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第14話 聞けない

【1】 久し振りに店を訪れた金剛を見て「ああ、彼は間違ってしまったんだな」と店長は確信した。 あれだけ、間違えないようにと忠告したのに。 ただ金剛がきっとその選択をするだろうとは思っていた。 示された幾筋もの道からどれを選ぶかは、金剛自身だ。 そこに他者は口を挟めない。 「こないだは世話になりました」 律儀に頭を下げる金剛に店長は優しく微笑んだ。 「いいよ、それくらいの事。ボクもちょっとお小遣い稼ぎが出来たしね」 若い男は生きてても死んでても色々とお金になるからねえ、という言葉は言わないでおく。 「轟くん、彼を手離しちゃったの?」 「はい」 「それで良かったの?」 「……はい」 一瞬だけ押し黙った後、金剛は頷いた。 「そう、それじゃあボクが言う事は何もないね」 嘘が下手な子供だったねえ、昔から。 欲しいものを欲しいと言えずに、彼はまた心を閉ざしてしまった。 あの夜、金髪の彼を抱き上げた金剛は全身で想いを叫んでいたクセに、自ら手離してしまったのだ。 何と愚かで愛しい子供だろう。 「ねえ轟くん。ボクは君より大分オジサンで、いろーんな人間を見て来たんだけどね。君が本当は凄く優しい子だって、ボクは知ってるよ」 「そんなワケ、」 「君は優し過ぎるから、大切な人がいなくなる事に耐えられないんだよね」 彼の心はあまりにも脆くて綺麗で、だから強くなるしかなかった。 「轟くん、また困った事があったらいつでも来てね。君に頼られるのって、弟が出来たみたいでボクは好きなんだ」 またね、と手を振る店長にもう一度頭を下げて金剛は店を後にした。 「……でもボクは壊れている君も結構、気に入ってるんだ」 大人ってホント、汚いよねえと店長は苦笑した。 表面上は何事もなく日々が過ぎた。 「番長ー、オレ番長にLINEしたんスけど見ましたー?」 平に訊かれて金剛はしばし考え、ああと思い出したように言った。 「……あー、そういやスマホを落として壊れてそのままだ。買い直してねえ」 「えっ、マジで!じゃあ、飲みの誘いも見てないんスか?」 「だな、知らねえ」 デスクで書類を片付ける慶志郎の耳に、そんなやり取りが飛び込んできた。別れた日、確かに金剛は自分のスマホを壊していた。 「昼休みにショップに行って来たら?業務連絡だってあるんだから、連絡手段がないと不便よ」 「買い方が分かんねえ」 雫の提案に金剛が答えると、平が一緒に行くと名乗りを上げる。 「轟くん、前のスマホはどうやって買ったの?」 「……霧島サンが用意してくれたから」 「えっ、霧島さんって、社長秘書の?どうしてあの人が?」 「社長の命令だろ、俺がここに入る時に住むトコとかいろいろな手配してくれたから」 「なるほどー、番長って社長の息子だったわ。忘れてたけど」 「別に覚えてなくていいけどよ。新しいの買ったら、またアンタらの電話番号とか教えてくれ」 「バックアップから引っ張れば簡単ッスよ!」 胸を張る平の台詞に金剛が怪訝な顔をする。 「バックアップ?何だそりゃ」 「えっ、ネット上にデータを預けるサービスなんスけど……もしかして番長、バックアップ取ってないんスか?」 「知らん」 マジかあぁ!と叫ぶ平に金剛はちょっと眉を潜めただけだ。 そんな彼らのやり取りに双子が番長だからねえと笑っているのを、慶志郎は視界の端で見ていた。 何本もの手が自分を押さえ付け、嘲笑と共に身体を弄ばれる。 