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第3話 助けてくれたのは神だった
額に冷たい何かがぴたりと置かれた感覚で意識が浮上した。
ゆっくりと瞼を上げると、とても美しい人が渉の顔を覗き込んでいた。
「目が覚めましたか」
不思議な声だった。
低く落ち着いた声なのに、鈴を転がすような少女めいた響きもある。
そんな声の持ち主は、首を傾げて栗色の髪を揺らした。
腰まで届く長い髪は頭頂部付近でひとつにまとめられている。
眉の辺りで切り揃えられた前髪からは萌葱色の宝石のような瞳が煌めいていた。
鼻筋は真っ直ぐに通っていて、少し厚い唇は弧を描いていた。
体格は細身だが、顔は男性寄りの中性的な顔立ちだった。
「あなたは……?」
あまりの美しさに何も考えずに疑問を口にして後悔したが、彼は気にすることなくそれに笑って答えた。
「私は|大山穂積神《オオヤマホヅミノカミ》。穂積と呼んでください。あなたの名前を聞いても?」
「渉です」
「渉。良い名ですね。ご両親は、あなたが困難を乗り越えられるようにそう名付けたのでしょうね」
「はい……」
穂積からそう優しく微笑まれ、涙が込み上げてきた。
困難を乗り越えられるように。
そう願って付けられた名前なのに、結局、渉は逃げ出すことも両親の仇を取ることもできなかった。
静かに涙を流す渉に穂積は動揺した。
「どっどうしたのです? どこか痛いですか? それとも寒い?」
動揺していても、穂積は手に持っていた手拭いで涙を拭ってくれた。
その手つきはとても優しくて、余計に泣けた。
「っ……大丈夫です。死んだ両親を思い出して……」
「それは……。私が悪いですね」
「いいえ。俺が勝手に泣いただけです」
「わかりました、そういうことにします。それで、どこか痛むところは? 渉は一週間も熱を出して寝ていたのですよ」
一週間も寝ていたと聞いて、渉は目を見開いた。
そんなに寝こけていたのか。
いや、それよりも、その間の下の世話をこんな美しい人にやらせてしまったのか。
ましてや、初潮で血が出ていたのだ。
「申し訳ありません。手間をおかけしました」
「そんなのは良いんだよ。それで?」
「痛むところはありません。大丈夫です」
「よかった。お腹が空いたでしょう。病み上がりだから重湯しか食べさせられないですが」
「あのっ……」
渉は腰を上げかけた穂積の手を掴み損ね、美しい着物の袖を引っ張った。
それはまるで幼子が親を引き止めるようで恥ずかしかったが、渉はそれを離さなかった。
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
それだけを言いたかっただけのはずなのに、なぜか掴んだ袖を離せない。
自分でも困惑していると、穂積はくすりと笑った。
「寂しいのですか?」
「多分」
渉の答えを聞いた穂積は浮かしていた腰を下ろし、再び布団の傍らに座った。
穂積が両手をひらりと振ると、一瞬のうちに人影が現れた。
それは人ではなかった。
姿形は人ではあるが、その女性の耳にはピンと立った短い耳と、それと同じくらいの長さのある鋭い角があった。
髪の毛は頭頂部が白色で、毛先に向かって灰色になっている。
着物も同様の色合いだ。
彼女はじっと渉を凝視した。
そんなに見られては居心地が悪い。
そう思っていると、穂積が彼女を嗜めた。
「こら、そんなに見ると渉に穴が空いてしまいますよ」
「申し訳ありません。久方ぶりに人間を見たものですから」
「い、いえ」
「渉に重湯を作ってきてください」
「かしこまりました、主様」
彼女はそう言うと、現れた時と同様に音もなく突然姿を消してしまった。
渉は人生の大半を暗い牢で過ごしていたため世間知らずであることは自覚しているが、流石に人が突然現れたり消えたりすることが異常だとわかっている。
そして、彼女の耳や角も同様だ。
「あの人は……」
「彼女は杏。元はカモシカで、今は私に仕えてくれています」
「カモシカ?」
「見たことないですか?」
見たことはある。
記憶は朧げだが、両親に連れられて山に入った時に、こちらをじっと見つめる大きなカモシカを見たはずだ。
だが、カモシカは人間より大きく、白や灰色の毛皮を纏い四足で歩く。
「小さい時に一度だけありますけど、でも……」
「人の姿を取っているのはびっくりしますよね。そちらの方が便利なので、あの姿になれるように力を与えています」
いくら世間知らずでも、その説明で納得する渉ではない。
