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第4話 神の庭

 雨戸と廊下を寝室を区切る障子が開け放たれており、朝の眩しい光と清々しい空気が渉を覚醒させた。  目を開けると、寝た時と変わらずに傍に穂積が座っていた。  ただし、文机に向かって筆を動かしていた。  渉がその真剣な表情の穂積をじっと見ていると、視線に気付いた彼は柔らかな笑みを浮かべた。 「おはようございます。起こしてしまいましたか」 「いいえ、自然に目が覚めました。おはようございます」 「そうですか。少し早いですが朝餉にしましょう」 「はい。あの、厠はどこですか」 「案内しますよ」  穂積は、上体を起こしながら話していた渉に手を差し出した。  その手を掴むと、ぐっと力強く引き寄せられて立ち上がった。  細身ではあるが、神であるからなのか力は外見にそぐわず強いようだ。  穂積は足が不自由な渉に合わせて急かすこととなくゆっくりと歩いてくれた。  彼に手を引かれ、いくつかの部屋を通り過ぎた先に厠はあった。  中で倒れたら大変だと言って厠の中まで一緒に入ろうとされたがそれは全力で拒否し、鍵をかけないという条件で諦めてもらった。  渉は上質な着物を捲り上げ、締められていた褌を緩めた。  股に接していた部分を確認したが、血に汚れてはいなかった。  初潮は終わっていたようだ。  だが、そもそも初潮とはなんなのかがわからない。  恥を忍んで穂積に聞くしかないのだろう。  渉はさっと用を足すと、素早く身支度をして厠を出た。    穂積はほっとした様子で渉を迎え、また手を引いてゆっくりと寝室に戻った。  敷きっぱなしだった布団は綺麗に畳まれ、朝餉の準備が整っていた。   「主様」 「楓、ありがとうございます」 「渉様のお口に合えばいいのですが」 「そうですね」  今日、渉の前に現れたのは黄褐色の髪と瞳、そして同じ色のぴんと立った三角の耳とモフモフした大きな尻尾を持った男性だった。  これはわかる。  彼は狐だ。 「ありがとうございます。いただきます」 「ゆっくりお召し上がりください」  穂積に仕えている彼らは主に似ているのか、杏も楓も穏やかな気性のようだった。  楓はにっこりと笑うと、ふっと姿を消した。 「温かいうちに食べましょう」 「はい、いただきます」  今日の食事も粥だった。  昨日よりは米の形が残っていて、さらに器の真ん中には種が抜かれた梅干しがちょこんと載っていた。  穂積は当然のように匙を手に取ると、梅干しを崩して粥に混ぜ、渉の口元に差し出してきた。  渉は元気になるまでだと自分に言い聞かせて口を開けた。 「穂積は食べないんですか」 「ええ。でも、渉が一緒がいいなら食べますよ」 「じゃあ、次からお願いします」 「わかりました」  単純に疑問をぶつけただけだったが、結果的に次の食事からは給餌されないことになった。  それに安堵すると同時になんだか残念な気持ちにもなり、渉は戸惑った。  昼餉は何でしょうね、と食事を楽しみにしている穂積に気付かれないように渉も笑った。  食事が終わると楓が片付けに現れて空になった碗を下げてくれた。 「腹ごなしに庭を歩きましょうか。少しずつ体を動かして元気を取り戻しましょう」  穂積の提案を受け、渉は導かれるままに庭に出た。  春の庭は花が咲き誇っていた。  桃色の花が咲いている木や背の高い黄色の花など、色とりどりの花が視界を埋め尽くす。 「綺麗」 「皆で手入れしています。春だけじゃなく、夏も秋も、冬も花が咲きますよ」 「凄いです。ところで、この屋敷はどのあたりにあるんですか」  穂積と話していると楽しくなって聞きたいことを忘れてしまう。  渉はそうならないうちに、花を楽しみつつ疑問を投げかけた。   「ここは隠世。現世の裏側の世界です。現世でいえば、渉がいた祠のあたりになります」 「隠世って……?」 「神や妖が住まう世界のことです。神隠しはなんらかの拍子に現世から隠世に迷い込んでしまうことが原因で起こる現象です」 「じゃあ、現世に行くと祠のところに出るんですか」 「そういうことです。それより、敬語は外しませんか」  首を僅かに傾げる仕草は穂積の美しさを引き立たせている。  思わず頷きそうになるが、彼は渉からすれば崇めるべき存在だ。   「でも、穂積は神様ですし」 「伴侶になるかもしれませんから、普通に話してくれた方が嬉しいです」  そうなった未来を思い描いているのか、穂積は庭に咲き誇っている花のように笑った。  その幸せそうな顔を見て、胸がトクリと音を立てた。  その鼓動は不快ではないし、むしろ気分が高揚する。  渉は思わず胸元の着物をきゅっと握った。   「その、伴侶って必ずなる、の?」 「いいえ。渉が望んでくれるのであれば、です」 「もし俺が伴侶にならなくても、穂積はそれでいいの?」 「はい。昔、何度か神子を迎えたことはありますが、慕う方がいたり故郷を恋しがる子たちばかりでした。伴侶は無理になるものではありませんから、その子らの望みを叶えました。渉も、村に帰りたいのなら還します」  あの狭く暗い牢に戻る?  思い出しただけで血の気が引いた。  渉に自覚なかったが、全身が小刻みに震えていた。   「それは絶対ない! あんなとこに戻りたくない。でも、穂積の伴侶になるにはあなたのことを知らなさすぎる」 「そうですね。一緒に暮らして、渉がいいと思えたら伴侶になりましょう。あ、私はすでに渉を好ましく思っていますよ」  好意を隠しもせず、穂積は白く滑らかな指先で渉のひとつにまとめられた長い髪の一房を掬い取ると、ごく自然な動きでそれに口付けた。  その行為の意味を渉は知らない。  それでも、愛しいと伝えてきているということは穂積の萌葱色の瞳を見れば自ずとわかった。    「そっ……れは、ありがとう……?」 「ふふっ。これからたくさん話して、共に過ごして、知らないことを知っていきましょうね」 「あっあの、それともうひとつ。その、初潮って、あれは何?」  神の伴侶となる可能性のある神子は、初潮を迎えてから神と引き合わされることになっている。  渉は穂積から話を聞いて、それは伴侶になることと関係があるような気がしてならなかった。  なにより、あの不快な体の変化の正体を知りたかった。  穂積は一瞬目を見開き、そしてくしゃりと顔を歪めた。   「……その右脚のことといい、村は渉を大切にしなかったんですね。その話は長くなりますから、一度屋敷に戻りましょう」 「うん」  庭に来た時と同じように、渉は穂積に手を引かれた。  渉は穂積を笑わせたくて、花の名前を聞きながら歩いた。  その作戦は成功したようで、渉が聞くごとに穂積の顔が明るさを取り戻していく。  そして、二人は時間をかけてと屋敷の中へと戻った。 

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