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第42話
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琉星の住んでいるアパートは、新宿から中央線で一本の郊外の駅にあった。駅周辺には大学のキャンパスがいくつかあり、平日は大学生で駅もその周辺の店も溢れているらしい。
仕事帰りらしき人や学生で混雑した電車に揺られて、琉星の最寄り駅に着いたのは夜の十時ごろだ。
明日はお互い仕事はない。もしも初回のデートと同様、また泊まる流れになったら今晩は帰ろうと思った。また琉星が隠れてハルの写真を見ている姿を目撃したら、こちらが無駄に傷つくだけだと思ったからだ。琉星がハルと自分を比べてがっかりする前に退散したかった。
駅から十二、三分歩いた住宅街の一角に、琉星の二階建てアパートはあった。まだ築年数が浅いのか、樹脂系の外壁に汚れは目立っていない。
一応若い男の部屋だ。見られたくないものや、脱ぎっぱなしの服や食べ終わってそのまま放置されたカップラーメンの容器などがあるだろうと予想していた。急な訪問なのだから、ドアの前で待つ時間があると思っていた。
だが琉星は「ここです」と案内しながら、一階の階段下にある部屋の鍵穴に、シロクマのキーホルダーが着いた鍵を差し込んだ。
サンダルしか置いていない三和土で靴を脱ぐ。希声の部屋なら郵便物の墓場になっているはずの靴箱の上には、芳香剤、そして印鑑と鍵を乗せた銀製の小皿があるのみだった。
「綺麗にしてるんだな」
靴を脱ぎながら言う。
「母親が極端なミニマリストの綺麗好きで、整理整頓にうるさいんですよ。実家にいるときに散々注意されてたから、整理整頓が染みついちゃって」
「いいことじゃん。俺の実家なんて母親もばあちゃんももったいない精神の塊だったから、俺の部屋も物で溢れ返ってるぜ」
「そんなことないですよ。希声さんの部屋も男の部屋にしては綺麗だと思いました」
琉星は短い廊下の途中にあるキッチンに立つ。
「お茶淹れますね。あ、お酒の方がいいですか? そしたら俺、近くのコンビニで買ってきますけど」
「わざわざ買いに行くぐらいならお茶でいいよ」
「じゃあお茶にします。希声さんは中でくつろいでてくださいね」
琉星は手際よく電気ケトルでお湯を沸かし、お茶を淹れる準備を始める。男の後ろを通り、お言葉に甘えて先に部屋へと入らせてもらう。
1Kの部屋は玄関と同じで無駄がなく、すっきりとしていた。物は確かに少ないが、極端なミニマリストではなさそうで、テレビ台の上には画面の邪魔にならない位置に腕時計やバスケ漫画のフィギュアが置いてあった。グレーのシーツを被せたベッドや枕、枕元の充電コードも程よくぐちゃっとしていて、ちょっと綺麗好きな男性の部屋という印象だ。
部屋を密かに観察していたとき、ベッドの足元にある小さな本棚が目に留まった。漫画と文庫本が並んでいるが、希声が気になったのは本棚の上にある写真立てだ。否が応でもその中の写真に目が行ってしまう。遠目からでも、それが琉星と誰か――おそらくハルが二人並んで一緒に撮った写真だと判断できる。
もっと近くで見ようと、本棚に近づこうとしたそのときだった。
「緑茶でいいですか?」
後ろから聞こえてきた琉星の声が、希声の足を止めた。
「希声さん?」
振り返り、「あ、ああ」と作り笑顔で答える。写真立てを気にしつつ、そのあと琉星が淹れてくれたお茶を飲んだ。
途中琉星がせかせかとフローリングワイパーで床を掃除し始め、忙しなく感じたものの、綺麗好きな母親に似てマメに掃除するんだなとむしろ感心した。
「そろそろ帰るわ」
希声が立ち上がったのは、部屋に来て三十分ほど経った頃。ハンガーラックに掛かったジャケットを手に取ると、風呂掃除を始めていた琉星が「えっ」と風呂場から顔を覗かせた。
「今日泊まっていかないんですか?」
「は? 俺そんなこと言ってないけど」
「もう夜遅いし、そういうつもりで俺の部屋に来たいって言ったのかと……」
希声は「はあ?」と眉を歪ませる。だからいきなり部屋や風呂の掃除を始めたのかと合点がいった。
そこまで自分が期待していたと思われていたと知り、恥ずかしかった。
「うぬぼれんなっ。俺はただおまえがどんなところに住んでるか、本当に気になっただけだ」
「それも俺のことが好きだからですか?」
唐突に琉星が尋ねてきた。
直接言われると、目の前が真っ赤になるほど悔しくなる。希声は手に掴んだダウンジャケットを琉星にめがけて投げ捨てた。その場にうずくまり、おそらく赤く火照っているであろう顔を隠すように膝に顔を埋めて恨み言を吐く。
「そうだよ……っそうに決まってんだろ!」
この部屋に入った時点で自分が傷つくことは百も承知だった。部屋にはハルとの思い出の物が残っているだろうし、二人で過ごした日々が濃く沁み込んでいるだろうと思ったから。
それでも部屋を見てみたかったのは、琉星の言うように好きだからだ。好きな人のことは傷ついてでも知りたい。
やけくそ気味に希声は言った。
「どんな部屋で毎日寝起きしてるのかとか、こだわりの家具とか、趣味は何なのか、料理とかすんのかとか……好きだったら気になるもんだろ。知りたいって思う俺は間違ってるのか?」
琉星は風呂場から出てくると、希声のジャケットを拾った。
「すみません。希声さんを試したわけじゃないんです。でもなんで俺なのかなって……いくら考えてもわからないんです」
帰らせるつもりはないのだろう。琉星は希声のジャケットを丁寧に広げると、再びハンガーラックへと掛けた。
「俺だってそんなの……」
わからない。でもあえて言うならこれしかなかった。
「あんたが欠けてたから……人を愛さなくちゃ生きていけない人間なのに、欠けてたから……」
愛する人を失っていたからこそ琉星に惹かれたのだと、希声はこのとき理解した。
ああ、今までの苦しみの原因は、最初からすべて目の前にあった。ハルがいなければ、ハルが琉星の目の前からいなくならなければ……自分はそもそも琉星に恋をすることもなかった。
希声は琉星とのその先を少しでも期待していた自分に呆れる。勝手に好きになった挙句、ハルに嫉妬しながら疑似恋愛で心を満たそうとしている自分がひどく滑稽に思えてくる。
琉星は自身の足先に目を落としながら、悔しそうに拳を握って言う。
「やっぱり……俺にはよくわからないです」
「わからなくていいんだよ。琉星君は」
それからすぐに風呂場のお湯張り完了を告げる軽快なメロディとアナウンスが部屋に響いた。
「せっかく沸かしたんで、入っていってください」
琉星はそう言うと、クローゼットの中から柔軟剤の香りのするバスタオルと未開封のボクサーパンツ、そして少しヨレた大きめサイズのスウェットを出してきた。
「ちなみにこのバスタオルもスウェットも俺しか使ってませんから」
配慮のつもりなのか、琉星は生前のハルが使っていないことをアピールした。スウェットまで渡されてしまったら、今日はもう泊まるしかないだろう。いつになく強引な琉星は珍しかった。
希声は「サンキュ」と風呂セットを受け取り、風呂場へと向かった。カビ一つない浴室で髪と全身を洗い、数分湯船に浸かったのちさっさと上がる。人の家という理由が一番だが、琉星にそのつもりがないことははっきりわかったし、前ほど望んでいる自分もいない。後ろで受け入れるための準備はしなかった。
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