カモシカを人に近い姿に変える力を与えるなど、そんなことは人間には不可能だ。
穂積は人間の姿ではあるが、似て非なる存在なのは明らか。
指摘することで害される可能性も考えたが、それなら最初から話したりしないし、そもそも瀕死の状態の渉を助けたりなんかしないはずだ。
「今更ですけど、穂積さんは人ではない……?」
「はい。渉が縛られていた祠に祀られている神です。ああ、自分で神だなんて名乗るのは気恥ずかしいですね」
頬を赤く染めながら頭をかく姿は人間そのものであるが、起きてから今まで見てきた現象は、彼が神であるというなら納得できる。
だが、神は半端者を贄とする。
「俺を食べるんですか」
「いいえ、人を食らうのは妖の中でも一部の者たちだけです。私たち神はそんな野蛮なことはしません」
「じゃあ、なんで贄を求めるのですか」
「確かに人間を求めましたが、贄を求めたわけではありません。おそらく、長い時間の中で間違って言い伝えられたのでしょう。自然の恵みをもたらす代わりに、私たち神と伴侶となる神子と引き合わせる約束をしたのです」
村長たちから聞いていた話と違う。
どうやら食べられるわけではないようだが、何かしらの役割があって渉はここに来たようだ。
状況を正しく理解したいが、知らない言葉まで出てきた。
「神子?」
「外見と性器の性別が伴わない貴重な存在のことです。上位の神であれば一人でも子を成せますが、私のような下位の神は誰かと交わらなければ子が成せません。神同士や神と普通の人間とで交わってもなかなか子ができないと困っていましたが、とある神から外見と性器の性別が合わない男性と交わったところすぐに子ができたと報告がありました。それで、同じ特徴を持った者と交わった他の神からも同様の報告があったため、彼らを私たちの伴侶となり得る神子として迎えることにしたのです」
「主様。重湯をお持ちしました」
杏は穂積の説明が終わるのを側で待っていたかのように現れた。
その手には美しい花の彫刻がされたお盆があり、それに乗せられた碗からは真っ白な重湯が誘うように湯気を揺らめかせていた。
「ありがとうございます」
「食べ終わりましたらお呼びください」
「はい。よろしくお願いしますね」
そして、杏はまた音もなく消えた。
何度見ても慣れない光景に渉は目を白黒させた。
穂積はそれを見て上品に笑うと、穂積の背に手を添えて上体を起こしてくれた。
「ありがとうございます」
「いいえ。では渉、あーん」
穂積は匙で重湯を掬うと、それを渉の口元に差し出した。
病み上がりではあるが、食事をするくらい自分でできる。
子ども扱いされているようで恥ずかしいし、何より神にそんなことをさせるなど恐れ多い。
「穂積様、自分で食べられます」
「穂積と呼んでください。それに、数日前まで本当に危ない状態だったんですよ。私がお世話します」
「いえ、でも」
「ほら、あーん」
嬉々として世話を焼きたがる穂積を見ると、断るのが申し訳なくなる。
複雑な気持ちを胸に押し込めて、渉はそっと口を開いた。
その隙間に匙が差し込まれ、重湯が口の中に広がった。
それは暖かくて、とても甘かった。
軟禁されていた時は冷めて固くなった稗や粟と、申し訳程度に具の入った味噌汁しか食べられなかった。
それに比べると重湯はほとんど液体なので食感はないに等しいが、きちんと食事をとったと実感できた。
渉がほう……と感嘆のため息を吐いていると、穂積は微笑んで次の匙を口元に運んできてくれた。
それを口に入れて舌で転がし飲み込んでいく。
渉はあっという間に重湯を完食した。
「美味しかったですか」
「はい、とても」
「よかった。これなら明日から少しずつ普通の食事にしていけそうだね」
「多分」
「では、今日はもう寝ましょう」
「起きたばかりです。眠くはありません」
「たくさん話して、食事もしたのです。渉が思っている以上に体は疲れているはずですよ。ね?」
優しく諭されれば従うしかない。
渉は穂積に促されるままに布団に横になった。
すると、穂積が渉の胸の辺りを軽くトントンと規則正しい間隔で叩いてきた。
心地よい振動に、トロトロと瞼が下がっていく。
(そういえば、ここはどこなんだろう。それに、神子は神の伴侶になるってことだけど、俺と穂積がそうなるってことなのか?)
食事に夢中になり聞きそびれたことがあったが、穂積の寝かしつけには逆らえなかった。
渉は宙に浮くような心地よさに包まれながら夢の中へ沈んでいった。
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