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第46話
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頭がぼーっとする。頬が熱くて痛い。口の中が切れているのだろうか。舌に血の味が広がっている。うまく息が吸えなくて苦しい。口にタオルを押し込められているようだ。
希声はゆっくりと瞼を開けた。二重にも三重にも見える視界の中にあったのは、結束バンドで両足の親指を縛られた自分の脚だった。その上膝には服の上から粘着テープがぐるぐると巻かれている。
「……っ!」
痛みで顔を歪ませながら、感触を辿って上半身の状況も確認する。両手の親指も結束バンドで縛られた上、腕を固定するように胸から背中までを粘着テープで巻かれていた。
「目覚めはどうかな?」
冷淡な声を落とされる。ベッドの上に芋虫のごとく転がりながら声のする方を見ると、三橋が希声のゲーミングチェアに座っていた。
口を封じられているせいで話せない。モゴモゴと口を動かす。三橋は希声の赤く腫れ上がった頬に平手を近づけた。
「わかっているね? 大声を出したら僕はさっきのように容赦なく君を打つ」
琉星との電話を切った直後、道端で大声を出そうとしたら強烈な平手打ちを頬にかまされた。その衝撃で口を切っただけでなく、軽い脳震盪を起こした挙句意識を失った。三橋は希声の財布の中から抜き取った免許証に記載された住所を見て、ここまで自分を運んだのだろう。目が醒めたときには、自宅アパートのベッド上で三橋に見下ろされていた。
スマホは意識を失っている間に没収されたのか、目に見える範囲にその姿はない。
三橋の手に怯えながら、希声は下唇を噛んで頷いた。男が希声の口からタオルを引き抜く。もう一度「気分はどうかな?」と訊かれ、希声は「最悪だ」と吐き捨てた。
「それはこちらの台詞だよ。君はどうしてあのとき逃げたんだい? 僕はそのことについてずっと聞きたくてね」
どうせこのまま怯えていても、自由の利かない体では三橋の手の中で好きにされるしかない。だったら目一杯反抗してやろうと思った。まさに窮鼠猫を嚙む状態だ。希声はペッと血の混じった唾を吐いた。
「どうしてかって? 汚ねえオッサンの相手すんのも、あんたの顔を見んのもうんざりになったんだ。それ以外の理由があるかよ」
睨みつけると、三橋は「残念だ」と言った。
「君があのとき約束を反故にした相手は葛原誠という著名な演出家だったんだ。君が相手をしていれば、君は大きな舞台の主役を任されていたはずなんだよ」
「誰がそんな話信じるかよ! あのあと逮捕されたらしいじゃねえか。その演出家のオッサンどころか、他のオッサンたちに俺をあてがったのも、演技のためなんかじゃねえ。どうせ金欲しさのためだったんだろうが!」
その瞬間、三橋の平手打ちが顔に飛んできた。衝撃で鼓膜が破れたのか、激しい耳の痛みとともにキーンという耳鳴りに襲われる。反対の頬も勢いよく打たれ、意識が朦朧とした。揺れる頭を固定するように、髪をぐいっと後ろに引っ張られた。
「ああ、ここのホクロは相変わらず色っぽいね。君が逃げずにこのホクロを味合わせてあげていたら、葛原さんも僕を警察にチクったりしなかったんだろうなァ」
ベロリと生温かい舌で首の右筋を舐められる。気持ち悪くて吐きそうだったが、吐くほどの固体が希声の胃の中にはない。
このまま自分は殺されるのだろうか。殺されるだけならまだいい。当時のように体を好きに弄ばれ、凌辱されるのだけは御免だった。大嫌いな男に――好きでもない男に抱かれるくらいなら、舌を噛み千切って死んでやる。
そんな希声の願いも虚しく、三橋の手と舌が蛇のように体を撫でまわし始めた。首筋のホクロを味わうように舐めながら、希声のパーカーの裾をたくし上げる。胸の飾りを指で強く抓られ、希声は痛みで嫌悪の声を呻らせた。嫌だ嫌だ嫌だ……っ。三橋に洗脳されていたあの当時は誰にどこを触られても何とも思わなかったが、今は死んでもこの体を他人に触らせたくない。心を許した相手以外に触られたくない。
「クソッ! やめろっ!」
希声は拘束された身をよじらせて、三橋の接触を拒んだ。先ほど平手打ちされたばかりの頬と耳を、再び三橋から与えられた衝撃と破裂音が襲う。二発、三発と交互に頬を打たれ、両方の頬が燃えるように熱くなった。頬が腫れたせいで息ができない。苦しい。
