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第35話

 希声はスウェットにダウンジャケットを着て、冷たくなったクロックスを履き外に出た。  アパートから一番近いコンビニに向かう。自動ドアに迎えられ、暖房の効いた店内に入る。弁当コーナーに直行しようとした、そのときだった。横から「あのっ」と声を掛けられた。  声がした方に顔を向けて、希声は目をはっと見開いた。そこに立っていたのは、会いたくない男。もう二度と会うことはないと思っていた男だった。 「琉星君……なんで……」 「ご無沙汰してます」  琉星は目を合わせずにペコッと小さく会釈した。グレーのチェスターコートに紺のマフラーを首に巻いている。コンビニに入る前までは手袋もしていたのだろう、マフラーと同系色の手袋がコートのポケットからはみ出ていた。防寒対策の徹底した服装から察するに、琉星がこの近所に住んでいるとは考えづらい。  これは夢だろうか。目の前にいる男は自分の奥底に宿った願望が見せている夢で、自分はおかしくなってしまったんじゃないか。  信じられない気持ちと、真実だったら嬉しいと思う気持ち。何しに来たんだろう、何を言われるんだろうという不安が一気に押し寄せてくる。訳が分からなくなる。混乱した。頭が真っ白になり、希声は咄嗟に後ずさって店の外に逃げた。 「待って!」  琉星の声が追いかけてくる。駐車場の途中まで走ったところで、後ろ手を掴まれた。 「驚かせてすいませんでした。でも俺、どうしても希声さんと話しがしたくて……」  琉星は言いづらそうに口ごもった。 「……俺、琉星君に住所教えてたっけ」 「いえ、プライベートでは」 「顧客情報か」 「すみません……」  その返答から、琉星が勤めている職場で希声の顧客情報から住所を調べたことを察した。 「最低だな。俺が職場に言ったらクビじゃん」 「……はい」  琉星は申し訳なさそうに俯いた。  琉星がリスクを冒してまで自分に会いに来てくれた。本来なら褒められるべきことじゃないけれど、わずかに喜んでいる自分がいた。でも素直に喜べない。一方的に契約を切ったことや、最後の捨て台詞に対するクレームを言いに来た可能性は十分にある。 「それでも来たってことは、よっぽど俺に文句言いに来たかったんだ?」  自嘲気味に言うと、琉星は「いえ」と首を横に振った。 「謝りたかったんです。それと希声さんにどうしても伝えたかったことがあったので」 「そんなのメールでいいだろ」 「メールも考えました。でもこれだけは直接言わなくちゃいけないって思ったんです」  白い息を吐きながら、琉星は前のめりになって希声の目を見た。真剣な顔だ。相変わらずクソ真面目だなと思った。 「俺は確かに、希声さんを通してハル君の声を聞いていました。今思うと甘えてる部分もたくさんあったんじゃないかと反省してます」 「べつに反省しなくていいよ。もともと声真似が得意でこのスキルを売ろうとしたのは俺だし」 「でも希声さん、つらそうに見えました」 「は?」  希声はイラッとして眉をひそめた。 「偽物の振りをしなきゃ、自分は誰にも選ばれないって言ってたから。希声さん、本当の自分は誰にも選ばれないって思ってないですか?」 「……っ!」  琉星の核心を突いた言葉にドキッとする。否定しようと口を開けたが、瞬時に言葉が出てこなかった。 「俺は希声さんにハル君の声で話してもらうことをお願いしていたし、希声さんはずっと偽物の声を出しているつもりだったのかもしれないけど、俺は……希声さんの声や言葉を偽物だと思ったことは一度もないです」  知ったようなことを言われて腹が立った。年下のくせに生意気なことを言うなと吐き捨ててやりたかった。  だが、希声の口から出た言葉は、 「……っふ、うぅ……っく……っざけ、んな……っ」  涙に濡れた声。目の前が涙でかすんでいく。  悔しいのに、ずっと凝り固まっていたしこりに血が通い始めたような温かさが胸に流れた。冷えていた場所がほぐれていく。希声は両手で口を押えながら下を向いた。頬や指の隙間を縫って、生温かい涙がアスファルトの上に落ちる。 「よかったらこれ使ってください」  琉星がポケットティッシュを差し出してくる。ティッシュを奪い取り、希声は何枚もの紙を涙と鼻水で濡らした。

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