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第13話 言えない
【1】
あ、轟くん?ボクだけど。
うん、全部片付いたから安心してね。
あの連中は二度と現れないから。
そう、二度とね。
まあ、その辺りは君は知らなくていい事だから。
あと何人かが写真や動画を撮っていたけど、データも端末も回収して破棄したから大丈夫だよ。
ネットも確認したけど画像はアップされてなかったから、そっちも安心してね。
君は彼をちゃんと守ってあげてね。
いや、礼はいいよ。
ボクは君の事は結構、気に入ってるんだ。
それに、ボク以外にも君の事を心配している人もいるからね。
それは忘れないでいてね?
彼は大事な人なんでしょ?
あと彼が落ち着いたら信頼出来るお医者さんに連れて行って、検査を受けさせるんだよ。
不特定多数の人間に暴行を受けているから、感染症や性病の心配もあるから。
轟くん、今度こそ間違えないようにね。
それじゃあ、またね。
暗い部屋で通話を切ると金剛はスマホを投げ出し、腕の中の慶志郎を抱き締めた。
虚ろな目で慶志郎はあらぬ方向を見たまま、微動だにしない。
マンションに帰り着くとほぼ同時に慶志郎は目を覚ましたが、放心状態で受け答えも出来なかった。
風呂場に連れて行き、身体を洗ってやると不意に慶志郎がゲエゲエと吐き始めた。
口から大量に吐き出したのは男の精液で、こんな物を飲まされていたのだと知ると怒りが再び込み上げたが、慶志郎が怯えないようにギリギリと唇を噛み締め、指を口に突っ込んで全て吐かせた。
あの連中は店長に任せたが、自分で海に沈めてやればよかったと思う。
犯された事を思い出すのか、腹の中に出された精液を掻き出そうとすると慶志郎は半狂乱になって泣き喚き、暴れて金剛を引っ掻いて噛み付いてきた。それも全て受け止めた。
慶志郎が受けた痛みに比べたら大した事でもない。
ようやく身体を洗い終えて彼を抱えて部屋に戻ると、店長から着信があり全て終わったと報告を受けた。
連中が二度と現れないというのは、物理的に現れない事だろうと何となく察した。
慶志郎を脅かす者が消えてくれるなら、その手段が非合法でも何でも構わない。
「慶志郎」
金剛の呼びかけに慶志郎が小さく何か呟いた。
「慶志郎?」
耳を寄せて彼の言葉を拾う。
キミに、会いたい。轟、キミに会いたい。
「俺ァ、ここだ」
慶志郎の言葉に答える。
彼の髪を梳いて金剛は呼びかけた。
大丈夫だと繰り返し繰り返し、慶志郎に言い聞かせた。
「ここにいる、俺はここにいる。もう怖い事は何もねぇよ」
金剛の声が届いたかは分からないが、縋るようにしがみついて来た慶志郎は静かに目を閉じてやっと眠った。
寝息が聞こえると金剛は投げ出したスマホを取り、登録している番号の一つにダイヤルした。
こんな状態の慶志郎を1人に出来なかった。
「……轟です、霧島サン」
無茶な頼みとは分かっていたが、金剛は押し通すつもりで社長秘書の霧島 エリカに連絡を取った。
「説明して頂けるわね、轟くん?」
翌日の早朝、マンションの金剛の部屋に呼び付けられた霧島 エリカは腕を組み、玄関先に出て来た金剛を険しい表情で見上げた。
「昨夜、電話で言った通りだ。鏡係長がケガを負ったんだが、俺の責任なんで治るまで休ませて欲しい。俺はクビでも構わねえが、鏡は休職扱いにしてやって欲しい」
「それは分かったわ。私は鏡くんが何故ケガをしたのか、訊いているの。そして何故、彼は貴方の自宅にいるの?病院には連れて行ったの?」
「鏡が落ち着いたら医者に診せる。ケガの理由は言えねえ」
鏡の為にも、と金剛はエリカの質問を躱す。
頑なな態度と返答、そしてエリカを決して部屋に上げまいとする金剛の様子に、只ならぬ事態に2人は巻き込まれたのではないかと彼女は推測した。
