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第43話
借りた部屋着に着替えたあと、風呂場から部屋に戻ると床にはリクライニングを倒したソファベッドが敷かれていた。琉星が用意しておいてくれたようだ。
「俺がこっちに寝るんで、希声さんはベッド使ってください」
「え、俺が下でいいよ」
「だめです。このソファベッド便利だけど薄いんで、希声さんの細い体じゃたぶん寝られないと思います」
琉星は続けて「冷蔵庫にあるものは何でも飲んでください」と言い残し、自身の着替えを持って風呂場へと向かった。
琉星は良く言えば意志が固く、悪く言えば頑固だ。意地でも希声を上に寝かせようとしてくるだろう。このまま甘えてベッドに寝た方がいいと判断し、希声はふうとベッドに腰を下ろした。
濡れたままの髪の毛をバスタオルでタオルドライしていたとき、ふと本棚の上にあった写真立ての存在を思い出した。琉星のいない間に勝手に見るのは悪いと思ったが、ハルと――愛する人と一緒にいるときの琉星が、どんな顔をしているのかどうしても気になった。
「ごめん! 琉星君!」
顔の前で強く手を合わせ、本棚の上を見る。するとそこには、先ほどまで置いてあった写真立てが姿を消していた。琉星がソファベッドを用意しているときに落としたのだろうか。希声は本棚の中や裏を探したが、写真立てはどこにも見つけることができなかった。
もしかして琉星が移動させたのだろうか。自分に気を遣って……?
部屋着のときもそうだったが、気を遣われることに対して悪い気はしない。だが今は複雑な気分だった。自分の中にある琉星への気持ちや想いが、琉星を苦しめているんじゃないか。ハルとの思い出に浸る時間を奪っているんじゃないかと。自分が不甲斐なく感じる。
しばらくすると、風呂から上がった琉星が戻ってきた。質感の強そうな髪は湿っていて、少し癖のある毛先から落ちた雫が、肩で紺色のスウェットを濡らしている。
琉星の風呂上がり姿はラブホテルでも見たが、あのときとはまた違った色気を浴び、希声はくらくらした。琉星の匂いに満ちた部屋にいるせいかもしれない。
希声は「もう寝るわ」と言い、ベッドの上の掛け布団をめくった。次の瞬間、冷蔵庫前で麦茶を飲んでいた琉星が言った。
「その頭で寝るんですか? 風邪引きますよ」
「え、もう乾いてるし……」
小さく反論したが、琉星の所感ではまだ希声の髪は濡れているらしい。
「どこをどう乾かしたらまだそんな濡れたままでいられるんですか。ちょっとそこに座ってください」
と希声にソファベッドの端に座るよう指示した。
脱衣所から戻ってきた琉星が手にしていたのは、旅行用などで使うタイプの小型ドライヤーだった。琉星が持つとなおさら小さく見える。無意識に「ちっさ」と言うと、琉星はムッとした様子で言った。
「うちにはこんなドライヤーしかないけど、これでも結構乾くんですよ」
琉星は足元のタコ足配線にドライヤーのコンセントを差してベッドに腰かけると、希声の髪に触れてきた。あまりにもためらいのない手つきとそのあまりの自然さに、心臓を抓まれたようなこそばゆさを感じる。
ドライヤーの電源を点ける。そのまま希声の濡れた髪を乾かし始める。
「じ……自分で、やるよ」
振り絞って言ったが、ドライヤーの風の音にかき消される。琉星はいろんな角度から温風を当てて、希声の線の細い髪をわしゃわしゃと乾かしていった。
「琉星君さ、もしかして俺に気を遣ってる?」
ドライヤーの音に負けないよう声を張って訊く。琉星は「遣いますよ」と即答した。
「疑似とはいえ、今は希声さんと付き合ってるんですから。全部とはいかないですけど、これでも一応俺が付き合った人にしてきたことは希声さんにもやってるつもりです」
「こうやって髪乾かしてあげるのも?」
少し間を置いてから、琉星は言う。
「……そうです」
「夜中にコソコソ誰かの写真眺めるのも?」
ちょうど希声の髪が渇いたタイミングだったのか、琉星がドライヤーの電源を切った。
「起きてたんですか」
「ちょっと目が覚めただけだよ」
琉星はコンセントを抜いたあと、何も言わずに部屋の電気を消した。スマホのライトで足元を照らして移動し、希声に背を向けるようにして布団とソファベッドの間に潜り込む。
「悪かったよ。盗み見して」
