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第16話 邂逅

【1】 桜井総合病院、集中治療室。 会社で階段から落ちた轟 金剛はこの病院に担ぎ込まれた。 「命に別状はありません。CTスキャンでも胸部の骨折以外、脳内やその他に内部出血などは見られませんでした。ですが頭を打っていますので念の為、一晩だけ此方で様子見となります。異常が無ければ明日から一般病棟に移されます」 集中治療室のガラス窓の向こうでベッドに寝かされ点滴やら何やらで管だらけの金剛に目をやり、救命医師が説明した。 その言葉に病院へと駆け付けた慶志郎始め、営業部のメンバーと秘書の霧島 エリカはほっと安堵する。 「鍛えた鎧のような筋肉が内臓を守ったのと、落下の際に受け身を取って頭を庇ったのが良かったですよ。普通なら死んでもおかしくありません。助かったとしても不随になる可能性もありました。素晴らしい身体能力ですね」 それでも無傷では済まなかった。 肋骨を3本折り、全身打撲で全治1ヶ月はかかるだろうとの事。 頭から流れた血はこめかみを薄く切って出ただけなので、大した傷ではなかった。 「絶対安静なので面会は控えて下さい」 医師が立ち去ると平が廊下のベンチに腰を落とした。 「……っ、はー……ホント、良かったッスよ……胆が冷えたッス」 「うん、うん、良かった……轟くんが助けてくれなかったら、私も係長も…」 ありがとう、轟くんと雫がぐすっと鼻を啜る。 「でも、さすが番長ねー」 「修行の成果なのねー」 双子も軽い口調ではあるが、金剛の状態が分かるまでは泣きそうな顔をしていた。 「轟くんも無事だったし、私達が此処に居ても出来る事はないわ。今日は皆さん、お帰り下さい」 エリカが私は轟くんの入院手続きがあるから、と全員に帰宅を促す。 慶志郎は出来れば残りたかったのだが、誰も2人の関係を知らない故に無理に残っても訝しまれるだけだ。 仕方ない、明日の朝早くにもう一度……と考えた時。 「鏡 慶志郎さんって貴方?」 1人の女医が現れて慶志郎に声を掛けた。 霧島 エリカに引けを取らない、随分とグラマラスで色気のある女医だ。 慶志郎の好みで言えばドストライクのタイプ。 胸から下がるIDカードには『桜井 マチ子』と書かれていた。 いつもの慶志郎なら、周囲の目も気にせずにすかさずデートに誘っていただろう。 だが今はそんな気分でも、誰かに目をやる気持ちもない。 「はあ……ワタシが鏡ですが」 「ああ、やっぱりね。お会い出来て良かったわ、貴方とは一度、どうしても会わなくちゃと思っていたの」 女医と話す慶志郎を置いて、営業部のメンバーとエリカがお疲れ様と声をかけて立ち去って行った。 「ここで立ち話も何ですから、私の診察室へいらっしゃらない?轟くんの事でお話もあるし」 轟、と女医の口から名前が出た途端、慶志郎は眉を潜めた。 「貴女は……」 桜井 マチ子はふふ、と妖艶な笑みを浮かべた。 この病院、私の両親が経営しているの。 長い廊下を並んで歩きながらマチ子が話した。 「轟くんの事は昔から知っているわ。さあ、お入りになって」 案内されたのは病院の奥まった一角で、中庭がよく見える明るく広い診察室だったが、内装的には患者を診るような部屋には見えない。 ちょっとした高級住宅のリビングのような造りだった。 入る時に見たドアに貼り付けてあったプレートには『心療内科(臨床心理)』の文字が刻まれていた。 「改めて、私は桜井 マチ子と言います。外科医だけれど臨床心理士でもあるの。昔、轟くんが高校生の時に彼の通っていた学校で保健教諭を務めていたから、彼の事はよく知っているのよ」 診察室の中央に設えてあるローテーブルを挟み、慶志郎がソファに腰を下ろすとコーヒーを淹れたカップを渡してマチ子は慶志郎の向かい側に座り自己紹介する。 「ふふ、リラックスなさってね」 「ええ……」 緊張の色を隠せない慶志郎にマチ子は微笑む。 「その、何故ワタシに会う必要が?」 「轟くんから宜しくって頼まれていたから」 「轟が……?」 「名刺、貰ったでしょう?