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第03話 そこに意味はない
【1】
高校を卒業した轟 金剛が祖父の命で、とある山奥の通称『パンダ谷』という場所で修行に入ってから、四年の月日が流れた。
23歳になった彼は学生時代より一回り体も大きくなり、今では190センチの長身に加え、山を駆け巡って鍛え抜いた筋肉の鎧を纏っていた。
それこそ、すぐにでも世界を救う冒険に出られるくらいだ。
「金剛よ、さらなる漢の極みを目指すのじゃ!」
「分かったよ、じいちゃん」
祖父の命に一も二もなく応じて山に入ったのは自分も一度、俗世から離れて完全に一人になりたいと考えたからだ。
誰とも会わず、ただひたすら無心に体を鍛えたかった。
ほぼ自給自足の生活をしている金剛の様子を月に一度、祖父の鋼鉄が見に来る以外はここに金剛以外の人間はおらず、彼の修行相手は何故かこの渓谷に住み着いている凶暴なパンダ一家のみである。
ここがパンダ谷と呼ばれているのも、このパンダ一家ゆえにだ。最初に山に入った頃、パンダ一家の父パンダに金剛は勝負を挑まれ激しい死闘を繰り広げた。
互いに瀕死寸前までいき、結果的に父パンダの片目を潰して軍配は金剛に上がった。
そこからパンダ一家に執拗に狙われるようになり、金剛の日々は修行と勝負を繰り返すものになった。
母パンダなんか、金剛の褌がいたく気に入った様子で勝負に負けると意気揚々と褌を奪い取って行くので困ったもんである。
小さい子パンダは勝負を挑もうとして毎回、滝壺に落っこちるので慌てて金剛が救い上げ、勝負になった試しがない。
てんやわんやな毎日であるが何だかんだで、金剛は今の生活に満足していた。
ここには金剛を欲望の対象として見る者がいないからだ。
中学生の頃、知らない人間から歪んだ性遊びを教えられた金剛は未熟な身体を弄ばれ、高校時代は男女構わず声をかけられるようになった。
彼が何もしなくても、勝手に向こうからやって来るのだ。
どうして自分なのか金剛自身は分からなかったが、それは轟の血を引く男の性質によるものも大きかった。
個人差はあるものの、轟の男は一種のカリスマ性を兼ね備えて生まれて来る。
人類最強の名を冠する祖父の鋼鉄は教育者として、厳しい指導を行うにも関わらず全国から教えを乞いたいと、祖父の経営する高校に入学希望者が殺到する。
父の剛天は今や世界有数の大企業になった轟商事の社長として名を馳せて辣腕を奮い、知らぬ者はないと言われるほどだ。
父に憧れて入社を希望する者は、年を追う毎に増えているとの事だ。
二人とも高いカリスマ性を備えているのは明白である。
金剛もまた、人を惹き付けるカリスマ性を生まれながらに持っていたが、それは祖父や父と違い彼に群がって来るのは金剛の体目当ての人間達ばかりであった。
金剛自身も気づいていない、人の醜い欲望を煽る言わばフェロモンのようなものを彼は子供の頃から垂れ流していたのだ。
その欲望に負けた愚かな人間が無防備な子供に群がっただけに過ぎない。
子供だった金剛はそういった人間から身を守る術を知らず、結果的に彼は人格を否定され、心を壊す事に繋がった。
元々、感情の一部が欠落したまま生まれた金剛は限られた世界以外に無関心であった為、誰かに助けを求めるという考えが欠如していたのも災いしたのだった。
そんな彼の味方は、たった一人しかいなかった。
小さな頃から一緒にいてくれた幼なじみの少女。
彼女だけが、灰色の世界に生きる本当の金剛を見てくれた。
彼女だけが、ずっと金剛の身を案じてくれていた。
気づかないフリをして、本当は知っていた。
彼女がずっと自分を想っていてくれた事を。
