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第50話
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最後のハルの声を琉星の耳に届けてから三日後、二月の初旬に希望は退院した。
退院には琉星が付き添ってくれた。まだ本調子ではない希声の代わりに荷物を持ってくれたり、タクシーを呼んでくれたりと甲斐甲斐しく希声の身の回りを気遣ってくれた。
「本当に大丈夫ですか? あの部屋にわざわざ戻らなくてもいいと思いますけど……」
タクシーの後部座席に揺られながら、琉星は希声の手をしっかり握りしめて言った。
「部屋に入るわけじゃねえから心配すんな。ちょっと管理会社の人に挨拶するだけだよ」
「じゃあ俺も挨拶します。あの部屋の窓を割ったのは俺なので……」
「だからそれは仕方なかったって何度も言ってるだろ」
琉星はシュンとして「警察には怒られました」と背中を丸めた。
「素人が自己判断で危険なことしたら、警察はそう言うしかないんじゃねえの。――あ、そこの鏡のところを左に曲がってください」
地元民にしか知られていなそうな小道を進むタクシー運転手に、口頭で道順を説明する。
退院はしたものの、希声のアパートは現場検証のために張られた規制テープと窓ガラスの破損のせいで、今すぐ住める状態ではないらしい。
琉星のアパートに転がり込むことが決定したのは二日前のこと。退院後に連泊できるビジネスホテルをスマホで探していると、見舞いに来ていた琉星から「なんでホテルに泊まろうとしてるんですか」と怒られた。
「俺の部屋を使ってください!」
琉星がどうしてそんなに怒るのか不思議だった。希声としてはいつまで続くかわからない外泊にそこまでお金はかけたくない。琉星の提案に、ありがたく便乗させてもらうことにした。
こうして退院後の寝床については解決したが、荷物の方はそうもいかなかった。本当は琉星のアパートに向かう前に荷物を取りに行きたかったが、規制テープのせいで家主さえ勝手に部屋には入ることができないのだ。
最低限の貴重品は警察に持ってきてもらっていたものの、仕事道具のマシーン周りはそのまま、服や下着もクローゼットの中に眠ったままだ。住人や管理会社に迷惑をかけたし、精神的にもあの部屋に住み続けるという選択をする気になれない。
今後規制テープが取られたら解約しようと希声は考えている。
希声たちの乗ったタクシーは希声のアパートの前に幅を寄せた。前もって管理会社から今日の昼頃、部屋の状況確認に行くという話を聞いている。希声たちの到着とほぼ同じタイミングで到着した管理会社の人と短い挨拶を交わしてから、今後のことを少し話した。
とはいえ、今の段階ではまだ具体的な手続きや相談が何も始められない。希声たちは管理会社の業務の邪魔にならないよう早々に切り上げ、再びタクシーに乗り込んでその場を離れた。
それから三十分ほど車を走らせ、琉星のアパートにたどり着いた。琉星は会計を済ませると、真っ先に降りてトランクルームから荷物を下ろした。両手に荷物を持ちながら、足元のわずかな段差に対して「気をつけてくださいね」と気遣ってくる。
琉星は荷物を手にしたまま鍵を開け、ドアを開けた。先に入れということなのだろう。希声は「お邪魔しまーす」と小さな声で言い、玄関に足を踏み入れた。
琉星の部屋に入るのは今日で二回目だ。まさか二回目があるとは思っていなかった。初回とはまた違う緊張感に、心臓がバクバクと速い鼓動を刻む。
中に入ると、初めて来たときよりもさらに物が少なくなっていた。テレビ台はおろかテレビさえ無くなっている。本棚の上にあったハルとの写真立ては当然のように姿を隠し、本棚に並べられていた漫画も半分以上が無い。
「なんか物少なくなった?」
さすがに気づかない振りはできず訊いた。
「だいぶ売りました。結構スッキリしたと思いません?」
「スッキリっていうか、これじゃ琉星君が引っ越すみたいじゃん」
琉星は呑気な声で「引っ越してきたのは希声さんでしょ」と笑った。
「俺は元々テレビもそんなに観ない方だし、希声さんがここで寝泊まりするなら余計な物はなるべく無い方がいいなって思ったんです」
「俺だってそんなに荷物ないぞ。前の部屋にあったものはいつ手元に戻ってくるかわからんし」
置いてきたパソコンなどのハードウェアを回収できる頃には、新しい部屋だって見つけているかもしれない。思い切ったことをするには決断が早すぎるのではと心配になった。
「これから増やしていけばいいじゃないですか。希声さんの荷物を」
「え、でも泊まらせてもらう身だぞ。さすがにそれは……」
言い渋ると、琉星は床に荷物を置いて希望の前まで来た。
「希声さんの中では、俺はまだそっちの立ち位置にいるんですね」
「え、そっち?」
男の顔を見上げた瞬間希声の視界が反転し、「うわっ!」と情けない声を上げた。こちらの背中と膝裏に手を添えた琉星が、ひょいと希声の体を持ち上げたのだ。この体勢はいわゆるお姫様抱っこというやつだ。ただでさえ緊張していた体にさらに力が入る。
琉星は軽々と希声を抱きかかえたままベッドまで移動し、広いスプリングの上にその体を寝かせた。
希声の頭を挟むように顔の横に手が置かれる。そう簡単には逃げられなさそうだ。男前な顔に上から覗かれ、急に恥ずかしさを覚えた。フイと目を逸らす。
「こっちを見てください」
熱の入った琉星の声に、希声は「な、なんだよ」と唇を尖らせる。
「俺、希声さんからまだ何も聴いてません」
「何もって……なんのこと」
琉星は「へー」といたずらっぽく笑った。
「希声さんはやっぱりいじわるだ。俺がはっきりしてないときは好き好きアピールすごかったのに、俺が好きですって告白したら急に素っ気なくなっちゃうんだもん。釣った魚には餌をやらないタイプだったんだー、へえー」
希声にわざと言い聞かせるように、琉星は子どもみたいな口調で言った。
「う、うるせえな! こういうの慣れてねえんだよ! 好きだって言うタイミングとか、触っていいタイミングとか探すのがさ!」
言い終わってから、琉星がニコニコと満面の笑みを浮かべていることに気がついた。琉星にとって有利になるようなことを自分は何か言っただろうか。
嬉しそうに見下ろしてくる男を不気味がっていると、わずかに目を開いた男と目が合った。こちらを見つめる目の奥に熱っぽさを感じ取る。見惚れているうちに間ができる。
次の瞬間だった。琉星の頭が落ちてきて、唇に柔らかい感触を押し当てられた。琉星の唇に口づけられたらしい。途端に希声の唇が熱を持ち始める。火の粉が飛んだかのように顔中が熱くなる。
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