嫌だと言う口を男の怒張で塞がれ、助けを呼ぶ声を掻き消される。 入れ替わり立ち替わり、何度も何度も男の怒張に刺し貫かれ望まぬ快楽を植え付けられる。 ベッドヘッドの小さな明かりを灯した寝室で、悲鳴を上げて慶志郎は飛び起きた。 夢と現実の区別が付かず混乱してベッドから転げ落ち、呼吸が上手く出来なくてボロボロと涙が溢れる。 ズルズルと這ってトイレに行き、嗚咽しながら吐いた。 身体に冷や汗を掻いて蹲り、何とか呼吸を落ち着かせると数分後にようやく慶志郎はのろのろと立ち上がり、洗面台で口を濯ぎ寝室の照明を灯した。 時刻は午前三時。 明かりを消すと暗闇から自分を捕らえる手が伸びて来そうで、慶志郎はそのままベッドに潜り込んだ。 どうせまた、朝まで眠れない。 毎晩毎晩、何人もの男達に犯される夢を見て飛び起きる。 日中、会社にいる時は表面上はどうにか平静を保てているが、自宅に戻って一人になるとあの出来事がフラッシュバックして食事もろくに摂れない。 見た目には変わっていないように見えるが、職場復帰してから体重はさらに五キロ落ちていた。 以前の自分だったら、数多の女性と毎日のようにデートを重ねて女の柔肌を枕に寝ていたのだが、帰って来てからは誰とも肌を重ねる気にもなれない。 自宅に戻り、自分がいなかった約ひと月の間に切れていたスマホの電源を入れると凄まじい量の着信やLINE、メールが溢れんばかりに届き、みんな自分を心配してくれていた事に感謝しつつ急病で連絡が出来なかった事、事情があって連絡手段が手元になかった事を詫びた。 何人かの親しい女性とはディナーに誘って約束を反古にしたお詫びのデートをしたが、病み上がりを理由に一晩を一緒に過ごす事はなかった。女性達も何となく察してくれて、また元気になったらねと慶志郎を励ましてくれた。 気が狂いそうにつらくても、誰にも言えない。 唯一、事情を知る金剛はあの日から一切、連絡して来なかった。 会社で顔を合わせても、あの無表情な目で最低限の業務上での会話しかしない。 「大丈夫だ」 あの声を聞くと不思議と落ち着いた。 魘されて泣く自分を抱き込み、ずっと側にいた男はもういないのだ。 どんなに恐ろしい夢を見ても、息も出来ない程につらくても、慶志郎は一人で対処しなければならない事に今さら、気付いたのだ。 どうしてこんな風になってしまったのだろう。 どこでかけ違えたのだろう。 --あの男のせいじゃないか。 自分をこんなに傷つけたのも。 今こんなに苦しいのも。 気づいてしまった。 金剛と共にいた半月以上、彼は一度も慶志郎を抱く事はなかった。 だから慶志郎の身体は金剛ではなく、あの男達に触れられた感触を記憶している。 それが余計に慶志郎の精神を苛んだ。 無理矢理、咥えさせられた陰茎の感触を舌が覚えている。 生臭い精液を飲み込まされる感触を喉が覚えている。 身体を撫で回す手を、腹の中を掻き回される感触を覚えている。 「アンタの身体、俺の手を覚えたよな」 身体の記憶は塗り替えられて、金剛にどんな風に抱かれていたか、もう思い出せない。 アイツのせいだ。 ドス黒い感情が慶志郎の中に沸き上がる。 あの日、あの男が自分を犯さなければ、こんな事にはならなかった。 写真を盾に脅して関係を強要しなければ。 違う、拒もうと思えば出来た。 多分、拒めば金剛は引いた筈だ。 あの男は、本当に嫌な事はしなかった。 アイツのせいか、己のせいか。 ぐるぐると終わりのない負の思考に囚われる。 悔しい。憎い。許さない。 そして、それ以上に。 自分はあの男を。 彼を知らなければ、こんな醜い感情をも知る事はなかった。 