」 「でも急に絡まれて、こっちもびっくりしたというか」  希声は「ごめん」と一言口にする。 「俺でよければ聴きますよ。あの男のこととか、むしゃくしゃした気持ちとか」  言えるわけがない。知られたくなかったから、あの場から琉星を連れ出したのだ。 「いいよ。べつに人に話してどうにかなるものじゃないし。人に聞かせるようなもんでもないから」 「でもさっきの希声さん、なんていうかすごく怯えているように見えました。俺、あんな風になってる希声さんを見るのが初めてで、どうしたらよかったのか……」 「だから君が気にすることじゃないって。今の連絡先はお互い知らないし、久しぶりに会ったからあっちもちょっかい出してきただけだろ」 「ただのちょっかいには見えませんでしたけど」 「うるせえな! 俺のことなんて放っておけよ!」  唾を飛ばしながら、希声は琉星に吼えた。こんなことを言いたいわけじゃないのに、琉星に当たってしまう自分が情けなかった。琉星は驚いた顔をしつつ、言葉を選びながら反論する。 「何があったかは聞きません。でも気持ちだけでも話したらスッキリするって……マイナスな感情が少しは減るって、ハル君が言ってました」  またハルの話か。いつもなら笑って返せるのに、今日だけは無理だった。 「ハルハルハルハルうるせえんだよ!」  ああ、自分は人に気を遣う余裕まであの男に奪われたのかもしれない。叫んでしまったら、あとはもう止められなかった。 「俺は琉星君のカウンセラーじゃない! 誰かを亡くした悲しみを俺にぶつけるのはもううんざりなんだよ!」  違う。そんなことは思っていない。ハルの話を聞きたくないのは、そんな理由からじゃない。だが溢れた気持ちはコップに溢れた水のように、自分から戻ってはくれない。 「もう……疲れた。どうせ俺は誰にも選ばれないんだ。誰かの振りをしなくちゃ……偽物にならなくちゃ、誰も……っ」  目に溜まった涙がボロボロと頬に落ちる。吐く息がより白くなる。寒いのに、体の中から湧く悲しみが顔全体を熱くさせる。  俳優業も、恋人も……生業にしているスキルシェアサービスや動画配信だって、自分という存在一つで戦えたことなんてない。誰かに扮しなければ、誰も自分を見てくれない。見てくれたとしても、それは中身ではなく人並み以上に見栄えのする派手な顔と人よりちょっといい声だけ。  琉星だってそうだった。だから一緒にいることができたし、本当の自分を知られたら一緒にいられないことなんてわかりきっていた。  契約期間内だけの夢だと割り切っていたから、琉星への気持ちをすんなりと認めることができた。所詮叶わないものだと受け入れることができた。それなのにどうしてこんなにもハルの存在が気にかかってしまうんだろう。これじゃまるで……。  希声はズッと洟を啜った。久しぶりにぐしょぐしょに泣いたせいで頭が割れるように痛い。早くこの場から消えたい。 「……最初俺に依頼したとき、ハルさんの声でなんて言ってほしかったんだよ?」 「え?」  琉星が狐につままれたような顔をする。 「今ここで言うよ。それでもう終わりにしよう」 「終わりって……どういうことですか?」 「そのまんまの意味だけど?」  半笑いで言う希声に反して、琉星は何か言いたさげに目を泳がせる。 「どうせあと一、二回で終わりの契約なんだし、それが今日になっただけって思ってよ」 「そんな……急に言われても」 「今までそっちの我儘に、俺結構付き合ってきたと思うんだけど? 最後ぐらい俺の我儘に付き合ってくれたっていいじゃん」  琉星は口ごもりながら「む、無理です」と拒否した。 「無理? は? なんで」 「だって……そ、そんな泣いてる声で言ってほしくないので」  カッと頭に血が上り、希声は「舐めんじゃねえよ!」と叫んだ。  この期に及んでまだ自身の我を通そうとするのか。ハルの方が……琉星自身が大事なのか。期待していたわけではないが、あまりにも自分がないがしろにされていると感じた。  何のために自分はこんなにも琉星の前で涙したんだろう。悔しくて悲しくてしょうがなかった。
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