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第3話 雪花の舞う夜に 1

 それは何でもない日だった。  強いて言えば、雪風が吹く金曜日だというくらいだ。 「新谷くん。これ持って帰ってくれる?」  俺よりもずっと長くこの学食に勤めている調理師の岡村さんが、お玉で大きな寸胴鍋をカンカンと鳴らした。  そこに入っているのは数人分のミネストローネだ。    寒い冬には温かいものが食べたくなる。  体が温まる料理はいくつもあるが、数十年前にいた俺の先輩にあたる管理栄養士がそれと決めてから、うちの学食の冬の定番メニューになったそうだ。  評判も良く、学外からもミネストローネを求めて客がやってくる。  学食ランキングでも上位に腰を据えているらしい。  だが、今日は牛すき鍋を日替わり定食にしたからか、珍しく残ってしまった。  残り物は職員がありがたく持ち帰る仕組みだ。  しかも、今日はちょうど味噌汁を入れていた空のスープジャーがある。  大きめで二人分の容量があるもので、これで持ち帰れば晩御飯を作る手間が省ける。 「はい、もらいます。あれ、他の人は持って帰らないんですか?」 「スープジャーを持って来てるのが新谷くんと原田さんだけなのよ。だから半分こね」 「わかりました」  可愛らしくウインクする岡村さんに頷くと、俺は鞄から洗ってあるスープジャーを取り出した。  深い藍色のコロンとしたフォルムのそれを片手で持ち、トマト色のスープを掬って中に注ぎ込む。  具沢山のそれは冷めてもいい香りがした。   *  大学から駅までは徒歩三分。  電車は乗り換えなしで二十分で、駅から家までは徒歩五分。  約三十分の通勤時間だというのに、雪のせいで体の芯まで冷えてしまった。  もう一枚シャツを着て防寒をするべきだった。  とはいえ、もう家は目の前だ。  今更言ったって仕方がない。  エントランスに入ってポストを確認する。  どうでもいいチラシの中に何かの葉書が埋もれていたが、手が悴んで仕分けができない。  紙束を雑に掴むと、落ちないようにだけ気をつけて今度はエレベーターホールに向かった。    上を示す三角形のボタンを押せばすぐに扉を開いた。  そそくさと乗り込んで三階のボタンを押す。  独特の浮遊感に包まれて数秒、目的の階に到着した。  出て左、一番奥が俺と幼馴染――徳永陸――の家だ。  左の肩紐を抜いてリュックを体の前に滑らせ、外側のポケットからキーケースを取り出す。  チャックを開けて銀色の鍵を光らせ小さな鍵穴に合わせるが、寒さで手が震えて中々鍵穴に入らない。 「くそっ……!」  早く中に入ってストーブに駆け寄りたい。  熱い湯船に浸かって溶けてしまいたい。  こたつで持ち帰ったミネストローネを食べながらゴロゴロしたい。    迅る気持ちを抑えながら右手を左手で支えて鍵を押し込むと、カチャッと軽快な音を立てて鍵が開いた。  扉を開くと、温かな空気が体にぶつかってきた。  ああ、勿体無い。  俺は素早く体を滑り込ませ、南国に足を踏み入れた。 「ただいま」  執筆部屋にいるだろう陸へ向かって声を上げる。  すると、ドタバタと慌ただしい音と何かをひっくり返したような音が響いた。  怪我をしていないだろうか。  心配になって急いで靴を脱ぎ捨て、リビングに続く扉を勢いよく開ける。 「おい、大丈……」 「あっ開けるなよ!」  今度は陸の悲鳴が響いた。  何かをソファの裏に隠そうとして慌てたんだろう。  三つある袋のうちひとつがひっくり返って、やたらキラキラした何かが床に散らばっている。  それを掻き集めようとした体勢で固まったまま俺を見遣る陸はちょっと間抜けで笑えた。  対する陸の顔は悲壮感に満ちていて、まるでこの世の終わりだと言わんばかりだった。  ついでに、なんで帰ってきたんだというエクスクラメーションマークが頭の上に浮かんでいるような気もする。   「俺の家だぞ。開けるに決まってる」 「それはそうだ」 「あと、凄ぇ音したから心配で」 「ああ、うん。大丈夫、ありがとう」 「どういたしまして。で? これ、どうしたん?」  普段はナチュラルなテイストのリビングがパーティ会場に様変わりしていた。  外はまだ薄らと明るいのにカーテンは閉め切られ、そのカーテンレールからはイルミネーションライトが藤の花のように無数に垂れ下がっている。  