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第44話
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琉星の部屋に泊まった翌日、帰る前に琉星と駅でチェーン店のカフェに入った。モーニングセットで腹を満たし、それぞれ自分の会計を済ませて店を出たあと改札前で別れた。
駅まで送ってくれただけでもありがたかったが、一緒に朝ご飯を食べてくれたことが嬉しかった。いつになく心が晴れ晴れしていたのだろう。希声は改札前での別れ際、
「墓参り、気をつけて行ってこいよ」
と心置きなく琉星に送り出す言葉を伝えることができた。
「ありがとうございます。うなぎパイ買ってきます」
「いいよ。帰ってきてもどうせ契約期間はあと一週間もないし。そんなことより、向こうで美味いもの食べてハルさんを偲んできな」
「でも俺は……」
「もしかして前に水族館のお土産を買ってきたこと気にしてんのか? あれは俺が勝手に買ってきただけだからお返しとかいらねえよ」
彼氏や恋人ではなく、後輩相手にそうするように希声は琉星の肩を叩いた。
「じゃあな」
何か言いたさげな表情の琉星を置いて、希声は後ろに手を振りながら改札機にICカードをタッチして通り抜けた。
琉星と別れて電車に乗ったあと少し寂しさを引きずったものの、自宅アパートのドアを開ける頃にはそれも薄まっていた。
今日は久しぶりに結樹アイオの配信アカウントにログインしてみよう思ったからだ。突然の活動休止からしばらく経つ。最初の方こそアカウントにログインし、視聴者から届いた心配してくれるコメントやダイレクトメールをチェックしていた。だが、失恋の痛手でそれらに感謝の気持ちを示すことができなかった。何も返せない自分が歯がゆく、年始を迎えてからはまだ一度もログインしていない。
もうすぐ活動休止から一ヶ月が経つこともあり、活動再開にちょうどいいかもしれない。少なくとも待っていてくれている視聴者に、活動再開も遠くないことを報告したかった。
希声は帰宅するなり、ドラッグストアで買ってきたハンディタイプの埃取りとエアダスターでパソコン周りの機材を掃除した。埃を被っていた希声の商売道具があっという間に元の黒さを取り戻す。電源を点けると聞き慣れた起動音が沸く。
結樹アイオが活動の主軸としている動画共有サービスのアプリを開き、ログインするためアカウント名とパスワードを入力する。半月以上ぶりに開いたアカウントには、最後に投稿した動画に対する新着コメントの通知が千件近くきていた。骨の折れる作業になるだろうが、まずは一つずつコメントに目を通していくことにした。
マウスでスクロールしながら見ていくと、コメントのほとんどが結樹アイオを――いや、アイオの中の人を気遣う内容のものばかりだった。
【今はゆっくり体を休めてね】
【アイオのペースで大丈夫だから無理はしないでください】
【いつまでも更新楽しみに待ってるよ!】
励ましと労いの優しいコメントが並ぶ。読んでくうちに涙腺が緩みそうになる。
「ちゃんといたんだな……」
見てくれる人はちゃんといた。いつもはありがたいと思うだけで、心まで動かされたことはなかった。だけど今は、こんなにも胸が熱い。一つ一つの温かいコメントが身に染みる。自分が気づこうとしなかっただけで、見てくれる人はちゃんといたのだ。
四桁あるコメントすべてに返信することはできないが、せめて読んだこと、そして感謝の気持ちを伝えたい。希声はコメント一つずつにハートのスタンプを送ることにした。
それは未読のコメントも残り半分ぐらいになったとき。あるコメントを境に、コメントの中にネガティブなものが混ざり始めた。発端になったコメントは、
【自分だけ楽になるつもりかい?】
という、まるで希声に問いかけるかのようなものだった。
コメントを送った相手は、意味がないと思われるローマ字や数字をただ羅列しただけのユーザー名の人物。これだけで相手を特定することは難しいだろう。だが、そのコメントの直後に、
【人の人生を滅茶苦茶にしておきながら、自分だけ過去を忘れることはできないんだよ】
希声の過去について言及するコメントが続いたことで、希声は息を呑んだ。
自分の過去を知る身近な人間は最近打ち明けた琉星と、加害者本人である三橋だけ。その時点で、コメントを残した人間が一人しかいないことを希声の直感が告げる。
