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第39話

***  かつて自身も希声に対して無理な依頼をしていた自覚があるようだ。最初は希声との疑似恋愛に消極的な態度を見せていた琉星だが、わりとすぐに受け入れたらしかった。 【今度の休みが今週の木曜と金曜なんですけど、どこか行きたい場所はありますか?】  という質問がメッセージアプリから来たのは、琉星が希声の部屋を訪れた翌日のことだった。  特に希望の場所はなかったが、都内の動物園に行きたいと言ってみた。すると午後にはチケットを購入したという報告と一緒に、待ち合わせ場所から時間まで指定した内容のメッセージが送られてきた。  スキルシェアサービスで契約していたときから、言動の節々にスマートさが表れていた。恋人に対してもそうなんだろうなと思っていたが、疑似恋愛の相手にまで同じように接してくれるのはちょっと意外だった。  デート当日は駅で待ち合わせした。希声が着く頃には、改札の向こうに立つ柱広告の前で、琉星はスマホを見ながら待っていた。  軽くパーマをかけたツーブロックの黒髪と、笑っていないときに見せる切れ長の目はクールな印象だ。改めて離れたところから見ると男前だなと思うし、高身長も相まって話しかけにくいオーラがある。  でも中身は違うのだ。笑うとヨシヨシしたくなるような愛嬌が笑顔に滲み出る。その笑顔を向けてもらえるのは、この世界にたった一人だけ。琉星の恋人だけだ。  改札を抜けて「お待たせ」と琉星の前に立つ。きっと自分がハルなら、ケーキよりも甘い笑顔で迎えてくれるのだろう。だけど自分の場合は…… 「ごめん。待ったか?」 「いえ、俺も今来たところです」  琉星は一人でいるときの表情と特に変えることなく、「じゃあ行きましょうか」とスマホをボディバッグの中にしまって歩き出した。  すんなりと希声との疑似恋愛を受け入れてくれたものの、琉星の態度からは『早く満足させて終わらせたい』という意思をひしひしと感じた。  今さら傷つくことなんてない。傷つく前提で期間限定の恋人になってくれと頼んだのは自分だ。  琉星の後に続いて歩いていると、目の前の男が急に立ち止まる。背中に頭をぶつける。琉星は「あ、そうだ」と独り言を口にすると、くるりと後ろの希声に振り返った。 「はい」  そう言って出してきたのは、琉星の大きな手のひらだ。 「恋人とは手を繋いで歩きます。あくまで俺の経験上ですけど」 「……繋いでいいのか?」  信じられなかった。また琉星と手を繋げる日がくるなんて思っていなかった。希声は手と琉星の顔を交互に見た。目が合うと、琉星は気まずそうに目を逸らす。 「今は恋人なんで」  目を逸らされたまま、琉星からの返答を聞く。本当はこの手がハルのものであったらいいのにと思っているのだろう。ああ、ちょっとでも太ってくればよかったか。でも自分は太っても手に肉はつかないタイプだ。せめて手袋をしてくればよかったかもしれない。  希声は恐々と相手の手の上に自分の手を重ね、「……ありがと」と小さく礼を言った。  そのあとはほぼずっと琉星と手を繋ぎながら動物園を巡った。パンダやキリン、ゾウやライオンなど、いろんな動物を見て回った。トラの赤ちゃんと一緒に写真を撮ることができるコーナーでは、琉星とトラの赤ちゃんを抱っこしながら写真を撮ってもらった。園内のキッチンカーでフライドポテトや焼きそばを買い、子どもが楽しそうに走り回る光景を見ながら昼ご飯も食べた。  これが普通の恋人たちがするデートなのか。上京以前の恋愛でしたデートは田舎すぎて行くところが限られていたし、三橋と付き合っていた頃は相手の家でセックスするか、レッスンスタジオで雑談したり、その帰りにチェーンの居酒屋に行くことぐらいしか恋人らしいことをしてこなかった。あんなものは、デートでもなんでもなかった。今になって希声は過去を否定することができた。  琉星はどう思ったか知らないが、希声にとって動物園デートはすべて新鮮だった。