私、貴方が来て下さるのをずっと待っていたのだけれど結局、来られなかったわね」 マチ子に言われてハッと思い出した。 『どうしても辛かったら、ここに行け。信頼できる医者だ』 あの日、金剛の元を去る日。 確かに貰った名刺には、この病院の名前があった。 臨床心理士で金剛の知り合いである女医。 金剛は慶志郎の今後を心配して、それで。 「辛い目に合ったでしょう、鏡さん」 「っ、……!」 マチ子の言葉にドクンと心臓が激しく脈打ち、カップを持つ手がカタカタと震えて取り落としそうになった。 彼女は慶志郎が何をされたのか知っているのだ。 金剛から頼まれたと言うのだから、それは当然と言えば当然だ。 全身から冷や汗が吹き出て慶志郎の脳裏に輪姦された記憶が甦り、視界が霞んで上手く息が出来なくて、過呼吸を起こしかける。 「……さん、鏡さん!」 呼びかけられて息苦しさにボロボロと涙を零しながら慶志郎が顔を上げると、いつの間にかマチ子が側にいて慶志郎の手からそっとカップを取り上げる。 「大丈夫、大丈夫よ。ここには貴方に酷い事をする人はいないわ」 掠れた息を継ぐ慶志郎にマチ子がハンカチで涙を拭い、背中を擦ってくれた。 「鏡さん、今は私と貴方しかいないから何でも思った事を話して下さる?」 慶志郎の呼吸が落ち着くのを待って、マチ子が優しく尋ねた。 「ワ、タシは……」 促されて慶志郎はマチ子を見詰めたまま口を開いた。 初めて会ったのに、不思議と彼女には何でも話せる気がした。 そうさせる雰囲気がマチ子にはあった。 「女性じゃない、から……あれくらいの事で…」 「そう、貴方は男性だから」 「だから、あんな事、犬に噛まれたくらいだと、思って」 「そう、貴方はそう思って気を張っていたのね」 「……ワタシ、には、立場と責任があって、」 「ええ、轟くんの上司さんですものね」 鏡さん、とマチ子は言った。 「貴方は男性だけど、でも貴方という人を勝手に土足で踏みにじる権利なんて誰にもないの。人はみんな、個人を尊重されて当たり前なの。貴方は被害者なの、理不尽な暴力には怒っていいの、つらかったら泣いていいのよ。貴方にはその権利があるのよ」 貴方が傷付けられる理由はどこにもないの。 誰も貴方の尊厳を傷付けていいわけないの。 男性だから耐えなくちゃいけないなんてないの。 「鏡さん、貴方が受けた傷を『あれくらいの事』と貴方自身で思い込もうとしないで。貴方には何の落ち度もなかったの、貴方は何一つ悪くないの。だから自分を責めないで」 つらいのにずっと頑張っていたのね。 でも、もう頑張らなくていいのよ。 「……っ、…、ふ、……ッ」 マチ子の言葉に胸が引き絞られるように痛んだ。 あの出来事がこんなにも自分の心身を蝕んでいた事に、慶志郎自身はずっと気付かないフリをしてきた。 会社でも外でも、近くに男がいると身体が恐怖を覚えていて、強張って上手く動けないのを誤魔化し続けていた。 『鏡 慶志郎』は常に他者の上に立ち、どんな面に於いても優秀な人間であるのだと示さねばならない。 たったあれくらいの事で躓くなんて『鏡 慶志郎』自身が許さない。 人に弱味を見せる訳にはいかない。 一度でも倒れたら、心が折れてしまったら、掲げてきた矜持が粉々に砕けてもう『鏡 慶志郎』ではいられなくなる。 そう己に言い聞かせて、慶志郎は崩れそうになる自分を叱咤して立ち続けたのだ。 声を殺し、肩を震わせて顔を覆って泣く慶志郎の背を、マチ子が優しく撫でた。 「怖かった」 「ええ、怖かったでしょう」 「痛かった」 「ええ、痛かったわね」 「つらかった……!」 「そうね、つらかったわね」 「苦しくて、悔しくて」 「ええ、そう感じて当然だわ」 「眠る度に夢を見て、魘されて」 「つらい目に合ったんですもの。眠れなくて当然だわ」 マチ子の言葉に子供のように泣いて頷いた。 やっと今、慶志郎は弱音を吐き出す事が出来た。 本当は怖くて辛くて苦しくて、誰かに縋って泣きたかった。 そのプライド故に誰かに慰めて欲しいと言えず、己の弱さがただただ悔しかった。 自分が考えなしに飛び出したから、周りをよく見ずにアイツらに接触してしまったから、1人であんな場所をウロついていたから。 