薄汚れた自分は彼女を幸せにしてやれない。
だから金剛はあえて素っ気なく彼女を突き放した。
自分の知らない普通の世界で、彼女に幸せになって欲しくて別れを告げたのは、高校を卒業するほんの数日前だった。
「高校を出たら、山に入るんだ」
いつ戻るか分かんねえ。
だからもう、青山とは会えなくなる。
彼女の目が絶望に染まるのを見て、あの日に壊れて砕け散ったはずの心が軋んだ。
自分を救おうとしてくれた彼女を、金剛は無慈悲に最後まで傷つけた。
「……そっか」
長い沈黙の後に青山 操はそっか、ともう一度言った。
「轟くんはもっと上を目指すんだね」
「おう。俺ァまだ、じいちゃんや親父の足元にも及ばねぇからな」
「なれるよ轟くんなら、誰よりも強い人に。私は信じてるよ」
じゃあ、と背を向けた金剛の後ろで操が泣くのが分かった。
「みさお」
振り向かず立ち止まった金剛はあの日以来、初めて彼女の名を呼んだ。
「……今まで、ずっとありがとな」
小さい頃からずっと、ずっと側にいてくれてありがとう。
俺の手を引いてくれて、ありがとう。
家路に着く金剛の視界が奇妙に歪んだ。
足を止めた先にポツポツと水滴が落ちて地面を染める。
雨かと思ったが、空は茜色の夕焼けで雨雲はなかった。
「……あぁ、そうか」
頬に触れて金剛は、初めて自分が泣いている事に気づいた。
そして金剛が操の為に涙を流したのは、これっきりだった。
あれから四年。
その日、パンダ谷に一機のヘリコプターが舞い降りて来た。
パニックになるパンダ一家と驚く金剛の前に着陸したヘリコプターから堂々と降り立ったのは、父の轟 剛天だった。
「金剛、山を降りろ。行くぞ」
「は?親父、何を……」
「お前は今から俺の会社に入社だ」
「さ、轟くん。行きましょう」
剛天の隣にいた、やたらとグラマーで美人なお姉ちゃんが驚き過ぎて呆然とする金剛を有無を言わさず、ヘリコプターに乗せる。
そうして剛天は山から金剛を連れ出した。
このグラマーなお姉ちゃんは後に、父の秘書の霧島エリカという女性だと分かる。
「漢の頂天を目指すなら、こんな山に一人でいても意味がかろう。金剛、サラリーマンの頂を取って見せろ」
「え?は?は?」
まったく事態の把握が出来ないまま、金剛は父の経営する『轟商事』に新入社員として入社させられた。
当然だが、これを知った鋼鉄が烈火の如く怒りまくり、祖父と父は実に数十年振りにド派手な親子喧嘩をブチかましたのだが、それは割愛する。
ただ、何年も人里から離れて文明から切り離された生活していた金剛はスマホもパソコンもろくに扱えなかった為、取りあえず彼に人間の生活を思い出させるのが先決と判断され、二ヶ月ほどエリカが金剛にマンツーマンで社会人としての基礎を叩き込む事になった。
そして金剛はどうにか体裁を整え、轟商事の営業部に『番長』という役職付きで配属されたのだった。
不器用な父親なりの、息子をちゃんと社会人として育ててやりたいという思いが暴走した結果と言えよう。
しかし親の七光りが炸裂しまくったせいで、金剛は初っぱなから苦労する事になるのだが、何事も豪快な剛天に其処まで気が回る筈もなかった。
【2】
轟商事の営業部の係長・鏡 慶志郎は新入社員として入って来た轟 金剛がいたく気に入らなかった。
まず社長の息子という時点で気に入らない。
そして無駄に圧倒される見た目も気に入らない。
190という長身に尻まで伸ばした、絶対に手入れなんぞされてないであろうボサボサの黒髪。
鍛え上げられた筋肉をかろうじて覆うパツパツのスーツに、なぜか学帽と下駄という出で立ち。
轟社長も下駄を履いている事から、これは轟家の倣 いだろうと無理やりに納得した。