こんな感情を植え付けた金剛が、ただただ憎い。 追い詰められた鏡 慶志郎の精神はもうギリギリだった。 【2】 轟 金剛に関して最近、良からぬ噂がまことしやかに流れていた。 それは他聞に漏れず営業部にも伝わって来たある日、双子の美佑と美佐と雫が腕を組んで唸っていた。 「あの番長がねえ……うーん、信じられないけど」 「でも見たって子もいるしねえ」 「轟くん、そんな不誠実な人には見えないけどなあ」 「おっはよーござーッス!」 そこへ熱血社員の平が無駄に元気良く出社してきて、爆弾発言を投下した。 「いやぁ、昨日ッスねえ、オレ見ちゃったんスよ!番長がどっかのキレイなお姉さんと一緒にいるの!彼女が出来たんスかね、やっぱり!」 「えっ」 「マジで?」 「ホントっス。いやぁ、番長ってモテますもんねえ」 能天気な平は単純に番長って漢前だからー、と誇らしげに言っていたが、女性3人組はますます顔を顰める。 「平、アンタ番長の噂を知らないの?」 「へ?噂って何スか?」 「……轟くんが、色んな女の人をその、取っ替え引っ替えしてるって」 「アンタが見たって人も多分、彼女じゃないわよ」 「え?え?え?」 「鈍いわねえ」 はーぁ、と溜息をついて美佑が平にデコピンをかます。 「単にヤリ友だか何だかよ、ソレ」 「え………ええぇぇえ!?」 「鏡係長なら分かるんだけど、あの番長がねぇ」 「ワタシが何だって?」 「いやね、タラシの係長なら……ひっ!?」 ざーっと全員が青醒めた。 赤いスーツの上司が腕を組んで額に青筋を浮かべ、不機嫌そうに口元をヒクつかせて見下ろしていたのだ。 「かっ、鏡係長、おはよう、ございますっ」 「今、凄く聞き捨てならない話が聞こえたんだけどね。詳しく聞かせて貰いたいものだ」 「いっ、いや、ただの噂ですよ!」 美佐がアワアワと取り繕う。 しかし、天然の雫がさっくりバラしてしまった。 「轟くんが最近、色んな人の誘いを断らなくなったって噂が流れてるんです。前までは絶対に応じなかったのに」 「ほ、ほら、番長って係長みたいに女の人の扱いが上手に見えないってか、何か想像出来ないってか」 「そうそうそう、係長ってエスコート上手いじゃん!」 アンタはもう黙ってなさい!と双子が雫を押さえて色々と弁明する。 「ワタシは単にレディを喜ばせるのが好きなだけだよ」 「ですよねー、係長って女の人には優しいですもんねー」 「そういう、取って付けたように言われても嬉しくないんだけどね。馬鹿な事を言ってないで、そろそろ始業だよ」 「はぁーい」 お喋りな部下達が各々、デスクに着くのを見届けると慶志郎はコーヒーを買いに部署を出た。 フロアの突き当たりの喫煙スペースに自動販売機が3台ほどあり、その内の1台は豆を挽いて淹れる紙コップタイプのコーヒー販売機だ。 意外に味が良いので、慶志郎はいつもコーヒーはこの販売機から買っている。 アメリカンコーヒーをブラックで購入していると丁度、轟 金剛が出社して来て部署に入らずこちらに向かって来る。 眠そうな様子で欠伸をする彼に、後ろから猛然と近付いて来る女性2人の姿が目に入った。 気の強そうなベリーショートの女性と、ボブカットのふわっとした女性だ。 ただ、ボブカットの方が目を潤ませて泣きそうな顔をしている。 「ちょっと!轟 金剛ってアンタでしょ!」 「そうだが、誰だアンタら」 怒りも露わにベリーショートの女性が金剛を呼び止め、振り返った金剛の威圧感に一瞬ベリーショートが怯むが、キッと目を吊り上げて彼を睨み上げて詰め寄る。 近くにいる慶志郎にも気付かないようだ。 