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第6話 楽しみは夕餉のあとに

 春の長雨が続き、ようやく晴れ間が覗いた昼下がり。  昼餉を食べ終えて、また雨が降る前にと久しぶりに庭に出た。  雨露に濡れた花は、陽の光を反射して煌めいていた。 「雨上がりの花も綺麗だね。雨の雫が光っていて、宝石みたい」 「趣がありますね。ああ、渉が育てたシロツメクサも綺麗に咲いていますよ」  隠世にいてもすることのない渉は、はじめは杏たちに混じって炊事などの家事をしようとした。  だが、杏たちからは恐縮され、穂積は渉のあとをついて回って仕事をしない。  ついでに言えば、炊事の才能は皆無だった。  結果、皆でする作業である庭の手入れをすることになった。  シロツメクサは渉の担当であり、初めて一人で育てたものだ。    穂積はすっとしゃがむと群生するシロツメクサに手を伸ばした。  彼の指先で遊ばれるそれはとても愛らしく、穂積の隣にしゃがんだ渉も、まるで自分が撫でられているような気分になって嬉しくなった。  穂積がそっと手を引くと風が吹いた。  シロツメクサの奥に生えていたテキリスゲが風に煽られ、運悪く穂積の指を傷付けて白魚のような指からじわっと血が滲む。 「っ……!」 「穂積!」 「大丈夫。私は神様だから、これくらいの小さな傷はすぐに治ります」 「神様でも怪我をすれば痛いだろ! ほら、早く手当するよ」  いつもは穂積が渉の手を引いて歩くが、今は渉が穂積の手を引いて屋敷に戻る。  寝室に着くと同時にお茶を持って現れた楓に穂積が怪我をしたことを告げると、すぐに水の張った桶と綺麗な端切れ布を持ってきてくれた。  渉は小さな端切れを水に浸して傷口を拭い、もう一枚ある細長い端切れ布を穂積の指に巻きつけた。 「これでよし。きつくない?」 「大丈夫です。ありがとうございます」 「早く治るといいな」  手当した指先から顔を上げると、嬉しそうな、苦しそうな、なんとも形容し難い表情の穂積と目が合った。  手当した手が渉の頬を撫で、さらりと衣擦れの音がする。  熱を孕んだ萌葱色の瞳に真っ直ぐ射抜かれ、渉の胸が一際大きく跳ねた。  渉はゆっくりと影を落としながら近づいてくる穂積を避けなかった。  自然と閉じられる瞼。  音もなく重なる唇。  しっとりとした穂積の唇は少し冷たかったが、初めての口吸いはとても気持ちよかった。  このままずっとしていたい。  そう思ったのも束の間、触れるだけだった唇が離れていった。  目を開けば、熱に浮かされた穂積がいた。   「穂積」 「これ以上は、私が止められないので」  名前を呼べば、穂積は真っ赤になって俯いた。  渉よりも遥かに長生きをしているはずだが、いつもの余裕はなくその反応は生娘のようだ。   「いいよ、止めなくて」  穂積が息を詰めた。    口内がカラカラに乾いている。  渉は唇を舐めて湿らせ、意を決して言葉を紡いだ。 「穂積が、好きだから」  穂積が音が立つ勢いで顔を上げた。  さっきよりも朱に染まった顔は泣き笑っていた。    「私も渉が好きです」  愛しい気持ちが膨れ上がる。  渉は穂積の頬を伝う涙をそっと拭うと、再び唇を重ねた。  すると、今度は触れるだけでなく、穂積に唇を啄まれた。  ちゅっちゅっと音が立つごとに背筋にぞくぞくとした感覚が走る。 「んんっ! 穂積様、渉様。菓子をお持ちしました」 「ひぇ!」 「ちょっと……」  口吸いに夢中になっていると、杏と楓が姿を現した。  二人から差し出されたのは、梅の花の形をした紅白饅頭だった。 「此度はおめでとうございます。この山に住まう生き物を代表しお祝いを申し上げます」 「これより風呂をご用意しますので、その間に菓子をお召しになってください」  満面の笑みを浮かべながら平伏する彼らを前に、渉は羞恥が爆発寸前だった。  