しかし父親と違って威厳らしきものも何もない金剛は、慶志郎に言わせれば凡人以外の何者でもなかった。
轟 金剛という男はエレガントにスマートに生きていきたい慶志郎とは真逆の位置にいるのだ。
そんな男が社長直々の辞令で慶志郎の直属の部下に配属されたもんだから、機嫌も悪くなろうというもの。
慶志郎の思惑をよそに、金剛は新人としての軽い事務作業から教わっているのだが、彼はこのご時世でパソコンもろくに扱えず、報告書一枚仕上げるのに半日かかるという有り様だった。
金剛の教育係に任命された清澄 雫が四苦八苦しながら、それでも丁寧に何度も同じ所を教えている。
「あ、そこはね、ほら、このファイルを開いて……あら?」
が、しかし雫も金剛の一年先輩というだけで彼女自身もようやく営業の仕事に慣れて来た頃でスムーズに教えるには至らず、あーでもないこーでもないとモタつく二人のやり取りは慶志郎を余計に苛つかせた。
「二人とも、報告書にいつまで時間をかけるんだね」
「あっ、係長ごめんなさーい」
「……すみません」
「轟くん、君はもう少しパソコンの基礎を学びたまえ」
「押忍」
「清澄くんは自分の仕事もあるんだろう?ここはワタシが引き受けるから片付けて来たまえ」
「ありがとうございます、係長!」
じゃ、轟くん頑張ってね!と雫は金剛を残して、サッサと自分の仕事に戻って行く。
慶志郎と残されて金剛は居心地の悪さを感じていた。
強引な父親によって数年振りに人の中に戻って来たものの、世界は相変わらず灰色で金剛にはどうでも良かった。
営業部に配属されたが、自分以外の人間は未だに顔も名前も覚えられないのに、こんな所に回すのが間違いなのだ。
裏方の仕事をさせてくれた方がよっぽど有り難かった。
父親からすれば、息子を山中ヒキコモリストなんぞにさせられんという思いがあるのだろうが、金剛とて己が花形部署に合わない事くらいは分かっている。
男も女もみんな同じに見えるし、野性的な生活で培った勘でどうにか先輩や同僚を見分けているだけで、このやたらとカンカン煩く突っかかって来る上司も苦手だった。
余りにうるさいので彼だけは『鏡』という名前の男だと覚えた。
名前を覚えれば自然と顔も認識出来るので、この全身真っ赤な金髪のド派手な男はどこにいても視界に飛び込んで来る。
慶志郎が自分の事を嫌っているのは、何となく金剛も分かっていた。
社長の息子というだけで『番長』などとワケの分からん役職を与えられて入って来た鳴り物入りの新人など、目障りで仕方なかろう。
嫌いなら放っとけば良いのに、何故か彼は己と張り合おうとするし、こうして仕事に手間取っていると文句を言いながら手を貸そうとしてくる。
鬱陶しい上に面倒だが、これでも上司だし下手に反発すると余計に面倒臭い事になるので、金剛は黙って従っていた。
どうせ、会社以外で関わる事もないしな。
轟 金剛にとって会社も世の中も、そこに何の意味も見出せない、無意味な世界だった。
「ここ、字が間違っている。それからここの合計額も」
トントンと報告書の間違い箇所を指摘しながら、慶志郎は慶志郎で、金剛と接する内に彼が望んでここに来たワケではない事が分かり始めていた。
轟商事は世界有数の大企業である。
一代で会社を興し、世界と渡り合えるほどの巨大企業に押し上げた轟社長の生きざまに憧れて入社を希望する者が毎年やって来る。
入りたくても入れない者がいる現状で金剛はいわゆる、縁故採用という立場だ。
慶志郎もまた、とある企業の御曹司でありながら、轟 剛天に尊敬と憧れを持って厳しい倍率を潜り抜けて入社したのだ。
そんな慶志郎から見れば、金剛の会社での振る舞いは不快でしかない。