だから油断した自分が悪かったのだと、ずっと慶志郎は思っていた。 あんな目に合ったのは自分に落ち度があったからだと。 貴方は何にも悪くないのよ。 誰かにそう言って欲しかった。 マチ子に言われて慶志郎はようやく、自分が暴力の被害者なのだと正しく受け止める事が出来たのだ。 「……轟が、」 「轟くん?」 「助けてくれて、一緒にいてくれて」 「そうね、彼は優しい子だから」 「でも……」 「でも?」 「急に、何もなかったみたいに、何も」 話もしなくなって、と言う慶志郎の言葉にマチ子が眉を潜めたが俯いていた慶志郎には見えなかった。 「ワタシは……それに腹が立って」 「そうね、それはちょっと酷いわ」 「それで、ワタシは……」 何かを躊躇い言葉の続かない慶志郎にマチ子は鏡さん、と呼び掛けた。 「焦って、全て話そうとしてくれなくていいわ。今は貴方が精神的に落ち着く事が大切なの」 マチ子はゆるりと微笑みを浮かべ、慶志郎の手を取った。 「鏡さん、まだ貴方と色々とお話をしてみたいから良かったら明日もこちらに来て下さる?貴方も心の平穏を取り戻す必要があるわ」 「ああ、ええ……分かりました」 「ご飯はちゃんと食べてね?眠れないなら、眠りを助けるお薬も出せるわ」 マチ子の提案に慶志郎は逡巡した後、お願いしますと答えた。 「貴方に今、必要なのは食事と睡眠よ。貴方、とっても素敵なのにこのままじゃ、折角の色男が台無しになってしまうわ」 悪戯っぽく笑うマチ子につられて、慶志郎も弱々しくはあるが笑みを浮かべた。 今日はここまでにしましょうとマチ子が腰を上げたので、慶志郎も立ち上がる。 「ああ、そうだわ」 慶志郎を見送る際、マチ子はポツリと漏らした。 「鏡さん、灰色の世界ってご存知?」 「え……」 「ありがとう、よく分かったわ」 その一言に反応した慶志郎をマチ子は見逃さなかった。 「また明日、お会いしましょうね。鏡さん」 鏡 慶志郎を送り出したマチ子は、集中治療室で眠る金剛の側に居た。 「轟くん、鏡さんに会ったわ」 マチ子の声が届いたか分からないが、眠る金剛の睫毛が震える。 「彼、貴方と正反対の人ね」 だからなの?と金剛に問い掛ける。 「だから彼に惹かれたのかしら、轟くん?」 貴方と違って、彼は本当の意味で強い人なのかもね。 マチ子の問いかけに答えは返って来なかった。 【2】 いつか、貴方が救われますように。 そう願ったのは誰だったろう。 そもそも轟 金剛について皆、最初から重大な思い違いをしていたのだ。 それにマチ子が気付いたのは、数年振りに大人になった金剛が慶志郎の事で訪ねて来た時だ。 轟高校を去り、両親の経営する病院に勤務するようになってからも、彼女はずっと金剛の事が気掛かりだった。 彼は色々な意味でマチ子にとって特別な生徒の1人だった。 だからマチ子は僅かな望みに賭ける事にした。 元々、彼女は優秀な外科医ではあったがいつか金剛に再会する事があった時の為に、臨床心理の資格を取ってその機会を待ち続けた。 金剛とは学校の関係性が切れた時点で、マチ子には何の義務もなくなった訳なのだが、それでもあの孤独な少年を助けたかった。 あの子は、あんな歪んだままで終わっていい子ではないのだ。 丁度その時期、とある知り合いから久し振りに連絡が来て金剛が父親の経営する会社に入社したと教えて貰った。 そこで彼女は彼と定期的に連絡を取って彼の情報を流して貰う事にした。 『轟くんに久し振りに会ったけどマズいでしょう、アレは。フェロモン垂れ流し過ぎ』 電話の向こうで苦笑して彼は言った。 彼もまた十代の頃の金剛を知る1人だ。 『面倒事にならなければいいけどねえ』 それから然程、長い時間がかからない内に当の本人がマチ子を訪ねて来た。 「マチ子先生、お久し振りです」 「轟くん?」 高校生の時よりさらに一回り体格は大きくなっていて、スーツなのにトレードマークの学帽と下駄は相変わらずで、何だかあの頃に戻ったようで懐かしくてマチ子は思わず笑ってしまった。 重ねた年月の分だけ彼は大人になっていて、もう少年とは呼べなくなっていたけれど。 