間違いない。このコメントを書いたのは三橋智哉だ。判断材料はたった二つのコメントだけだが、それだけで頭の中に警戒音が鳴る。
三橋と思われる人物のコメントはその後も応援コメントの合間に現れた。目に付く頻度が増えるごとに、希声のマウスを持つ手の震えが大きくなっていく。
もしかして、と思ったのは、三橋と思われる人物がコメントすることができなくなるよう動画共有サービスの運営に通報したあと。未読のコメントが残り三分の一ほどになった頃だ。
希声は結樹アイオの日常のつぶやきや動画の更新情報を発信しているSNSのアカウントも二つ持っている。スマホからそれぞれのアカウントにログインして確認すると、数え切れないほどのダイレクトメールが届いていた。メールを見ただけで、動画共有サービスにあったコメントと同じような内容のものや誹謗中傷がずらりと並んでいる。
誰でも閲覧できる動画共有サービスのコメント欄とは違い、ダイレクトメールは個人宛だ。送られた希声本人しか見ることができない。動画共有サービス上のコメント欄よりもさらに過激かつ卑猥な言葉、そして脅し文句が希声を不安と恐怖のどん底に突き落とした。
【この前一緒にいた彼とは寝たのかい?】
【僕なら君を一生可愛がってあげられる。会って話しをしよう。】
【無視し続けるなら僕の方から君の所に直接行くよ。】
【僕には君の本名や過去を明かすことができるんだ。そのことを忘れてはいけないよ。】
【君を抱いた男たちは君の首のホクロをよく褒めていたよ。僕もまた舐めてあげたいな。】
恐怖にスマホを持つ手が大きく振れる。希声は読んでいる途中で気持ち悪くなり、オエッとえずいた。スマホが手から滑り、ゴトッと床に落ちる。ドクドクドク……と頭の血の気が下へ下へと流れていく。息をすることさえ忘れそうになる。
琉星に連絡……いや、疑似恋愛中とはいえ、自分と琉星は本当の恋人同士ではない。三橋の件は過去の自分が蒔いた種だ。ハルの墓参りの準備もあるだろう、琉星を巻き込むわけにはいかない。ハルとの時間を邪魔しちゃいけない。琉星に迷惑は絶対にかけたくない。
希声は激しく動揺する中、落としたスマホを小刻みに震える手で拾い上げる。
希声は事務所に入っていない。こういったトラブルの際に頼れる相手はいない。いざとなれば警察に相談すればいいと高を括っていたからだ。自分で……自分一人でなんとかしなければ。
三橋と思われる人物は最初から希声に通報されると読んでいたのか、SNS上では複数のアカウントを駆使してダイレクトメールを送ってきていた。一つずつアカウントを通報し、ブロックしていっても、相手はリアルタイムでダイレクトメールを送ってくる。もぐら叩きのように、新しく作成したアカウントからメールが何通も届いた。
このままでは埒が明かない。もっと別の方法で対処した方がいい。頭ではわかっていても、次々と送られてくる三橋からのメールを見ていると判断力がどんどんと鈍っていった。
部屋に籠りながらダイレクトメールのしらみつぶしを行って四日。希声はこの頃から、玄関の向こうの廊下を通り過ぎる足音やインターホンの音にさえ怯える状態になっていた。
最初の二日間はネットからフードデリバリ―を注文して食べ物や飲み物を確保していた。が、後半は届けてくれた直後のインターホンはおろか、ドアの前に置いてもらうことで配達員と会わずに商品を受け取ることができる置き配の足音やガサゴソ音でさえ、恐怖を感じるようになってしまった。
部屋に籠りっぱなしで、三橋から次々と送られてくるダイレクトメールと向き合う日々。活動再開への意欲どころか、食欲や睡眠欲も何もかも削がれていく気がした。このままでは本当に気が狂ってしまいそうだった。
一回外に出よう。希声はスカスカになった冷蔵庫の中を見て思った。三橋からのメールには希声に会いに行く素振りを匂わせたものもあったが、ネットのツールだけでコンタクトを取ろうとしてくるということは、こちらの住所までは知らないのだろう。
大丈夫。大丈夫だ……外の方が人の目もある。一度外に出て、おかしくなりそうな頭を冷やしたい。今後のことはそれから考えよう。
パーカーのフードを目深に被ってから、希声は自宅アパートを出て近くのコンビニへと向かった。周りを警戒しながらものの数分で買い物を済ませ、帰路に就く。
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