いや、既に爆発したあとの抜け殻なのかもしれない。 「ありがとうございます。でも、渉がこうなるので、出でくる時はもう少し気を遣ってほしかったです」 「せっかくの初夜をおざなりに始めるおつもりで? 布団もなしに? お止めしたこと、褒められることはあれど咎められるなど心外です」 「うっ……、それは、その、ありがとうございます」  珍しく杏が穂積を責め立てていた。  渉が家事をしようとして、穂積がそのあとをずっとついて回った時は楓が仕事をしないことを咎めていた。  杏の方が静かに怒っている分、そちらの方が余計に迫力があった。  しおしおとしている穂積は可愛らしく見えて、思わず声を上げて笑ってしまった。  それにつられて三人も鈴が鳴るように笑った。  紅白饅頭は美味だった。  餡に塩漬けされた桜が入っており、餡子の甘さと桜のしょっぱさが絶妙だった。  渉は杏に紅白饅頭でなくていいからまた今度出してほしいと頼んだ。  風呂は当然のように穂積も入ろうとしてきたが、また杏に叱責されていた。  渉は楓に促されて先に入浴することになった。  白くて四角い石鹸を手拭いで泡立てて体を洗う。  頭のてっぺんから足のつま先まで丁寧に洗うと、渉は湯に浸かった。  ここの風呂は素晴らしい。  湧き出る乳白色のお湯は人肌の温度で、しかも浸かると肌がすべすべになる。  触れるとざらついていた渉の肌は、この一年ですっかり滑らかになっていた。  風呂から上がると、今度は穂積が入浴に向かった。  その間、渉はそわそわと部屋を見回し、それでも落ち着かないためうろうろと部屋を歩き回った。  不意にくすくすと笑い声が聞こえ、渉は声のする方を勢いよく振り向いた。 「渉、少しは落ち着きましょう」 「ほっ……穂積! 見ていたの?」 「すみません。動揺している渉が可愛らしくて」 「意地悪」 「すみません。許してください」  風呂上がりでうっすらと頬を上気させた穂積が、羞恥で真っ赤になった渉の頬に唇を寄せた。  こんなもので絆されるものかと顔を背けたが、穂積は許しを乞いながら渉の髪や額に次々と口吸いした。  渉の決意はあっという間に崩れ、許しの証に穂積の唇に口吸いした。  額を寄せ合い、目を合わせると自然と笑いが込み上げてくる。 「夕餉をお持ちしました」  杏と楓が夕餉を持ってきてくれた。  いつもよりも品数が多く、食材は赤飯や鯛など祝いもので埋め尽くされており、その傍には徳利と赤い酒盃が一つあった。 「私たちの想いが通じた大切な日ですからね。今日はとあるお酒の神様がお造りになったお酒を飲みましょう」 「お酒は初めてだ」 「ある程度食べてから飲みましょう。空きっ腹だと悪酔いしてしまいますからね」  穂積とともに手を合わせて恵みに感謝してから食べ始める。  いつも美味しい食事だが、今日はより一層そう感じた。  穂積もそう思ってくれていると嬉しいと思いつつ、渉は豪華な夕餉に舌鼓を打った。  半分食べたところで穂積が酒盃を引き寄せた。  徳利から酒盃に移される透明な酒はほんのりと甘い香りがする。 「いい匂い」 「ええ。さあ、一口どうぞ」 「ありがとう」  穂積から渡された酒盃を傾けてゆっくりと酒を飲む。  それは香りと同様にほんのりと甘くそれでいて口の中がきゅっとして、飲み込むと胃がカッと熱くなった。  そして、なんだかふわふわといい気分になってきた。 「美味しいけど、なんか変な感じ」 「少しずつ慣れていきましょう。今日は初めてなので、渉がよければあと一口で終わりにしましょう」 「そうする」  渉はちびっともう一口飲むと酒盃を穂積に渡した。  酒盃にはまだ酒が残っており、穂積はそれをくっと一気に飲んだ。  勢いよく飲んだわりに穂積は普段と変わりない様子だ。  酒に強いのかもしれない。 

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