もちろん、金剛についてアレコレ知ってはいたが、そんな事は微塵も見せずに「元気だった?」と白々しく訊いてみる。 「マチ子先生……いきなり来て、悪いとは思うけど、」 助けて欲しい人がいる。 そう言った金剛の悲痛な顔にマチ子は驚いて真顔になった。 誰にも靡かず関心も持たずにいた金剛が、誰かを助けたいと言うのだ。 その目に何も映さず、誰とも心を通わせず無表情だった十代の頃の彼。 あれから4年以上の歳月を経て、大人の世界に身を投じた彼にどんな変化があったのかマチ子は知らない。 ただ分かるのは、後悔と罪悪感に押し潰されそうな金剛の心が戻りつつある事だ。 金剛の一番近くにいた青山 操でさえ彼の心を取り戻せなかったのに、それが出来た人物がいた事にも驚いた。 「その人は貴方のお友達?」 「違う、そんなんじゃねえ」 友達じゃねえけど、大事なヤツ。 けど、俺が酷く傷付けた。 俺の所為でアイツが壊れちまう。 「アイツの為なら何でもしてやりてぇ。マチ子先生にしか頼めねえ」 お願いします、そう言って金剛はその場で土下座した。 「ねえ待って轟くん、顔を上げてちょうだい。私に出来る事なら協力するわ。だから話を聞かせて貰える?」 金剛にここまでさせる人物にマチ子は俄然、興味が湧いた。 もしかしたら金剛が本当の『轟 金剛』に戻れるきっかけになるかも知れないのだ。 千載一遇のチャンスだと思った。 この機を逃したら、もう彼は救えないかも知れない。 逸る心を抑えて、マチ子は慎重に金剛から話を聞き出した。 その人は女性なの? 違う、男だ。俺の上司。 上司でお友達ではないのね? そうだ、でも一番大事なヤツ。 その人を傷付けてしまったの? ……取り返しがつかねぇ事した。 謝りたいの、その人に? 謝ったって許されねえ。 「轟くん」 マチ子は訊いてみた。 「貴方、その人が好きなの?」 「……ッ、…」 ぐしゃ、と金剛の顔が歪んだ。 それだけで答えは出ていてマチ子には十分だった。 「その人に伝えたの?」 「出来ない、言えない」 「どうして?」 「約束したから」 「約束?誰との?」 「……思い出せねえ」 でも約束したんだ。 言ったらいなくなっちまうから。 母さんみたいに、目の前から消えちまう。 「それは何時の約束なの?」 「分かんねえ……ずっとずっとガキの頃のような気がする」 「何を言ったら、いなくなるの?」 その質問に金剛が言い淀む。 「答えたくないならいいわ。それじゃ、その貴方の大事な人はカウンセリングが必要なのね?」 「ああ……今は俺んちにいるが寝てても魘されて泣くんだ」 「彼の身に何があったのか、教えてくれる?」 そこでようやく、金剛の上司だという鏡 慶志郎なる人物に起こった出来事をマチ子は聞き出した。 不特定多数の男に集団暴行を受けた事。 それ以前に金剛からも無理矢理、身体の関係を持たせていた事も。 マチ子は話を聞きはしたが、金剛のした事について敢えて言及はしなかった。 「率直に言って、完全に治すのは無理かも知れないわね」 「マチ子先生でも駄目なのか」 「心的外傷(トラウマ)はそう簡単に治るものではないし、受けた傷はずっと心に残るわ。何年も経ってから突然フラッシュバックに襲われる事もあるでしょうね。貴方の話によると、その鏡さんは随分とプライドの高い人なんでしょう。そういう人で、ましてや男性だから集団で暴行されたなんて決して人に相談しないわね」 「……俺は何をすりゃいい」 「今は貴方と一緒にいるんでしょう?出来るだけ寄り添ってあげて。その鏡さんを安心させてあげるのが大事よ」 「分かった」 「決して彼を追い詰めるような事はしないで。出来ればここに来てくれるのが一番いいのだけど、無理強いはダメよ」 「一応、そう言ってみる」 沈黙が降りた後、金剛はマチ子先生と口を開いた。 「なぁに?」 「……先生は、おかしいとか思わねぇのか」 「何がおかしいの?」 「…………男の俺が、男を大事にしたいって」 「あら、そんな事」 マチ子は朗らかに笑った。 「相手が誰であれ、貴方が本当に大切にしたい人が出来た事の方がよっぽど重要だわ!