楽しい時間はあっという間に過ぎ、夕方頃になると琉星が「夜は何食べたいですか?」と訊いてきた。  動物園でデートは終わりだと思っていたので、夕飯の希望を尋ねられて驚いた。「なんでもいいよ」と答えると、琉星は「俺にそれ言うと、本当に俺好みの店になっちゃいますよ?」と少し笑った。  今日はすべてと言っていいほど、琉星にエスコートしてもらった。エスコートするのも楽じゃないことは、女と付き合ったことのある身としてわかる。少しは自分の意見も伝えた方がいいかもしれない。  希声はじゃあと、火鍋をリクエストした。希声は辛いものが好きだ。コンビニで辛いカップラーメンやカップ焼きそばが新発売されるたびに、買って食べている。琉星が辛いものが苦手だったらどうしようかと思ったが、琉星も「今日は寒いですし、いいですね」と言って早速近場の火鍋店に予約の電話を掛けた。  それから琉星が予約してくれた火鍋の店で食事し、会計を済ませて外に出る頃には夜の九時を回っていた。自然と駅方面に琉星が歩き出したので、希声もそれに続く。当然のように伸ばされた手に戸惑いつつ自分の手を乗せる。  歩いていると、琉星が言った。 「これも俺の場合ですけど……経験上明日どちらかに仕事がある場合は、今日はもうここで解散します。希声さん、明日は生配信の日ですよね?」  明日は金曜日だ。確かに金曜日に希声は結樹アイオの生配信を行っていたが、今は活動を休止しているのだ。生配信はない。 「いや……今は休んでる」 「え、そうなんですか? どうして?」  純粋な目で尋ねてくる男から逃げるように、希声は目を伏せた。どうしてもこうしてもない。もう会えないと思って参っていたから、なんて活動休止に至った一番の理由を目の前にして言えるわけがなかった。言ったら、きっと琉星は自分自身を責めてしまいそうな気がして。 「べつに。ただ少し休みたかっただけだ」 「ということは……明日はお休み、とか?」 「そうだよ」  ぶっきらぼうに答える。ふと見ると、琉星は片手で口を覆いながら「そっか……」と小さく口にした。 「琉星君は明日も休みなんだろ。俺も休みだったらこの後どうすんの? 琉星君なら」  琉星の言い方から察するに、帰るわけではなさそうだ。もう一軒軽く飲める場所に移動するのか、それとも夜も遊べる所――ダーツやビリヤードにでも行くつもりなのだろうか。  そんなことを考えていると、琉星は口からそっと手を離した。 「どちらも休みだった場合、どちらかの家に行きます」  心臓がドクッと跳ねる。 「たまにですけど、ホテルに行くこともあります」 「ホテル……」  想像すると、体温が一気に上昇した。顔が噴火したように熱くなる。自分で確かめることはできないが、きっと頬も真っ赤になっているだろう。デートすることになった時点で全く予想していなかったわけではない。でも、まさか琉星の方から夜を連想させる発言をしてくるとは。  気まずい沈黙が流れる。互いに自身の足先に目線を落とす。しばらくそうやっていたが、先に沈黙を破ったのは琉星だった。 「どうせ行っても飲み直すだけですし……今俺が言ったことは忘れてください」 「え?」 「もうすぐ駅に着きます。帰りましょうか」  何事もなかったかのように、琉星が再び歩き出した。  このまま帰ったら、無かったことにされてしまう。これから一ヶ月間、琉星の考える恋人同士のあたりまえに触れるチャンスが、琉星の気分や事情次第で消えてしまう。「今言ったことは忘れてください」のたった一言で。  それだけは嫌だと思った。 「待って」  希声は握っていた琉星の手に力を込め、前に進もうとする男を止めた。 「ホテル、行こう」  はっきりと口にすると、琉星の顔が徐々に真っ赤になっていく。「琉星君はっ?」と問い詰める言葉を投げると、琉星は「い、いきますっ」と反射的に答えた。
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