仕事は教えれば真面目にやるが、ここに来てからいまだにこの男は、人の名前や顔を覚えていないのだ。
清澄 雫などは金剛の教育係を任されて誰よりも一番、金剛に関わっている筈なのに出社して毎朝毎朝、彼女に声を掛けられてから彼はたっぷり20秒ほど彼女を見詰めて『……ああ、清澄先輩ですか』と返している。
一度見た女性は絶対に忘れない、フェミニストの慶志郎からしたら信じ難い事だ。
これはワタシが直々に営業の仕事を教えなくてはならんな。
チャラチャラしているように見えて(実際チャラいのも確か)意外に仕事に関しては真面目で妥協しない慶志郎は、金剛の直属の上司として責任を果たすと同時に、このワタシの有能な仕事振りを見ればヤツも少しはマトモになるだろうと考えた。
社長の息子だからと言って、ワタシは甘やかさないのだ!という無駄に張り切ったせいで、とんでもない災厄が己の身に振りかかろうとは、この時の慶志郎が知る由もない。
【3】
「係長と、ですか」
「そう、ワタシが進めていた商談が詰めに入っていて、今日の午後に契約書を交わしに行く。キミも外回りに行く事も増えるだろうから、今後の勉強の為に一緒に来たまえ」
「はあ……」
週明けに出社早々、金剛は慶志郎に呼ばれて上記の話を聞かされた。
彼の言う商談は彼が半年かけて進めていたもので、かなりの大口契約になり、後は互いにサインして捺印するだけと言う。
それなら俺が着いてったって、意味ねぇだろ。
と思ったが、先輩の雫や同期入社の平が上司の仕事ぶりを見せてもらうのも勉強のひとつで、ましてや滅多にお供をつけない慶志郎のとあっては是非とも行くべきだと強く勧めた為、仕方なく金剛は承知した。
元より上司命令なので金剛に断る権限もない。
フンフンと上機嫌で鼻歌を歌い地下駐車場に向かう慶志郎の後ろを歩きながら、金剛はそっと溜息を吐いた。
午後、金剛を伴って契約相手のビルを訪れた慶志郎は会議室で契約内容の最終確認に入っていた。
「では、こちらにサインを」
無事に契約を終えて、慶志郎と相手は立ち上がって握手を交わした。それに倣い、金剛も立ち上がる。
「今後とも、お互いに良い関係を築いていけそうですね」
「ありがとうございます」
雑談を続ける慶志郎に「先に出ています」と告げて金剛は会議室を出ると深呼吸した。
ああいう堅苦しい雰囲気はどうも苦手だ。
脱いでいた学帽を被り直し、慶志郎が出て来るのを待つ。
そこへここの社員であろう、一人の女性が通りかかった。
擦れ違ってから数歩過ぎた所で、彼女が驚きの表情と共に金剛を振り返って戻って来た。
「……貴方、もしかして轟くん?」
「はあ……」
「やっぱり。あの頃とあまり変わってないから、すぐに分かっちゃったわ」
どうやら女性はこちらを知っているようだが、金剛には覚えがない。しかし女性の己を見る目は昔、嫌というほど経験した記憶がある。
怪訝な顔をする金剛に女性は苦笑した。
「ふふ、そうやって他人に興味がないのも相変わらずなのねえ」
「??」
戸惑う金剛に彼女が一歩近付いて耳元に唇を寄せた。
会議室を出た慶志郎が見たのは、丁度その場面だった。
女性は慶志郎に気付くと金剛に一言ふた言囁いて「またね、轟くん」と言って立ち去って行った。
「轟くん、今のレディは?」
呼びかけても金剛は微動だにしない。
再度、名前を呼ぶとようやく彼は慶志郎に気付いたらしく振り向いて、何でもないと答えた。
「何でもないにしては、随分と親しそうだったじゃないか?」
「人違いだろ、俺は知らねえ」
自社に帰るべくビルを後にした二人だが、さっきの光景を目撃した慶志郎がやたらと訊いて来る。
鬱陶しいと怒鳴り付けそうになるのを何とか堪えて、金剛は知らない人違いだと繰り返し答えた。
忘れちゃった?