彼女達、確か第二秘書部の子ではなかったか。 2人の女性を見詰めて慶志郎は記憶を引っ張り出す。 この男、轟商事の全女性社員の顔を全て覚えているのだ。 さすがフェミニストである。 「アタシはこの子の親友よ。アンタ、この子と付き合ってんのに、他の女とも付き合ってるんですって!?」 ベリーショートの口から放たれた言葉に、慶志郎は紙コップを手にしたままビックリした。 しかし言われた金剛は怪訝な顔をして二人を見比べる。 「何の話だ?俺は誰とも付き合ったつもりはねぇし、そっちの姉ちゃんは会った事もねぇが」 「ウソ!先週この子から告白されたんじゃない!」 「先週……?」 そうでしょ?と彼女がボブカットの女性に訊くと小さく「うん」と頷く。 金剛はしばし女性をジッと見つめ、やがて何か思い出したらしく「あぁ」と言った。 「……ああ、そういや先週だったな確かに。へぇ、アンタん中じゃそういう事になってんのか。大した姉ちゃんだ」 嫌な笑みを張り付かせて金剛が冷たい目で女性を見下ろす。 始業前なので同フロアに出社して来た他部署の社員が、何事かとチラホラ足を止め始め、ギャラリーが増えていく。 マズいな、と慶志郎は彼らを止めに入ろうと思った。 というか、とんでもない修羅場に巻き込まれてしまった。 ただでさえ、金剛は目立つのだ。 そして運の悪い事に営業部の双子と平、雫がやはり飲み物を買いに此方に来てしまい、この場面に出くわした。 金剛の豹変振りに、慶志郎を除く本来の彼を知らないメンバーは「え?えっ?どうしたの?」とキョドる。 「ちょっと、何よその言い草!」 「何もこうもねえよ、文句を言いてえのは俺の方だ。ずいぶんと好き勝手なホラ話を吹聴されて、いい迷惑だぜ」 自販機から缶コーヒーを購入し、プルタブを引き上げて金剛は冷ややかに二人の女性を見返す。 「その親友とやらに、テメエの都合のいい話だけしてるのか。さすが、尻軽な女はやる事も薄汚ねぇな。まあ、俺はアンタの名前も顔も今の今まで、これっぽっちも覚えてなかったが」 辛辣な言葉にボブカットの方が「ひどい」と顔を歪ませる。 「ヒドイのはどっちだ、やってもねぇ事で責め立てられる俺は可哀想じゃねぇのかよ」 くっくっくっ、と金剛が低く笑った。 笑ってはいるが、目はちっとも笑っていない。 ボブカットがベリーショートを引っ張り「もういいから行こう」と促すも、親友の為にと熱くなっている彼女は応じない。 「よくないわよ、ちゃんとハッキリさせなきゃ!」 「そうだなァ、ハッキリさせないと誤解されたまんまってのも困る」 金剛が顔を逸らすボブカットに近付いて覗き込む。 「忘れたみてえだから、もう一度言ってやるよ。俺は誘われたら断らねぇが、関係は一度きりと決めてる。男女の交際とやらに興味もねえし、恋人だの何だの面倒な関係も真っ平ゴメンだ。アンタ、それでいいって言ったよな?一緒に晩メシ食ってホテルで一晩セックスしてそれで終わり、二度は無いって条件飲んだよな?」 金剛の台詞にベリーショートがえっ?と親友を振り返る。 どうやらずいぶんと違う話を聞かされていたらしい。 「それがどうやったら、俺とお付き合いしてる話になるのか、納得いく説明してくれよ」 他の連中も知りたがってるしな、と金剛は自分達に注目するギャラリーを見回し、慶志郎に一瞬だけ目を止めて再び彼女達に向き直り「それに」と付け加えた。 「何を勘違いしてんだか知らねェが、俺はこの会社を継ぐワケでもねえ。玉の輿狙いだったらお門違いだぜ、俺は何も持つ気はねぇし、ココは俺のモンでもねぇ。