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第32話
あとから思い返せば、一度も好きとは言われていない。だが、三橋も自分と同じ気持ちでいると信じていた。講師と研修生という禁断の関係であっても、自分のことを好きだからこそ、周りに秘密にしてでも付き合おうとしてくれるのだと。
だから付き合って三ヶ月ほど経ったある日、行為後着替えていたときに三橋から、
「僕の知り合いに界隈では有名な劇作家がいてね。希声にその人と二人で飲んできてほしいんだ」
と言われたとき、服を着ようとしていた手が思わず止まった。
「智哉さんは? 一緒じゃないの?」
振り返りながら至極真っ当な疑問を返したつもりだった。
三橋は後ろから希声の頭を撫でると、耳元で「僕の言う事が聞けないのかい?」と言った。その手つきは柔らかかったものの、希声が頭を後ろに振り向けないほど強かった。耳の裏に息が吹きかけられてゾクッとする。抱き合っているときの吐息は心地いいと感じるのに、このときの息は吐きそうになるぐらい気持ち悪く感じた。
どうして見ず知らずの他人と酒を飲まなくちゃいけないんだろう。しかも二人きりで。
素直に尋ねると、三橋は答えた。劇作家と知り合いになればいずれキャスティングのときに声がかかる。それが三橋の言い分だった。
確かにそういった繋がりは大事なのかもしれないなと希声は腑に落ちない感情を無理やり喉の奥に押し込んだ。
しかし三橋に言われた通り劇作家と飲みに行ったその日、希声は三橋が自分に近づいた本当の理由を知ることになる。
三橋から行くように指示された店は、著名人や芸能人御用達の高級焼肉だった。店の表入口ではなく裏口の小さな引き戸をくぐったあと、希声は個室のテーブル席へと案内された。あとからやって来た相手の劇作家は、五十代半ばのスラッとした体型の男だ。
顔は覚えていない。店で何を食べ、どんなことを話したのかも覚えていない。ただ店を出たあと、黒塗りのハイヤーに乗せられて銀座の高級ホテルに連れて行かれたことだけは鮮明に覚えている。
ホテルのバーラウンジで度数の高いカクテルを勧められ、気づいたらホテルの広い一室にいた。下半身をあらわにさせられ、体中を好きに舐めまわされた。自身の性器に夢中でむしゃぶりついている男を見下ろしながら、心が死んでいく感覚に襲われる。目の前が二重にも三重にも見えた。
なんで。どうして。自分は一体何をしているんだろう。智哉さんはどこ? 助けて。お願いだから、誰か……。
心では必死で助けを求めたが、希声ができたのは男の手淫や口淫に耐えることだけ。付き合ってから三橋しか受け入れてこなかった後ろも好き勝手に犯され、希声が解放されたのは翌日の朝だった。
男から一万円札を五枚渡され、希声は朝の銀座に放り出された。一人になった途端沸々と怒りと悲しみが噴き出し、希声は渡された金をぐしゃぐしゃに破って道路に投げ捨てた。
三橋のアパートに直行し、玄関のドアを力の限り叩いた。どういうことなのか三橋に問いただしてやるつもりだった。
だが三橋は慈愛に満ちた顔で希声を部屋に迎え入れた。
「聞いたよ。頑張ったんだってね。先方もすごく満足したって言ってくれたよ」
そう言って、三橋は嬉しそうに希声を抱きしめてきた。不思議だった。それまでは三橋に対してあんなクズ野郎とは別れてやる、罵詈雑言吐きまくってぶん殴ってやる、と息巻いていたのに、抱きしめられた途端すべてが吹っ飛んでどうでもよくなった。
三橋の背中に手を回し、服を力いっぱい掴む。頭を優しく撫でられると、何に対して怒っていたのかわからなくなった。心に残っていたのは、悲しみと行為中に強制的に遮断していた恐怖心。
「こ、こわ、かった……っ怖かった、よぉ……っ」
希声はガタガタ震えて泣いた。言いたいことは山ほどあったのに、三橋の匂いに心底安堵してすがりつくことしかできなかった。
「希声が頑張ったことは僕が一番知ってるよ。これは演技の勉強でもあるんだ。次もできるね?」
唇にキスを落とされる。言っていることは無茶苦茶なのに、三橋が正しいことを言っているように聞こえた。
その後も三橋が指定された場所に行くと、必ず業界の誰かが希声を待っていた。映画監督や俳優、十代から二十代の女性に人気の新人アイドルもいたが、どれも男だった。
みな目的は同じだ。中性的でハーフ顔の希声を見ると、男たちは股間と鼻の穴を引くほど膨らませた。
複数人でのプレイを強要されても、目隠しや緊縛での拘束、性玩具を使用されて自分の意に反して失神するまで潮を噴かせられても、三橋に頼まれたからと決して抵抗しなかった。あの頃の自分は容姿と三橋への恋心を利用されていた。間違いなく洗脳されていた。
三橋から逃げようと冷静になったのは、ちょうどオーディションを受け始めて数ヶ月が経った頃だ。演技の勉強になると信じて三橋の紹介する男たちと寝てきた。というのも、
「業界で成功してきた人たちと関わってきたんだ。こんな経験は誰もができることじゃない。それができた君は唯一無二の存在だよ」
三橋にそう言われることが、演技や嫌でも男たちと寝ることに対してのモチベーションになっていたからだ。
どんなオーディションを受けても、自分はいい線までいけると本気で思っていた。
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