形ばかりの謝罪を述べ、希声もベッドに移動する。機嫌を損ねてしまったかもしれない。勝手に盗み見たことは反省しているし、このタイミングで自白したことにも後悔した。
琉星が義務として自分に接していることは十分わかっている。ただ本人の口から『疑似』という言葉を聞くと、やっぱり胸が痛んだ。布団を頭から被ると、暗闇の中から琉星の声がした。
「希声さんは俺とこうやって過ごすのは楽しいですか?」
つらいに決まっている。でも一瞬一瞬で見れば、
「楽しいよ」
「変わってますよね、希声さんって。俺なら好きな人と期限付きで付き合うなんて考えられないです。死んでも嫌だ」
それは琉星が幸せな恋愛しか経験したことがないからだ。そう思ったが、口にはしない。
「琉星君はまだまだだな。ケツが決まってるから楽しいんだよ、こういうのは」
「やっぱり希声さんの言ってることは理解できないです」
ふと修学旅行みたいだなと思った。いつもと違う環境で枕を並べて、消灯した部屋で話している今このときが。琉星はどんな子どもだったんだろう。学生時代はどの部活に所属していたんだろう。知りたい気持ちが、また沸々と胸で躍り出す。
「希声さんは……俺と付き合う未来を考えたことはあるんですか?」
「ないよ」
意外だったのか、琉星が寝ている方向から「え」と飛んでくる。
「なんだよ、意外と付き合うのもありかなーって思い始めてた?」
「そ、それは……ただ、このまま付き合ったらどうなるんだろうとは、少しだけ……」
全く自分に興味ない態度をしていたが、そうか。少しは考えてくれていたのか。それだけで心が軽くなった。
「ただでさえ若者の大事な時間を奪っている自覚はあるんだ。こんなくだらないことはちゃんと約束通り期間内で終わらせるから、琉星君は安心していいよ」
ハルに嫉妬して自分を見失いそうになったこともあったけれど、ハルが心にいた琉星だから好きになった。時々切なくなるけれど、今はもう琉星を解放してあげる方向に自然と気持ちが向いている。来週は会えないが、疑似恋愛の期間は再来週まで続くのだ。
まだ期間内だが、希声は今言いたくなった。
「すげえ楽しかったよ。琉星君といろんな所に出かけたり、メシ食ったりするの。手繋ぎながらイルミネーション見るのも、誰かに髪乾かしてもらえたのも初めてで嬉しかった。付き合ってくれて……夢見させてくれてありがとうな」
希声が言ったあと、琉星はわずかな沈黙を挟んだ。やっと聞けたと思ったら、琉星はうんざりしたような声で返してきた。
「希声さん……誰かの振りをしなくちゃ選ばれないって、あれ嘘ですよね」
声が少し掠れている。表情が見えないから、琉星がどんな意図で言葉を発しているのかまではわからない。
「だって希声さん、告白してきてから俺が理解できないことばっかり言うし、自己主張激しいし……勝手に悟り開いてるし、なんていうか、その、」
続けて何か言うのかと思って待つが、琉星はその先を言わない。
「その?」
「かわ――……」
川? と訊き返そうとしたところで、慌てた様子の琉星が絞り出すように「い、いじわるです」と言い換えた。
「いじわる――いじわるかあ。俺そんなこと言われたの初めてだわ」
琉星が褒め言葉で言ったとは思えないが、不思議と褒められたあとのような気持ちになった。
自分は何にもなれない、何もないと思っていた。人より派手で整った見た目を利用する人間はいても、自分は誰にも愛されない、そのままの自分を見てくれる人間なんて、この世界には存在しないのだと。
改めて琉星を好きになってよかったと思った。琉星を好きになったから、自分の中に人を好きになれる心がまだあったことに気づくことができた。自分の気持ちに正直になることを知った。もし琉星を好きになることがなければ、相手を思いやることも、嫉妬で心を焦がすことも知らないまま年を取っていたかもしれない。
片想いでもいい。愛されることは叶わなかったが、好きな人が自分自身を見てくれたことが嬉しかった。苦しくて心を乱されたこともあったけれど、今なら自分は十分満たされていたと胸を張って言える。
枕に顔を埋めながら、希声はふふっと笑った。大丈夫だ。いい思い出にすることができそうだ。
「おやすみ」
春の訪れを待ちわびるかのような気持ちに心が穏やかになる。希声は琉星の匂いに包まれながら、そっと目を閉じた。
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