私、貴方の初めての女よ。
女は確かにそう言った。
中学生だった金剛を歪める事になった、最初の原因。
当時、あの女の年齢が幾つだったかなんて金剛は知らない。
顔も名前も知らない。
考えてみたら、そうやって関係を持った人間は腐るほどいたのだから、再会する可能性がないなんて言い切れないのだ。
金剛が覚えていなくとも、さっきのように向こうが覚えている事だってある。
そして何より、現在の金剛は成人している。
あの当時、金剛に手を伸ばして来た大人達は事が明るみになれば罪に問われる立場だった。
合意だろうが何だろうが、やってた事は未成年との淫行だ。
しかし今は違う。
仮に誰かが金剛に関係を持ちかけたとしても、大人同士なのだから誰も口は挟めない。
そう言えば、と金剛は轟商事に入社する時に父親に言われた事を思い出した。
「金剛、嫌な事は嫌だと言え」
キョトンとする金剛に剛天は言った。
「お前はもう、ガキじゃない。望まない事を無理にやる必要はない。拒否していいんだ」
そうだ、アレは望んでやった事じゃなかった。
誘われて流されて、拒絶する事を知らなかった。
そう、望んではいない。
けれど、身体はアレが気持ち悦い事だと覚えてしまった。
10代だった自分は快楽を拒絶するほど、心が強くなかった。
そこまで思い出して、金剛は全身からザーッと血の気が引くのを感じた。
何故、親父はあんな事を言った?
まるで俺が中高生の頃、何をしていたか知っているような。
……否、知っているのだ。
そして父親が知っていたという事は、祖父もまた知っていたのだ。
昔の事とは言え、俺のやっていた事が世間に知れたら祖父も父も失脚する。
金品の類いは一銭も受け取った事はない。
だが、誘われるままに誰とでもセックスするような子供の言い分を誰が信じるだろうか。
だから、ほとぼりが冷めるまで俺を山に行かせたのか。
そして今度は、俺がまた馬鹿な事をやらかさないように、親父の目の届く所に置いておくのだろう。
本当は全くの見当違いだ。
鋼鉄も剛天も孫を息子を守る為に、彼にとって害悪でしかない人間の中から少しの間だけ引き離して、金剛がもっと強くなるまで落ち着いて成長できる環境を与えたに過ぎない。
しかし金剛の中で、祖父と父親の行動はそう確定されてしまった。まさに親の心子知らずだ。
轟の漢がそんな些末な事は気にしない事を、自分で自分を見限っていた金剛に分かる筈もなかった。
【4】
「ねえ、待って。貴方この前、轟くんと一緒にいた人でしょう?」
会社近くのカフェでランチを済ませ、さて会社に戻ろうと歩き出した慶志郎は雑踏の中で呼び止められて立ち止まった。
緩くウェーブの掛かったセミロングの髪を揺らして、淡いピンクのスーツを着た女性が小走りに駆け寄って来る。
「貴女は先日伺った会社の……」
「あら、私を覚えていて下さったの?凄いわね、ちょっと顔を見ただけだったのに」
慶志郎を呼んだ女性は確かに先日、取引相手の会社で金剛と親しげに話していた人だった。
少し年上のようだが、中々に色気のある女性だ。
「一度見たレディは忘れませんので。貴女のように素敵な女性は特にね」
「ふふ、お上手ね。轟くんなんか昔から、ちっとも私の事を覚えてくれなくて」
「失礼ですが、それでワタシに何か御用が?」
「まあ、ごめんなさい。貴女は轟くんの同僚の方かしら?」
「いえ、彼の上司です。鏡と申します」
「あら、重ね重ねごめんなさい。貴方にちょっとお願いがあるのだけれど」
「ワタシに出来る事なら何なりと」
基本的に女性の頼みは断らない慶志郎は、朴念仁の塊のようなあの男とこの女性の関係性を掴めなかった。
あんなムサい男とどうにも不釣り合いなのだ。
「私、轟くんにもう一度会いたいのだけど、彼の連絡先を知らないの。積もる話もあるし……彼、照れ屋さんだから私から連絡すると会ってくれないかも知れなくて」
「なるほど、ワタシが彼を呼び出せばいいと?」
「そうなの!ちょっと驚かせたくて……お願い出来るかしら?」
「御安い御用です、レディ。ところで貴女は轟とどういう……?」
「そうね、私は昔の彼を知ってる女よ」
それ以上、野暮な事は訊かないでね。
そう言われては引き下がるしかない。
では今日の退社時に轟を呼び出しましょう、と慶志郎は女性と約束して別れた。
ちょっとしたサプライズのつもりだ。
まあヤツも中々、隅に置けない男なんだなと慶志郎は呑気に考えていたが、その翌日に彼は金剛の凄まじい怒りをぶつけられる事になる。
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