女性だとか男性だとか些細な事よ」 「………有り難う、先生」 ただ、貴方が鏡さんに働いた無体は許される事ではないけれど、と口には出さずにいた。 好きだから何をしていい訳ではない。 その件に関しては金剛は鏡に償わなければならない。 帰って行く大きな金剛の後ろ姿は、帰り道が分からず途方に暮れる迷子のように小さく見えた。 結局、件の鏡 慶志郎がマチ子の元に来る事はなかったのだが。 思いがけない金剛との邂逅を果たしたマチ子は、彼の言っていた『約束』について考えた。 その『約束』故に、言えない。 誰との約束?思い出せない。 否、思い出せないのではなく思い出さないようにしているのでは? 母さんみたいに、とも言っていた。 確か金剛の母親は彼が随分と幼い頃に亡くなったと聞いている。 言えない言葉。 交わした約束。 灰色の世界。 戻りつつある心。 「……もしかして私、いえ私達はとんでもない思い違いをしていたのかしら?」 轟 金剛は生まれつき、感情の一部が欠落している。 それ故に彼は誰とも共感が出来ず、他者に興味も持てずにいる。 それが彼自身と彼の周囲の認識だった。 肉親である彼の祖父も父親も、轟 金剛はそういう子だと思っていた。 もしそれが、生まれつきのものでなかったら? 『そうならざるを得ない状況』故に、彼がそう変わってしまったとしたら? 彼がその原因すら忘れていたら? そもそも、轟 金剛が『感情を失くしてしまった』根本的な原因とは何だったのだろう? 彼には酷だろうが、思い出して貰う必要があるとマチ子が考えていた矢先、会社で階段から落ちた金剛が運ばれて来たのだった。 金剛の頑丈さを知っているマチ子も流石に青褪めたが、落ちた経緯を聞けば上司と同僚を身体を張って助けたとの事で、彼らしいと言えば彼らしかった。 マチ子にとってラッキーだったのは、金剛の容態を心配して駆け付けた会社の人間の中に鏡 慶志郎がいた事だ。 「鏡 慶志郎さんって、貴方?」 マチ子の呼びかけに振り向いた鏡 慶志郎は名前からして日本人なのだろうが、長身に腰まで長く伸ばした金髪と端正な顔立ち、仕立ての良いスーツに包まれた身体は鍛えられているのが分かり、なるほど女性が放っておかないタイプだ。 きっと普段の彼は金剛の言っていたように、プライドの高い自信に満ち溢れた人物なのだろうが、その時のマチ子から見た鏡 慶志郎は随分と疲れた顔をしていた。 「はあ……ワタシが鏡ですが」 「ああ、やっぱりね。お会い出来て良かったわ、貴方とは一度、どうしても会わなくちゃと思っていたの」 本当に、彼にはもっと早く会いたかったとマチ子は痛感した。 こうしてようやく、マチ子は鏡 慶志郎と話す事が出来たのだった。 【3】 翌日の夕方、手土産を持った鏡 慶志郎がマチ子の元を訪れて来た。 処方した薬を飲んだのが良かったのか昨日よりは随分と顔色も良く、聞いてみると食事も睡眠も十分に取れたと答えた。 「約束通り、いらしてくれて嬉しいわ」 にこやかに出迎えたマチ子に、慶志郎は怪訝な顔をした。 「色んな患者さんがいるの。カウンセリングを約束していても、すっぽかされる事なんてよくあるのよ」 「ワタシは女性(レディ)との約束は何よりも優先しますので、破るなんてとんでもない」 携えたケーキの箱を慶志郎がマチ子に差し出す。 「あらコレ、駅前に新しく出来た行列が出来るお店の」 「ええ、美味しいと評判なので貴女に是非とも食べて頂きたくて」 彼は女性の扱いも十分に心得ていて、喜ばせる術も知っている。 心に溜め込んでいたものを吐き出し、落ち着きを取り戻した彼は昨日の弱々しい様子とはうって代わり表情も明るく、これが本来の鏡 慶志郎という男性なのだろう。 昨日はお見苦しい所を見せたお詫びにと言う彼から箱を受け取りながらマチ子は首を傾げた。 「まあ、何かお見苦しい所があったのかしら?」 「女性の前で男は無闇に涙は見せないものです」 「ふふ、私は貴方の泣き顔はとてもセクシーだと思ったわ」 「……っ、」 マチ子の言葉に慶志郎が息を詰める。 まだね、まだだわ。彼の傷はようやく塞がり始めたばかり。 いつ傷口が開くかも分からない。 