「親父……社長には俺から詫びを入れておく」
「轟くん、ねえ本当に何があったの?貴方が軽はずみな事をしない性格なのは私も分かっていてよ?」
「霧島サン、頼む」
金剛が真っ直ぐ頭を下げた。
ただひたすらに頼む、と。
金剛の面倒を数ヶ月ほど見た事があるエリカは、彼の性格を熟知していた。
こうなった彼は自分を犠牲にしてでも、絶対に引かないのだ。
これ以上の押し問答は無意味だと、エリカはこの場は引く事にした。
「……分かったわ、社長には私から伝えておきます。貴方の処遇は一旦は保留にして、鏡くんは病気療養として取り敢えず一ヶ月の休職願いを人事部に出しておきましょう」
「ありがとうございます」
「ただし、後でキチンと説明はしてもらいます」
「嗚呼、分かっ……」
部屋の奥から男の悲鳴が聞こえて来て、エリカはぎょっとした。悲痛な泣き声に金剛の顔色が変わる。
「慶志郎っ!霧島サン、すまん!」
金剛が部屋の中に駆けて行く。
目の前でドアが閉まり、取り残されたエリカは立ち尽くした。
慶志郎、と金剛は鏡を呼んでいた。
いつの間に、名前で呼ぶほどに2人は親しくなったのだろう?
恐らく鏡が発したであろう、あの悲鳴は?
「本当に、これは尋常ではない事があったのね」
溜息をついて霧島 エリカは剛天に報告しなければと、マンションを後にした。
「イヤだっ、止めろ止めてくれッ」
「慶志郎!」
眠っていた慶志郎が魘されて飛び起き、錯乱して叫ぶ。
金剛は暴れる身体を抱き締めた。
「助けて嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ」
「大丈夫だ、俺だ。慶志郎、俺だ」
「…………とどろき?」
慶志郎の顔を両手で挟み、真っ直ぐに目を合わせると焦点の定まらなかった目が段々と光を取り戻す。
だがまだ正気には戻っていない。
「おう、俺だ。金剛だ」
「……キミなの?」
「そうだ、俺だ。分かるか?」
「轟、キミなの?」
部屋の明かりを点けて金剛はもう一度、慶志郎に目を合わせた。
金剛を確認するように繰り返し尋ねる慶志郎に、何度もそうだと答える。
「慶志郎、俺だ」
「……轟、キミはいつも」
譫言のように慶志郎は言った。
夢と現実の狭間で瞳をユラユラと揺らめかせて、慶志郎は金剛に問い掛ける。
その先に何を言いたかったの?
慶志郎、俺は。
その後に何か言いたいの?
慶志郎の言葉に金剛は息を詰めた。
頭の中にノイズが走る。
俺は、俺は。
轟くん、今度こそ間違えないようにね。
『 』って言ったら、居なくなっちゃうよ。
店長の言葉と、遠い記憶が交差する。
今ここで間違えられない。
間違ったら慶志郎はもう二度と帰って来ない。
「キミのキスが思い出せない」
あの優しい口付けが好きだよ。
パタパタと慶志郎の目から涙が溢れた。
重ねただけの子供みたいな、あのキスが好きだと。
「そんくらい、望むなら幾らだってしてやらぁ」
抱き締めて、唇を重ねる。
途端にカタカタと震え始める慶志郎に、少しだけ唇を離して大丈夫だと囁く。
怖かったら目を開けておけと、あやすように背中をさすりもう一度キスを与える。
互いに見詰め合ったまま、口付けを交わす。
慶志郎の両腕が背中に回り、行かないでくれと抱き着いて来た。
「慶志郎、俺は」
駄目だよ、言ったら。
約束だよ、言わないって。
誰と交わした約束だったろう。
「慶志郎、俺は」
一度だけ、約束を破ろう。
長い長い間、封じ込めて来た記憶の扉を少しだけ開ける。
大切だから失くしたくないから、言わないと約束した。
けれど今ここで言わないと、慶志郎を失くしてしまう。
約束を交わした相手は思い出せないけど『その言葉』は思い出せた。
「慶志郎、俺は」
彼に届くように、しっかりと胸に抱いて耳元に唇を寄せる。
