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第48話

***  室内に入った琉星は、希声が「そこ座れよ」と見舞い客用の丸椅子を出しても座らなかった。何を考えているのか、自分の足先を見たまま病室のドアの前で突っ立っている。 「立ったままじゃなきゃダメ? 琉星君背高いし、首が痛くなりそうなんだけど」  希声がベッドの端に腰かけて言うと、琉星は「すみませんっ」と慌てて丸椅子をベッドの近くに移動させて座った。見舞いの品を持ってきたようで、紙袋から細長い箱を取り出した。 「うなぎパイだ。本当に買ってきてくれたんだな。気にしなくていいって言ったのに」 「約束しましたから」  希声が三橋に監禁される直前、琉星はハルの墓参りで静岡に向かうため東京駅にいた。希声が電話越しに助けを求めたせいで、琉星はあの日の静岡行きを断念することになったはずだ。 「……悪かったよ。旅の予定狂わせちまって」 「謝らないでください。一度は会ってたのに……っ俺の方こそもっと早くからあの男を警戒するべきだったんです。そうすれば希声さんにこんな傷を作らなくて済んだんだ……っ」  琉星は太ももの上で拳をギュッと握りしめた。悔しそうだった。 「タラレバの話はやめようぜ。そもそもあの男と琉星君を近づけないようにしてたのは俺の方だし、結果的に俺は琉星君に助けてもらった。あの男も逮捕された。琉星君には本当に感謝してるんだよ」 「俺は感謝されるほどのことはしてないです」  琉星は頭を下げたまま首を横に振って否定した。病室の前で会ったときから琉星がよそよそしかった理由はこれか。琉星は琉星なりに、罪悪感を抱いていたらしい。優しい男だ。  希声は首を垂れる男のつむじを見ながらふっと笑った。重たい空気と事件の話題から、一回離れた方がよさそうだ。希声は手元の箱の包装紙を剥がし、蓋を開けた。うなぎパイを一枚手に取り、個包装を開けて一口かじる。パイ生地にまぶした砂糖がザラザラして甘い。「病院食に飽きてたから、いつもよりすげえ美味く感じるわ」と言いながらあっという間に一枚食べ終えた。 「墓参りはどうだった?」  ハルの話題になれば、少しは琉星の気持ちが晴れるかもしれない。そう考えて振った話題だったが、琉星は「行ってません」と即答した。 「行ってないって、静岡には行ったくせに墓参りはしてこなかったのかよ?」 「静岡にも行ってません。そのお菓子は友達に頼んで買ってきてもらったものです」  希声は琉星と膝の上の箱を交互に見た。 「なんでそんなこと――もしかして、現場検証とか事情聴取にかなり時間かかった?」  琉星は「いえ」と否定する。行く暇がなかったのかと思ったが違うようだ。だとしたらまた自分に気を遣ったというのだろうか。どちらにせよ、結果的に自分は琉星の邪魔をしてしまったのだ。どう謝ってもうわべだけのものになりそうで、希声は謝罪の言葉を発することができなかった。  長い沈黙が続く。なじられる方がよっぽどマシだと思った次の瞬間、神妙な面持ちの琉星が口を開いた。 「次ハル君のお墓参りに行くときは、俺と一緒に来てくれませんか?」  一瞬、何を言われているのか理解できなかった。やっとのことで飲み込んだあとに喉から出たのは「は……?」という間の抜けた音。 「希声さんから『助けて』って言われた直後に電話が切れたとき、頭が真っ白になりました。何も考えられなくなって、気づいたら夢中でホームの階段を走り下りて改札を出てました」  一緒に新幹線に乗る予定だった友人は、後から琉星の様子を教えてくれたそうだ。 「自分では全く覚えてないんですけど、俺、友達に言ってたらしいんです。『俺今日行けない。希声さんのところに行かなきゃ』って」  それは琉星の耳と頭が、電話から聞こえた声のトーンによって希声の身に事件性のある事態が起きたと判断したからだ。そう思ったが、琉星は希声が反論する前に続けた。 「ハル君が亡くなってからずっと、俺の中ではハル君の命日に墓参りをすることが当たり前になっていました。それこそどんな用事を差し置いてでも、ハル君の墓前にハル君が好きだった花とお菓子を持って、会いに行ってたんです」  琉星はやっとこちらを見ると、寂しそうに笑った。 「一年で一番忘れられない日――忘れちゃいけない日だったんです。忘れたら俺は一生自分を恨むと思ってた。