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第36話

***  まだ夢を見ているのだろうか。  希声は開けた冷蔵庫の扉に隠れながら、部屋の真ん中に座っている男を盗み見た。  大きい体を丸め、床の上で体育座りをしている。まさか琉星が自分の部屋に来ることになるなんて、夢にも思わなかった。緊張が顔に出ないよう、軽く息を吸ってから冷蔵庫を閉じる。 「まだあんまり冷えてないけど、いい?」 「あ、はい。大丈夫です」  先ほどコンビニで希声が買った三百五十ミリのビール缶を渡す。受け取ると、琉星は「本当にもらっていいんですか?」と訊いてきたので、希声は「いいって言ってんだろ」と自分用に持ってきた手元のビールのプルタブを先に開けた。  コンビニの駐車場でひとしきり泣いたあと、希声は琉星と別れるタイミングを完全に見失った。「それじゃ」と琉星を置いて一人コンビニに戻って買い物を続けるのも変な感じがしたし、この寒い中わざわざ来てくれた琉星に希声から「帰れ」と言うのも気が引けた。  次の行動を悩み渋っていたそのときだ。琉星が大きなくしゃみを五回連続でかました。そこでいつからコンビニで待っていたのかと訊くと、琉星は教えてくれた。 「コンビニで待っていたのは少しだけです。でも今日は休みだったんで、このあたりをずっとぐるぐる散歩してました」  琉星いわく、さすがに希声の自宅アパートに突撃するのは迷惑になる、ストーカーが過ぎると自重したそうだ。 「近所のコンビニで待ち伏せするのも十分ストーカーだわ」 「ほんとですよね……」  希声の指摘から自分の行動を顧みて、その異常さに気づいたらしい。琉星はしょんぼりと肩を落とし、「すみませんでした」と謝罪した。  琉星は自分の声を偽物だと思ったことは一度もないと言っていた。たったそれだけのことを言うために、自分に会いに来てくれた。この寒空の下、会えるかもわからない自分に。  希声は少し考えたのち、琉星に「うち、来る?」と提案した。  ずっと歩きっぱなしだったのだから、さぞかし疲れているだろう。帰るなら、冷え切った体を温めてからでも遅くはない。それ以外に他意はなかった。 そういうわけで、希声にとっての夢のような時間はまだ続いている。  いまだに琉星が自分の部屋にいることが信じられない。希声は緊張がにじみ出ないよう、夕飯のカップラーメンとおにぎりの他に自分と琉星の分のアルコールを買い、琉星を部屋へと招いた。 「あの……俺に構わずご飯食べてくださいね」  気を遣っているのか、琉星は体育座りで小さくなりながら言った。琉星はコンビニに立ち寄る前に、近くの町中華で夕飯を腹に入れてきたらしい。 「今腹減ってないからこれでいい」  そう言いながら酒をクイッと煽る。さっきまで確かに腹が減っていたが、琉星が自分の部屋にいることを意識した途端に食欲もどこかへと消えた。  沈黙が流れる。気まずく感じているのは琉星も同じようだ。酒を飲むペースが希声より断然速い。あっという間に一本を飲み終わった男に、「もう一本いる?」と問う。琉星は「すみません」と言いながらも、希声が渡した二本目の缶を開けた。  音楽か動画でも流した方がいいだろうか。希声は天井に取り付けたプロジェクターにリモコンを向けて電源を点けた。白い壁に薄く映像が映る。電気を消すと、壁に映し出された映像がより鮮明に浮かび上がった。 「これから映画でも観るんですか?」  琉星が酒から顔を上げた。 「いや、適当に動画流そうと思って」 「プロジェクター派なんですね」 「いつもパソコンで作業してるから、こういうときぐらいはな」  どの動画を流すかリモコンで操作しながら選択していると「希声さんの動画を観てみたいです」と琉星の方からリクエストしてきた。 「はぁ? マジで言ってんの?」  曇りのないまっすぐな目をして、琉星は「はい」と訴える。 「前カメラをうちで買ったとき、動画配信をしてると言っていたので。どんな動画を作ってるのかずっと気になってたんです」 「言っておくけど、真面目な動画じゃねえからな? 大人が着ぐるみ着て、ただゲームしたりくだらないことダラダラ喋ったりしてるだけだぞ」  琉星に見られるのは恥ずかしかったが、嫌な気はしなかった。酔いが回っていたこともあり、希声は初見の視聴者が最も観やすそうな動画を選んで再生ボタンを押した。  その動画は夏休みを題材にしたゲームを、結樹アイオが実況している動画だ。ホラゲーよりは勢いはないが、猫をモチーフにしたキャラクターが夏休みにいろんな町に行ったり、人と触れ合ったりするという内容で、視聴者からのコメントでほのぼのするといった感想がよく送られてくる。 『ういーっす。結樹アイオでーす。今日プレイするゲームはね、ある世代のゲーマーには刺さるんじゃないかなー。俺? 俺は永遠の十九歳だからこのゲームは初めてだよ。まあ嘘だけど』  壁には希声の声を発する3Dのキャラクター・結樹アイオが手や表情を動かして話している。 「着ぐるみって、そういうことか」  ふふっと琉星が笑う。  その様子を横目で見ながら、希声もフッと口角を緩めた。自分の動画を他人と鑑賞するなんて未知の体験だ。自分の動画を観られて恥ずかしい気持ちは消えないが、不思議と居心地がいい。それはいる場所が自分の部屋という理由だけではない気がする。  そうか、と思う。自分は琉星と過ごすこの空間が好きなのだ。三橋の件やオーディションに落ち続けた経験から、他人に素の自分を出すことに対してずっと抵抗を感じていた。でも琉星と一緒にいるときだけは、偽ることを純粋に忘れることができた。ハルの声で琉星と話しているときも、だから違和感を覚えていたのだろう。  動画を観ながら酒を飲んでいると、琉星が突然話し始めた。 「希声さんは……俺に傷つけられていませんでしたか?」  動画の音が大きい。希声はリモコンで音量を下げた。琉星は動画を見つめながら、ポツリと言った。 「この前、希声さんから俺のカウンセラーじゃないって言われてハッとしたんです。俺はずっと希声さんを傷つけていたんじゃないかって」  琉星の言う通り、琉星の一挙一動や言葉に傷ついていた。鋭い指摘に、希声はゲーミングチェアの上で背筋をピンと伸ばした。 「どうしてそう思った?」 「希声さんの言うように、俺は希声さんにハル君の影を見すぎていたと思います。それが希声さんを苦しめていたんだって、この前怒られて気づきました」  琉星の返答を聞いてホッとする。よかった。自分の気持ちが琉星に知られたわけではなさそうだ。  ここまで相手の気持ちを推し量ることができる男だ。もしもここで自分が好きだと気持ちをぶつけたら、琉星はどういう反応をするんだろう。怖いが少し知りたい気もした。  希声は二本目のビールを冷蔵庫に取りに行きながら、「うん。傷ついてた」と言う。 「でもそれはこっちの話だから、琉星君は気にしなくていいことだよ」  勝手に好きになって、傷ついていたのだ。どちらも琉星には関係ない。自分の中で勝手に沸いた気持ちだ。

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