「慶志郎、俺はアンタを愛してるんだ」
灰色の世界に亀裂が走る。
凄まじい勢いで金剛の記憶が甦る。
--ごめんね、愛しているわ。
愛する貴方を置いて、逝ってしまうわたしを許してね。
好きのもっと好きは『大好き』って言うの。
『大好き』のもっと『大好き』は『愛してる』って言うのよ。
そう教えてくれた人は目の前から消えてしまった。
大好きな人に『愛してる』と言ったら、永遠にいなくなってしまった。
金剛の瞳を覆う虚無が消えて行く。
ガラガラと灰色の世界が崩壊していく。
それは轟 金剛の崩壊も意味していた。
後悔と罪悪感に飲み込まれながら、壊れて砕け散った欠片を掻き集め、継ぎ接ぎだらけの心で自分が犯した罪を残らず背負う。
鏡 慶志郎という男を滅茶苦茶に傷付けてしまったのは、まぎれもなく自分だ。
せめて彼が元の生活に戻れるまでは側に居よう。
その後はもう、彼に関わるまい。
言わずに失くすくらいなら、言って失くしてしまおう。
慶志郎の黄金の海のような髪が綺麗だと思った。
自信に満ち溢れた姿に見惚れていた。
彼の皮肉めいた笑みが好きだった。
ちょっと間抜けな一面が意外に可愛いと思った。
彼の全部が愛しくて、手に入れたかった。
無理やり脅してでも、手に入れたかった。
「慶志郎、愛してる」
俺が誰かを愛するといなくなっちまう。
だから、その言葉は言えなかったのだ。
大切な人を喪う恐怖に耐えられなかった。
喪う恐怖を味わうくらいなら、愛なんて知らずに生きて行った方がマシだった。
この先、もう俺は誰も愛さない。
この先、もう俺は愛されなくていい。
『愛してる』なんて言わない。
『愛してる』なんて思わない。
『愛してる』なんて考えない。
こんな身勝手な感情、愛とは呼べない。
慶志郎に対する罪悪感と贖罪を残して、溢れた記憶を心の中に押し戻し鍵を掛ける。
世界は再び灰色に染まった。
慶志郎がこの部屋から出て行く時、彼もまた灰色の世界に溶け込み、轟 金剛は鏡 慶志郎という男を忘れ去るのだ。
【2】
ひと月振りに出社すると、営業部の面々がわっと寄って来た。
「鏡係長!もう大丈夫なんスかっ!?」
「入院してたって聞きましたよ!」
「係長、ちょっと痩せたんじゃない?」
「元気になって良かったー!」
平、双子、雫がそれぞれに捲し立てて来て慶志郎は困ったように苦笑して彼らを制した。
「オーケーオーケー、心配してくれたのは有り難いから落ち着いてくれたまえ」
「じゃあ、係長の退院祝いでもするッス!」
「ちょっと平、係長はまだ病み上がりなんだから」
「そうよー、気が早すぎー」
「あ、轟くん。おはよー」
和気藹々と談笑していると、のそっと金剛が入って来る。
彼に気付いた雫が声を掛け、慶志郎は一瞬だけ強張った。
「……押忍」
こちらをチラリと見た金剛が軽く頭を下げて学帽を脱ぐ。
「そーいや、番長も長い間お休みしてたわねえ」
「嗚呼、会社の研修場に行ってた」
「そーなんだ、番長と係長がいない営業部は静か過ぎてつまんなかったわよー」
双子に代わる代わる話し掛けられ、金剛はそうかいと短く答えた。
表向き、慶志郎は悪性の風邪を拗らせ肺炎を併発して一時入院、金剛は社長直々の命令で研修場へ出張して1ヶ月いなかったという事になっていた。
実際には違う。数日前まで、慶志郎はずっと金剛のマンションで彼と一緒にいたのだ。
死ぬより辛い地獄を味わい、ろくに眠れず何度も何度も魘されて泣いて飛び起きる慶志郎を金剛はずっと抱き締めていた。
寝る時も起きている時も、片時も離れずに慶志郎が落ち着くまで大丈夫だからと何度も言葉を紡いだ。
慶志郎がようやく正気に戻ったのは、あの日から10日近く経ってからだ。
「全部、終わってるから安心していい」
アンタは病気療養で1ヶ月の休職扱いになってる、と金剛が教えてくれた。