仮にくれてやるって言われても欲しくもねえ」 その台詞にボブカットが苦々しい表情で舌打ちする。 先程までのか弱げな態度とはうって変わって、開き直りにも見えるそのふてぶてしい様子に、オロオロと見上げてくるベリーショートに金剛は鼻先で笑った。 「アンタも無駄な正義感を振りかざす前に、お友達はよく選んだ方がいいかもな」 「轟くん、そこまでにして下さる?」 痛烈な嫌味に羞恥で顔を赤くする彼女達が押し黙ったところに、ギャラリーを掻き分けカツンとピンヒールを響かせて霧島 エリカが現れた。 秘書部を纏め上げるエリカの登場に、二人の女性が顔を強張らせる。 「騒がせてごめんなさい。後の事は私が引き受けますから、皆さんは業務に戻って」 エリカの言葉にそれまで成り行きを見ていた社員達がハッと目覚めたように、それぞれ自分の部署に入って行った。 これだけ目撃者がいれば人の口に戸は立てられまい。 多分、今日中には全社にこの出来事は広まるだろうな、と慶志郎は他人事ながら溜息をついた。 後に残ったのは当事者達と慶志郎、営業部のいつものメンバーのみである。 「うちの子がごめんなさいね、轟くん」 「霧島サン、アンタんトコの女は毎度毎度しつこくて困る」 「あら、ごめんなさい。でも断らない貴方にも問題があるのではなくて?」 「そりゃそうだな。どうしてもって言われたから仕方なく応じたが、次から断る事にする」 「是非ともそうして欲しいわね。社内の風紀の為にも」 「そっちでもサカリのついた姉ちゃん達を止めてくれ、断るのも疲れる。そんなに男に飢えてんなら色々と見繕って斡旋してやったら済む話じゃねぇか」 「そうしたいのは山々だけど無駄に理想が高いのよ、ウチの子達。まあ、善処しましょう」 「理想、ねえ……単に金の有る便利棒を探してるだけじゃねえのか?そっちの姉ちゃんみたいに」 「轟くん、本当の事でも口に出さないの」 ちろ、と先程の女性を一瞥して金剛は皮肉めいた笑みを浮かべるとエリカも窘める体で容赦無い追撃をかます。 エリカも味方ではないと悟った二人の女性は決まりが悪そうに縮こまっている。 「ま、アンタだったら一回手合わせしてみたいがな」 「あら、笑えないジョークだわ」 ほほほ、とエリカが笑うが目は笑っていない。 「お断りね。私、貴方みたいなロクデナシはタイプじゃなくてよ」 「奇遇だな、俺もアンタみたいなおっかねえ女はタイプじゃねえ」 氷点下の張り詰めた空気の中でエリカと金剛が互いに薄っぺらい笑みを浮かべて笑えない冗談の応酬をするが、誰も間に入って口を挟む事など出来ない。 二人の女性を連れて霧島 エリカが立ち去ると金剛は缶コーヒーを飲み干し、空き缶を後ろ手に放り投げ営業部に入って行った。 弧を描いた空き缶は見事に分別用のゴミ箱にストライクし、見ていた平がすげぇッス番長!と言って彼の後を追って行く。 緊張の糸が切れて双子と雫がはあぁぁと溜息をついた。 「……信じらんない……番長があんな人だなんて」 「轟くん、いつもと全然違う人みたい……」 「ねえ、係長は番長のああいうトコ知ってたの?」 「……私生活の事までは知らないよ、ワタシも」 問われて慶志郎は咄嗟に嘘をつき、温くなったアメリカンを飲み干した。 「ただ、彼は誰にも興味が無いんだ」 「興味がないって、女の人にですか?」 雫の問いにノーと慶志郎は首を振る。 「文字通り、誰にもだよ。彼は自分の中で要か不要かで人を区別しているんだ。ワタシ達の事は同じ仕事に携わる仲間、という意識はあるけれどプライベートには関心がない。