そう簡単には癒えないものよ。 「せっかく頂いたのだから、お茶にしましょうね。どうぞ、お座りになって鏡さん」 「あ、ええ、」 どこかぎこちなく座る慶志郎に紅茶を出すとマチ子は貰ったケーキを皿に移して、それぞれの前に置いて腰を下ろした。 季節の果物をふんだんに使い、表面をナパージュでコーティングされたタルトは艶々と輝いて宝石のように綺麗だ。 早速フォークで切り取って一口食べる。 酸味のあるベリーと甘いカスタードが口の中で混ざり合い、旬の果物の豊潤な香りが鼻腔を擽り、じゅわっと果汁が溢れる。 「んー、美味しい!」 「お気に召したようで」 マチ子の食べる様子を見ていた慶志郎が安堵したように紅茶に口を付けた。 「鏡さん、女性の扱いには慣れてらっしゃるのね」 「ワタシにとって全ての女性は崇拝に値する女神(ミューズ)ですから」 「ふふ、轟くんとは正反対ね。彼、女性が嫌いだから」 「……轟は、でも」 「嫌いになってしまったのよ。でも周りが放っておいてくれなくて」 「そう言えば、轟の容態は」 「今朝方、目を覚まして検査をしたけど特に異常もなかったから、午前中に一般病棟の個室に移ったわ」 「そう、ですか」 「後で診察するから貴方もご一緒に如何かしら?」 如何かしら?と尋ねる割には有無を言わさぬ無言の迫力がある。 慶志郎は断れずに頷いた。 桜井マチ子(この女性)は今まで慶志郎が関わって来た、どのタイプにも当て嵌まらない。 言動の一つ一つが慶志郎の一枚も二枚も上手を行く。 慶志郎は何時だって女性をリードする側にいたし、女性をエスコートするのは男である自分の役目だとも思っている。 だが今は彼女に主導権を握られている気がしてならない。 「鏡さんの事を聞かせて下さる?」 「ワタシの事ですか?」 「ええ、私は貴方がどんな人か知りたいわ。子供の頃とか、学生の時の事とか、今の会社での貴方の事」 問われるままに慶志郎は己の事を語った。 小学校までは日本で過ごした事、中学から大学卒業まではアメリカに住んでいた事。 話を聞きながらマチ子は鏡 慶志郎について冷静に分析していた。 自信家で高いプライドを持ち、言葉の端々に他者を見下す傾向が彼には見受けられる。 聞けば子供の時分から勉強でもスポーツでも、大して労せずに何でもこなせたのだと言う。 一を知って十を得る言わば天才肌のタイプなのだ。 だからこそ優秀な自分と凡人とを区別してしまうのかも知れない。 もちろん、そこに他者からの反発もあったろうが恐らく、実力で捩じ伏せて来たに違いない。 彼にはそれだけの実力が備わっている。 徹底した女性主義者でフェミニスト。 ひねくれた性格はやや難があるものの、物事には正面から立ち向かうフェアな精神も持ち合わせており、常に前向きで失敗を恐れない。 何事にも於いて下手な小細工は美しくない、不利な状況こそ己を奮い起たせる。 そう言い切る彼はどこか轟 金剛と通じるものがあった。 素朴な金剛と派手な慶志郎は真逆に立つ者だが、共通するものもある。 金剛が慶志郎に惹かれたのは、そこなのかも知れない。 「鏡さんから見て会社での轟くんはどんな感じなのかしら?」 私、サラリーマンの轟くんの事は何も知らないの。 そう言うマチ子に慶志郎は眉を潜めた。 「……不器用な男ですよ。パソコンも碌に使えなくて、書類もよく破って」 「ああ、不器用。そうね、確かに彼は不器用だったわ」 「ワタシの事を上司とも思わない太太(ふてぶて)しい態度で、やたら勝負を吹っかけてきて」 「轟くん、昔から勝負ばっかりしていたけど、やっぱりそうなのね」 「だからワタシは奴が」 「嫌い?」 「…………」 嫌いか、と訊かれて慶志郎は押し黙った。 以前の自分なら即答で「嫌いだ」と口にしていただろう。 何故なら男なぞ慶志郎の眼中にないからだ。 自分が好きなのは、愛しく思うのは女性であって、男は対象に入らないからだ。 だが今の自分の気持ちが自分で分からなくなっていた。 「……分かりません」 「でも貴方には彼を嫌いになる理由が十分にあるのではなくて?」 「……ッ、桜井、先生……貴女は、」 「ええ、知っているわ。