でも希声さんの……っ希声さんの声を聞いた瞬間俺は……っ」  琉星は歪んだ顔を両手で覆った。目の前にいる男がひどく苦しんでいる。それなのに自分は何もすることができない。希声は奥歯を噛み締めながら、琉星の言葉の続きを待った。 「……自分でも驚くほど後悔していないんです。ハル君に会いに行かなかったことよりも、あの日あのとき、どうして希声さんの傍にいなかったんだろう、異変に気づかなかったんだろうって、そればかり考えてしまって……」 「もういいよ」  希声は絞り出すように相手が話し続けるのを遮った。これ以上琉星に苦しい思いをしてほしくなかった。 「正直に言ってくれ。俺の存在が琉星君の負担になってるんだろ?」 「違います、違う……」琉星は弱々しく首を横に振った。 「もう俺に恋愛を教えてくれなくていいから。俺は琉星君からいっぱいもらったから。もう俺のことなんて忘れて――」  今度は琉星が希声の言葉を遮った。 「違うって言ってるだろ!」  空気が割れるような声が病室内に響く。ビクッとして肩を弾ませると、琉星は「大声を出してすみません」と謝った。 「そうやって俺の気持ちを決めつけて自己完結しないでください」 「ご、ごめん」  希声は目を伏せた。琉星は困ったように微笑むと、ただ一言、静かに言った。 「俺はあなたが好きです」  目線は下のまま、希声は目を見開いた。目と鼻の奥がツンとする。心はまったく追いついていないのに目頭が徐々に熱くなっていく。 「伝えるのが遅くなってしまってごめんなさい。俺の恋人になってくれませんか」  そう言ったあと、琉星は希声の細い手を取った。小動物を愛でるように、希声の手の甲を優しく擦る。  琉星を好きになったその日から諦めていた言葉。現実になったらどれだけ幸せかと夢見ていた言葉だ。まさか琉星の声で聴くことができる日が来るなんて信じられなかった。  希声の答えは、もちろん一つしかない。涙ぐみながら「俺も――」と答えようとした希声だが、琉星の「そのまえに」という声におあずけを食らう。 「俺が最初に希声さんに依頼した言葉を言ってくれませんか?」 「え、今?」 「今です」 「それって、ハルさんの声で……だよな?」  琉星はコクンと頷いた。  結局今の今まで、琉星がハルの声でなんて言ってほしかったのか希声は聞かされていない。頭の片隅にはあったものの、いろいろなことがあって流れたのかと思っていた。 「いいよ。その代わり、俺がハルさんの声を出してるときはちゃんと目閉じろよな」  はい、と笑う琉星に、希声は改めてなんて言ってほしいのか尋ねる。琉星は少し間を置いてから答えた。 「さようなら、です」  すべてを悟った穏やかな笑みを浮かべて、琉星はこちらを見つめた。一方で希声は「え」と言葉を失う。 「短くてびっくりしましたか?」 「いや、そうじゃなくて……」  琉星はハルのことを忘れられない、忘れるつもりがないのだとずっと思っていた。だからハルの声で希声に言ってほしいのは『愛してる』とか『大好きだよ』とか、愛の言葉に関するものだと漠然と想像していた。 「それって、本当に最初から? 俺に依頼のメールを送ってきたときから、そう言ってほしかったのか……?」  訊き直すが、琉星は「はい」と揺るがない。 「希声さんの口からそういう疑問が出るってことは、やっぱり俺、だいぶ未練タラタラでしたよね」  琉星は頭の後ろを掻きながら苦笑いする。希声は「だいぶ」と包み隠さず返した。 「人生って、意外と長いっていうじゃないですか。ずっと悲しんでいてももったいないなとはずっと考えていたんです。俺の家族や友達からも、早く前に進んだ方がいいって言われてましたし。何よりハル君本人に前言われたんです」  それは結婚式のある打ち合わせの日だった。打ち合わせが終わった帰り、ハルは何とはなしに口にしたそうだ  ――僕たちは結婚もできないし、子どもも作れないじゃない? ヨボヨボのおじいさんになったあとならともかく、若いうちにどっちかが先に死んだら、残された方は新しく恋人を作ってもいいってことにしようよ。  琉星の言葉が、記憶にないハルの声を希声の頭の中に再生させる。その声は春のように明るく、来るか来ないかもわからない未来への不安は感じられない。

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