ハッキリ言えば我々の名前を覚えているかも怪しい」 「え、そんな」 「番長、入社してから結構経つのに」 「あの男がどういう育ち方をしてきたのかは知らないけど多分……人として一番大事な感情が無いんだと思うよ」 半分は自分に言い聞かせるように慶志郎は言った。 金剛自身から彼の生い立ちをある程度は聞かされているが、仕事仲間に全てを話す理由はない。 だが、今の出来事でこのメンバーに彼の本質を見られてしまった。 以前の自分だったら、金剛の事を何も知らない自分だったら、彼が誰に誤解されようが、後ろ指を指されようが気にしなかったであろう。 むしろアイツはあんな奴なのだと軽蔑していただろう。 だが多少どころか、深く関わってしまった今となっては知らぬフリも出来ない。 ただ、と思う。 軽蔑されようが陰口を叩かれようが、あの男は変わる事はない。 変わろうとも変えようとも思わないのだろう。 自分の知らないところで、金剛はあれから不特定多数の女性と一夜限りの関係を繰り返していたようだ。 あれ程までに嫌悪していたのに、一体どういう心境の変化なのだろう。 自分はこんなにも苦しんでいるのに、あの男は平然と他の誰かを抱いているのか。 苦々しい思いで慶志郎は彼女達を促して仕事に戻った。 【3】 「あの、大丈夫ですか?」 自社ビルの近くの公園でベンチに座っていた慶志郎は、若い女性の声に青白い顔を上げた。 秋も半ばだというのに、その日は夏が戻って来たかのようにやたらと暑かった。 全国でも三十度を超える夏日を記録する地域も多く、どこそこで熱中症で倒れた人が搬送されたというニュースが流れており、都内でも高温に見舞われた。 そしてこの暑い最中、営業で外回りに出ていた慶志郎は帰社する途中で酷い眩暈に襲われた。 ここ二ヶ月ほど食事も睡眠も足りておらず、体力も落ちていて体調は最悪の状態な上にこの暑さである。 これで大丈夫なハズがない。 それでも往来で倒れて無様な姿を晒すなど慶志郎のプライドが許さず、何とか公園に辿り着いてベンチに腰を下ろしたのだった。 そして冒頭に戻る。 「突然ごめんなさい、すごく気分が悪そうだったので心配になって」 慶志郎に声を掛けて来たのは、長い髪を後頭部でひとつに纏め上げた小柄な女性だった。 大きな瞳が慶志郎を気遣うように真っ直ぐ見詰めてきて、清純そうで優しそうで、慶志郎の周りに居る華やかな女性達とは真逆のタイプだ。 今日の暑さのせいだろう、白いノースリーブのチュニック、淡いブルーのホットパンツという真夏のファッションで、すらりと伸びた細い足はサンダルを履いていて、全体的に露出が高めだが健康的な印象を与える。 「ひどい汗」 彼女が肩掛けのバッグからハンカチを出して、慶志郎の額に当てた。 しばし呆然と彼女を見上げていた慶志郎だったが、ハッと我に返る。 「ソーリー、お嬢さん。少し休めば大丈夫だから」 「でも……真っ青ですよ。病院に行かなくて大丈夫ですか?」 「ああ、ちょっと寝不足でね。勤め先も近いし、今日は定時上がりの予定だし」 「お勤め先?」 「うん、其処の轟ビルなんだ」 慶志郎が公園の先に見えるバカでかいビルを指すと一瞬、彼女が目を見張った。 「轟……」 「ご親切に有り難う、ステキなお嬢さん。キミと話をしたら大分、気分が良くなったよ」 いつもの調子を取り戻して慶志郎は立ち上がった。 まだフラつくが、見知らぬ女性にこれ以上の心配は掛けたくない。 それに気分が良くなってきたのも事実だ。 「あ、じゃあ私はこれで」 「待って、ハンカチは洗って返すからキミの名前を教えて?」 