自分がマトモでない間に金剛が色々と動いていたらしく、誰かにあの事を知られたのかと怯えたが、彼はそれを否定した。
あの連中はもういねえから。
いないというのがどんな意味を持つのか、慶志郎には想像が出来なかったが二度と現れないと聞かされた。
よくよく見ると、金剛の両腕には無数の引っ掻き傷が付けられ、みみず腫が何本も走っている。
「……コレ、ワタシがつけたの?」
「こんくらい、どうってこたァねえ」
傷痕に触れて動揺する自分を抱き締め、金剛が頭を撫でる。
アンタの方が、もっと痛かっただろう。
ごめんな、俺のせいで。
何度も何度も彼はごめんと言った。
「もうアンタを傷付けるヤツはいねえから」
その言葉の意味を深く考えずに、慶志郎は頷いた。
単純に、自分に惨い事をした連中がいない事だと思った。
職場復帰まで残り一週間になった日、金剛がスマホの通販画面を出して慶志郎に寄越した。
「アンタの服の趣味は分かんねえ。好きなの選べ、金はいくらかかっても構わん」
「高いの買うよ?」
「別にいいぜ、100万でも200万でも」
「……嘘だよ」
常識的な範囲で慶志郎は愛用しているブランドの服を選ぶ。
翌日配達で金剛は注文を終えると慶志郎を見た。
「明日の午前中には荷物が来る。服が届いたら家に帰れ」
「え、」
「帰りたかったんだろ」
出社の準備もあるだろう、と金剛は壁に埋め込まれていた金庫から慶志郎のスマホや車のキー、財布などを取り出して返してくれた。
電源を入れてみるが、どうやら電源を入れっ放しで保管していた為、スマホの充電は無くなって点かなかった。
「鏡」
金剛が一枚の名刺を差し出した。
とある心療内科医の医者の物だ。
「もし思い出して、つらくて耐えられなかったら、ここに行け。口が固くて信頼が出来るいい病院だ」
男が男に強姦されたなど、とても人に話せるものではない。
ましてや集団による輪姦だ。
青醒める慶志郎を金剛は抱き寄せた。
「アンタに起こった事をナシには出来ねえ。けど、それに囚われてアンタが駄目になっちまうのは見たくねえ。だから、つらかったら我慢してくれるな」
「……分かった。どうしても無理だったら、ここに行くよ」
慶志郎は『桜井総合病院』と書かれた名刺を財布にしまった。
翌日、予定通りに宅配物が届いて慶志郎は簡単に身支度を整えた。
「それじゃ」
靴を履き、慶志郎は玄関から通路に一歩踏み出して金剛を振り返る。
「嗚呼、また会社でな。係長」
ドアが閉まる直前、金剛は「慶志郎」と呼んだ。
ゴトンとスマホを足元に落として金剛は少し笑った。
「もうアンタを傷付けるヤツはいねえから、安心しろ」
ベキ、と金剛の足がスマホを踏み砕く。
「轟?」
「慶志郎、俺はアンタ」
ガチャン、と目の前でドアが閉まり最後の言葉は掻き消されて聞こえなかった。
その瞬間、慶志郎はとてつもない喪失感に見舞われた。
金剛が言いかけた言葉は、この先もう二度と聞けないと何故か思った。
喪失感を抱えて慶志郎は自宅に帰る前に、たまに訪れる海岸線に愛車を走らせた。
多分、自分と金剛は何かを間違えてしまったような気がする。
あの時、もう一度ドアを開けて言葉の続きを聞かなければいけなかった。
けれどもう、金剛は答えないと分かっていた。
夕暮れまで、慶志郎はずっと海を眺めていた。
「慶志郎、俺は」
ドアが閉まる直前、もう一度だけ金剛は言った。
「アンタを愛してるんだ」
ガチャン。
ドアの閉まる大きな音に遮られて言葉は届かなかった。
「……慶志郎、愛してた」
無機質の厚いドアを見詰め突っ立ったまま、ボロボロと涙を零して金剛は呟いた。
もう、その言葉は二度と言えない。
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