どんなに顔がぐちゃぐちゃになってもいい。三橋に嘲笑われても、琉星が綺麗だと言ってくれたこの顔が元に戻らなくても構わない。希声はロボットのようにこちらの顔を打ち続ける男に向かって咆哮した。
「いいか覚えとけ! 俺の体は俺のもんだ! 俺に触っていいのはてめえでもてめえの金ヅルでもねえんだよ!」
喉が潰れるほど叫ぶと同時に、ミシッと窓ガラスに石か何かがぶつかったような衝撃音が部屋に響いた。耳が半分聞こえづらいため、どこの窓から音がするのかわからない。
手を上げたまま動きを止めた三橋の目線は、カーテンで閉め切っていたベランダに向いている。希声が男の目線の先を追いかけた矢先、何度かガラスを叩くような音が続いた。これまでの中で最も大きなバリンッという音とともに飛び散ったガラスが部屋に散ったのは、それから間もなくのことだ。
外の風が雪崩のように流れ込み、室温が一気に冷えていく。カーテンをはためかせた先に立っていたのは琉星だった。車に置いてあるような緊急脱出用の赤いハンマーを手にした琉星は、ベッドの上で拘束されている希声を見るなり唇をきつく結んだ。眉を寄せて下げ、ギロッと三橋を睨む。
こんな風に怒りをあらわにする琉星を見たことがない。琉星は相手を見据えながら、ガラスが散乱した床を靴のまま踏んで男に一歩近づいた。
琉星の気迫に気圧されたのか、三橋は琉星が距離を詰めるとオドオドしながら後ずさりする。靴下の足でガラスの破片を誤って踏んだのか、三橋は「ヒエッ」と締め上げられた鳥のような声とともに床に尻餅をついた。
「ぼ、僕は何もしていない! 元教え子と仲良く話をしていただけだっ」
三橋が苦しい弁明を並べる中、琉星は終始無言だった。ミシッ、ミシッ、とガラスを踏む琉星の足音が男に迫る。
「誘ってきたのは向こうなんだ、僕じゃないっ、信じてくれ、僕じゃ……っ」
顔の前で両手を上げる男に対して、琉星は一切表情を変えない。
「言いたいことはそれだけですか?」
やっと口を開いた琉星は酷く冷たい声で言うと、右手に持っていたハンマーを頭の上に振り上げた。
「待ってくれっ! 僕を殺したら君も人生がパアだぞ! それでもいいのか! はははっ! それでもいいんだなっ!」
気が触れたみたいに三橋が笑いだしたところで、琉星の頭上にあったハンマーが振り下ろされる。三橋が悲鳴を上げた瞬間、
「やめろ! そんなことをしたら本当におまえが――!」
希声も琉星に向かって叫ぶ。
しかしいつまで経ってもハンマーが頭や床を砕く音は聞こえてこない。その代わりというように、立っていた三橋の上半身が両手を広げてバタンと床に倒れた。
「え……?」
ポカンとしていると、琉星が振り返って「気絶したみたいです」と説明した。三橋が持ってきたと思われる粘着テープを使って手早く男の手に巻いたあと、琉星は改めて血相を変えて駆け寄ってきた。
「傷がこんなに……っ遅くなってすみませんでした……っ」
心底悔しそうに歯を食いしばりながら、琉星は希声の手足を拘束していた粘着テープと結束バンドをハサミで切った。
解放された途端、どっと疲労感に襲われる。だけど頭はまだどこか興奮状態で、自分の意思に反して体が震える。
琉星はそんな状態の希声を、優しい手つきで躊躇なく抱きしめてきた。
自分は今、顔中血まみれの状態だ。琉星の服に血がついてしまう。
「おれ今ひどい顔してるし、汚いから……っ」
背中まで手を回す男の体を押すが、琉星は微動だにしない。希声を離そうとしない。
琉星の匂いが顔の横ですると、もうダメだった。ここ数日ずっと張り詰めていた緊張の糸が緩む。
「だ、じょぶ、だって……おれ、俺……っ」
「喋らなくていいです。深呼吸して、抜けそうだったら肩の力だけ抜いてください。さっき警察を呼びました。もう大丈夫です、希声さんは大丈夫ですから……」
琉星の優しい声が、音を拾いにくくなった耳に流れ込む。恐る恐る琉星の背に手を回すと、琉星はより深く希声を抱きしめてくれた。
「俺はここにいます。希声さんの傍にいます」
サイレンの音が遠くの方で鳴っている。その音よりも、琉星の息遣いが心をほぐしていく。希声は琉星の胸を借りながら、わんわんと泣いた。
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