机の上には金魚鉢のような花瓶に、真っ赤な薔薇が咲き誇っていた。  壁には雪だるまと雪の結晶が交互に並んだガーランドが垂直に伸びていて、俺が帰る直前、これを飾ろうとしていたのだとわかる。   「これは、その……」 「ん?」  床で正座をしたまま、目線を逸らしてモゴモゴと言い淀む陸の隣に座る。  じぃっと音がするくらい凝視すると、やがて陸は「ああもうっ……!」と諦めて髪をぐしゃぐしゃに掻き乱して唄い始めた。   「付き合ってから何もしてないだろ。その、なんだ。付き合った記念のお祝いってやつ」  確かに何もしていない。  というのも、陸の仕事が押していたからだ。    俺と喧嘩――でいいのか?――していた時に倒れ、担当編集の小松さんに介抱してもらったらしく、更に大スランプに陥っていたことから締切を伸ばしてもらったそうだ。  俺と交際を始めてからは心身が回復し執筆に没頭していたが、その様子はそれまでの窶れた彼からは想像もつかないくらいだった。  脅威の集中力を発揮し小松さんに原稿を送ったのが一昨日で、それから今日まで、死んだようにベッドで寝て過ごしていたのだ。  それが一転、悪天候の中、外出してパーティグッズを買い込み、俺に黙っていそいそと部屋を飾り付けているなんて、誰が想像できただろう。 「なんでサプライズでやろうとしたんだよ」 「付き合うまで大地のこと振り回しただろ。そのお詫びと、単純に驚かせたかったから」  罰の悪そうな顔には、ほんの少しだけ格好つけたかったという気持ちが見え隠れしている。  俺と陸が出逢ってから二十年以上経っている。  溌剌とした笑顔も、眉間に深く皺が刻まれる怒った顔も、情けない泣き顔も、パソコンに向かって文字の海に飛び込んでいる楽しそうな表情も、すべて知っている。  スーツをビシッと着ている姿にも胸が高鳴るが、今更俺の前で格好つけても遅い気がするし、寧ろどこか抜けている自然体の陸が好きだ。  まあ、それは本人がへこむだろうから言わないけれど。   「あのなぁ、こういうのは二人でやるもんなんだよ」 「そう、なのか?」 「知らん。でも、二人の方が準備も楽しいだろ」  ずっと陸を想い続けてきた俺に交際歴などない。  何が正解かもわからない手探りの状態だが、二人のことだからこそ、最初から最後まで二人でやりたい。  それに、散々遠回りをした俺たちだからこそ、サプライズはしないほうが吉だ。   「だな」 「よし、やるか。あとどれが残ってる?」 「この袋の中に風船があるからヘリウムガスで膨らませて。俺はこっちのガーランドをやる」 「了解」  俺はひとまず洗面台で手洗いうがいを済ませると、陸に指示された通りに風船にヘリウムガスを入れ始めた。  そのひとつひとつがもの珍しい。  丸だけじゃなくてハート型の風船があるし、その中には紙吹雪が入っている。  アルミホイルのような素材の、金色や銀色で、星型になるものもある。  単純な作業に飽きた頃、ようやく全部の風船を膨らませることができた。  陸もガーランドを取り付け、俺が膨らませた風船を棚やソファの足元に配置し終わり、満足気に頷いた。  それも束の間、はっと思い出したように俺に近づいてくる。  首を傾げていると、そのまま触れるだけのキスをされた。 「おかえり。すっかり忘れてた」 「そういえば、だな」  またすれ違わないために、いくつかの決まり事を二人で作った。  その中のひとつが、いってきますとおかえりのキスだ。  これは喧嘩をしていたとしてもすることになっている。    帰宅して早々にこの状況だったために、俺も忘れてしまっていた。  忘れてしまっていた分としてもう一度唇を寄せれば、今度はそれを甘く食まれた。  口付けが深くなる合図だ。  陸の舌を迎え入れようと唇を開く。  だが、陸はあっさりと引いてしまった。 「ここ、冷たい。お風呂入ってきて」  おもむろに伸びた指先が俺の湿った唇を撫でた。  そこをじっと見ている陸の眉間に皺が寄っている。  言われてみれば家に帰り着くまでは寒くて堪らなかった。  今はというと、充分に暖房の効いた部屋と、陸と飾り付けをしたお陰で気にならなくなっている。  ただ、体の芯からは温まっていない。   「うん」  俺は陸が勧めたとおり、風呂に入ることにした。

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