「私は、あおや……」 立ち去ろうとする彼女を呼び止めた慶志郎に、彼女は躊躇いもなく名乗り掛けたが丁度、公園の入口で彼女を呼ぶ声が響き、そちらに意識を捕られる。 「それ、差し上げます。それじゃ!」 明るく笑って彼女は友人らしき女性の元に走り去って行った。 可愛いパンダ柄のハンカチを慶志郎の元に残して。 あの一件以来、轟 金剛は他の社員から距離を置かれていた。 あの日の出来事は光の如き速さで会社中に広まり、彼の事情を知らない人間からすれば金剛は貞操観念の低い、無節操な人物にしか見えないから無理もない。 事実、そうであった。 彼はどこで声を掛けられても隠す事なく応じていたからだ。 そんな金剛を見ても変わらずに接してくる営業部のメンバーは、彼にとっても救いではあった。 「きっと、番長にも何か事情があるッス」 金剛を番長と慕う平はキッパリと言った。 「どうして、そう思うんだい?フラットボーイ?」 自宅に帰り、また不安定な夜を過ごす時間を少しでも減らしたくて、慶志郎は平を奢るからと会社帰りに飲みに誘った。 連れて来たのはリーズナブルな値段だが、シックな雰囲気で美味い肴で酒が飲める静かなカウンターバーだ。 一人で静かに飲みたい時に、たまに訪れる慶志郎の隠れ家的な店だった。 マティーニを頼み、平にも好きな酒を選ばせ暫し無言で喉を潤す。 話は自然と轟 金剛の事になり、平は先にそう言い切ったのだった。 「番長、全然楽しそうに見えないッス」 普通、デートって言ったら楽しいモンなんじゃないスか? 「係長なら分かるでしょ?」 「まぁ……そうだね。少なくともワタシは女性を楽しませるのが楽しいから」 「オレ、上手く言えないんスけど……番長、何だか自暴自棄になってるように見えるんスよね」 水割りをお代わりし、ナッツを口に放り込んで平は続けた。 彼の額にはいつも巻いている鉢巻はなく、前髪も下ろしている為、別人のように見える。 そして改めて見れば平もなかなかの男前だ。 会社では常にハイテンションで騒いでいるので気付かなかった。 この子、少し落ち着けばそこそこモテるだろうに……見た目と中身のギャップが残念な方に傾いているのが不憫だ。 「でも楽しくないなら断れば済む話だよね」 「……どーでもいいんじゃないスかね」 「え?」 いささか投げやりな答えと平の口調に慶志郎は驚いた。 「番長って確かに頼り甲斐はあるけど多分、誰の事も見てないッス。オレ、いつも番長の後にくっついてるから何となく分かっちまったんスよね」 あの人にとって世間とか会社とか、どーでもいいんじゃないかと。 「普通はデートの誘いに乗るっつったって、約束も場所を選ぶモンでしょ?昨日もオレ、番長が誘いに乗るトコに出くわしたんスけど相手が恥を掻こうが関係ないんスよ、あの人」 昨日、珍しく社内食堂で昼食を食べようと平と連れだった金剛は別部署の女性に声を掛けられて振り返った。 「そりゃ、今日でいいのか?」 少し顔を赤らめて頷く彼女に「いいぜ」と金剛が返し、じゃあメールかラインで待ち合わせをとスマホを取り出す相手を要らねぇと制する。 「悪いが、俺は一度きりの関係しか持たねぇ。だからお前さんがどこの誰かも知らなくていいし、連絡先も必要ねえ。それでよけりゃ、帰りに会社の外で待ってな。メシとホテル代は俺が持つからよ」 大勢の人間の前で今夜セックスに応じます、その代わり一発ヤッたらお仕舞いね、などと返されては彼女の立つ瀬が無い。 泣き出しそうな顔で食堂を立ち去る彼女の姿を金剛は一瞥して、さっさと定食を食べ始めた。 周りから「ひどい」とか聞こえてくるが、彼は一向に気にしない。 