貴方と轟くんとの関係を」 タルトの最後の一口を綺麗にフォークで掬い取って口に入れると、マチ子はペロリと唇を舐めた。 赤い唇を舐め取る舌が妙に(なまめ)かしくて扇情的で官能的で、妖艶な雰囲気を纏う美女にドキリとさせられる。 彼女がその気になれば、その膝元に男の(こうべ)を垂れさせるのも容易かろう。 本能が抗えぬ絶対的な魅力が彼女にはあった。 「轟くんは良くも悪くも正直な人なの。ここに来た時に、貴方との事も話してくれたわ。貴方にとっては不本意でしょうけど。でも、」 私は彼を助けたいと思うけれど、彼の行動の全てを許容している訳ではないわ。 「彼が貴方に対して行った事は許されない事よ。轟くんは貴方に償わなくてはいけないわ」 冷ややかに告げるマチ子に慶志郎は何も言えなかった。 彼女は確かに轟 金剛の理解者であり、味方ではあるが公平な目も持ち合わせているのだ。 「でもそうね、轟くんは自分の大事な人を傷付けられると凄く怒るのよ」 「轟が?」 「私、彼が高校を卒業してもう4年以上も会っていなかったから、ここにいきなり訪ねて来てビックリしたわ。多分、お祖父様かお父様に私が病院に勤めていると聞いたのでしょうね。貴方の事をお願いしたいって頭を下げて」 そんな話、知らない。 「自分の所為で貴方がとても傷付いてしまって、もしかしたら立ち直れないかも知れないから助けて下さいって、轟くんは」 土下座して私に頼んで来たの。 驚いて声も出ない慶志郎をマチ子は見詰める。 「彼が大事にしたいと思える人に出会えて良かったと私は思っているわ。でも同時に、轟くんは自分自身にも凄く怒っているのね」 意味が分からずにいる慶志郎に彼女は幾らか冷めた紅茶を一口飲んだ。 「言ったでしょう、轟くんは自分の大事な人を傷付けられると凄く怒るの」 だから貴方を傷付けた轟 金剛を一番許せないのは、轟くん自身なのよ。 「自分の所為で貴方が壊れてしまう事を酷く恐れていたわ」 鏡さん、とマチ子は言った。 「私は彼を助けたいと心から思っているわ。でも貴方に彼を許して欲しいとは言わないし、簡単に許すべきでもないと思っているの。何故なら彼は貴方にそれだけの事をしてしまったから。彼の救済の為に貴方に苦痛を強いるのは間違っているの」 私は貴方の心の痛みを少しでも和らげてあげたいと思っているわ。 例え、それで轟 金剛が救えなくなっても。 「ふふ、矛盾しているわね。轟くんを助けたいけれど、助けられなくなってもいいだなんて」 「桜井先生、貴女はまるで聖母(マリア)のように慈悲深い女性だ」 「あら?光栄ね、そう言って頂けるなんて……でも、人を救うという事は本当に生半可な気持ちでは出来ないのね」 もう1人、と彼女は独りごちた。 「あの子も救えたらいいのだけど」 「あの子?」 「いいえ、こちらの話よ。そろそろ轟くんの様子を見に行きましょうか」 複雑な思いを抱いたまま、立ち上がるマチ子に続いて慶志郎も腰を上げた。 【4】 階段から落ちる姿を視界に捕らえ、全身の血の気が引いた。 今の慶志郎に雫を支えて踏ん張る力がないのは分かっていたから、無我夢中だった。 下駄の歯を段差に引っかけ、体を入れ換えるようにして渾身の力で2人を引っ張り上げる。 落ちる間際に視線をやると雫を抱きかかえた慶志郎が見えた。 良かった、『また』大切な人を今度は失わずに済んだ。 全身を叩き付けられながら金剛が思ったのは、その事だけだった。 ……轟くん。轟くん。 遠くで懐かしい声が聞こえる。 涙声で己を呼ぶ優しい声。 「金剛くん、金剛くん」 泣くな、泣くなよ。 お前に泣かれると、どうしていいか分からなくなっちまう。 「金剛くん、わたしね。ずっと貴方に謝りたかったの」 謝るのは俺の方だ。 ごめんな、約束を破っちまって。 小さな柔らかい手が無骨な自分の手を取る。 ぽとぽと、温かい涙が手に落ちてくる。 意識が一気に浮上し、その手を握り返して金剛は目を開いた。 「…………青山?」 「轟、くん……」 病室のベッドの傍らで金剛の手を取り、大粒の涙を溢していたのは数年振りに見る大切な幼馴染みだった。 外科の一般病棟は6階建てで、轟 金剛の個室は3階の角にある。 