「ば、番長……あれはさすがに」 「誘ったのは向こうだ。恥を掻きたくねぇなら、最初から声を掛けないか自分で場所を選べばいい。人目に付きたくねぇなら他にやり方はいくらでもあるだろ、自分で選択を間違っといて被害者ヅラされんのは気分が悪い」 大きめの声で金剛が平に返すと、遠巻きにヒソヒソと金剛の対応に陰口を叩いていた声が止んだ。 「俺は別に大人の付き合いは恥だとも何とも思わねぇから、どこにいても応じる。度胸も覚悟もねぇヤツが中途半端に手を出そうとするから恥を掻くんだろ」 「……やっぱ、番長は番長ッスね。オレには真似は出来ねぇッス」 「真似する必要もねえ。平には平の良さがあるんだからよ」 「番長……オレ、番長に付いて行くッス!」 ジーンと感動して平はカツ丼を掻き込んだ。 ぶっきらぼうだが、金剛は金剛なりに己を慕う平を気に掛けていたようだ。 「そこに痺れる憧れるぅ……じゃなくて、まあオレも一応は訊いてみたんスよねえ」 空になったマティーニのグラスに残るオリーブを口に入れ、慶志郎はソルティドッグを頼んだ。 「何を訊いたんだい?」 「番長は何で、誰とでも寝るんスかって」 「フラットボーイ……直球過ぎるよソレ」 「だって他に訊きようないですもん。それに番長には言葉を飾るより、そっちの方が伝わるでしょ?」 「まあ……確かにね。それで彼の答えは何と?」 「知らねぇって。昔から、そういう誘いは多かったらしいんスけど、自分から声を掛けた事はないって言ってたッス。断るのも大概、面倒になって来たから一度だけって約束して応じる事にしたんだって言ってました」 まあでも、大抵はその約束を破って二度三度と誘われるそうですけど、こないだの秘書のお姉さんの時のように塩対応で返してますよ。 「番長、約束を守らない人には物凄く冷たいですよねえ」 グラスの縁の塩を舐め取り、カクテルと共に飲み込んで慶志郎はそっと息を吐いた。 轟 金剛は麻薬のような男なのだ。 一度だけと思って手を出したはいいが、その味を忘れられなくて再び味わってしまいたくなる。 アレは人を破滅に追いやる性質の男だ。 そしてふと気付く。 一度だけと決めているなら何故、彼は自分とは何度も寝たのだろう。 確かに彼から脅しを掛けられて応じたのは自分だ。 関係が始まったあの日、性欲を解消したいだけなら一度だけで良かったハズだ。 回りくどい手を使い、逃げ場を塞いでまで何故。 何か引っ掛かる。 何があっても手離さないと言ったのに、どんな心境の変化か彼はさっくりとその言葉をなかったものにした。 別れの日、憑き物が落ちたように自分を見送った彼。 『慶志郎、俺は』 続きを聞けなかった言葉。 足元で踏み砕いたスマホ。 『バックアップ?何だそりゃ』 スマホのデータを取っていなかった。 あのスマホには自分の写真と音声と……。 そこまで考えてた時、ふと気づいて慶志郎の全身からドッと汗が出た。 「係長?」 残ったカクテルを飲み干し、慶志郎はスツールから降りた。 「ありがとう、フラットボーイ。ここはワタシの払いだからキミは好きなだけ飲んでいいよ。ワタシは急用を思い出したから帰る」 「おぉ、あざッス!ゴチです、係長ー」 バーテンにカード払いを頼み、慶志郎は店を出た。 タクシーを呼び止め、金剛のマンションの場所を告げて慶志郎は乗り込んだ。 あの日から聞けないでいた、言葉の続きを今度こそ聞かなければならなかった。 NEXT→  
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