金剛とは顔馴染みという事もあり、桜井 マチ子が彼の担当を引き受けたのだそうだ。 否、彼女が自ら担当したいと申し出たのかも知れない。 マチ子の後ろを着いて行きながら慶志郎は何となくそう思った。 ドアをノックしてマチ子が部屋に入る。 鏡さんもどうぞ、と言われて後に続いた。 南向きの日当たりの良い個室はかなり広く、シャワールームとトイレに洗面台も完備されていた。 普通の個室よりはだいぶ値が張るのではないだろうか。 これも彼の父親である轟 剛天が霧島 エリカに手配させたのだろう。 窓際のベッドに横たわる金剛は2人が入って来ても目を覚まさず、深い眠りに就いていた。 マチ子は構わず金剛の脈を取り、額に手を充てて顔を覗き込む。 「よく眠っているみたいだから、起こすのは止めておきましょう」 せっかく来て下さったのにごめんなさいね。 そう言うマチ子に慶志郎は小さく首を横に振った。 金剛が起きていたら助けてくれた礼の一つでも言おうと思っていたが、実際に顔を合わせると何も言えなくなる気がして、却って彼が寝ていた事に安堵する自分がいる。 彼を起こさぬよう、マチ子と慶志郎はそっと部屋を出た。 「ワタシはこれで帰ります。明日も仕事なので」 「ええ、有り難うございます。鏡さん」 「はい?」 「しばらく……そうね、週に1度でもいいので定期的に私のカウンセリングを受けて頂けるかしら?」 「いや、ワタシはもう」 「いいえ、今はそう思っていても突然、思い出してしまう事もあるわ。貴方のような被害者を私は何人か診て来たのだけれど、その時は大丈夫と思っていても何年も経ってフラッシュバックに襲われてしまう人もいたわ」 薬に頼らなくても悪夢を見ないように、手助けしたいの。 『信頼出来る医者だ』 嗚呼、確かに彼女は信頼していいのかも知れない。 だが女性の前で弱気な自分を曝け出すのは慶志郎のプライドが許さない。 迷う慶志郎の様子にピンと来たのか、マチ子は言い方を変えて来た。 「鏡さん、あのケーキとても美味しかったわ。忙しくて疲れている時に甘い物は特別なご褒美ね、私にとって」 彼女の言わんとしている事を察し、慶志郎はマチ子の手を恭しく取ると軽く口付けた。 「では来週、疲れている貴女の為にご褒美を持って会いに来ます」 「ふふ、楽しみにしているわ。鏡さん、貴方は本当にステキな人よ。来週は貴方がアメリカに居た頃のお話を聞かせて下さる?」 「もちろん、女性(レディ)の望みを叶えるのは男の役目です」 「マチ子先生っ……!」 笑い合う2人に女性の声が聞こえて来て、そちらに目をやると息を切らしながら1人の女性が駆けて来る。 慶志郎は目を見開いた。 「まあ……青山さん?お久し振りね」 「マチ子先生っ、と、轟くんが怪我をしたって、轟のお祖父様に聞いて……わたし、わたし」 長い髪を結い上げた可愛らしい女性が、泣きそうな顔でマチ子に縋りつく。 「ええ、轟くんが会社でちょっとした事故に合って、ここに入院して来たの。でも大丈夫よ、怪我はしたけれど命に関わるようなものではないわ」 「轟くんに会えますか!?会いたいの、マチ子先生」 「今は眠っているけれど……そうね、起こさないようにそーっとなら会えるわよ」 「顔を見るだけでもいいの」 「轟くんの病室はそこよ。大きな声は出さないでね?」 「マチ子先生、有り難うございます」 一つお辞儀をすると青山という女性は金剛の病室に入って行った。 「………桜井先生、今の女性は」 「あら、ごめんなさい。ええ、彼女は青山 操さんといって、轟くんの幼馴染みよ。2人は生まれた時からの付き合いなんですって」 「そう、ですか」 「気になる?」 「いえ、そういうのではなくて」 慶志郎は青山 操に見覚えがあった。 あの暑い日、具合の悪かった慶志郎に声をかけて来た女性。 『大丈夫ですか?』 『気分が悪そうだったので心配になって』 パンダのハンカチをくれた女性(ひと)。 鏡 慶志郎は思わぬ所で青山 操と再会したのだった。 NEXT→
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