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第17話 真実
【1】
桜井総合病院、心療内科の診察室で二人の女性が向かい合って座っていた。
「ひどいわ、青山さんったら」
1人はこの部屋の主である、桜井 マチ子。
「貴女はいつから気付いていたのかしら?先生、すっかり騙されちゃったわ」
騙されたと言う割にマチ子は怒っている訳でもなかった。
マチ子の向かいに座るもう1人は轟 金剛の幼馴染みである青山 操だった。
「轟くんの約束の相手は貴女だったのね」
「ごめんなさい、マチ子先生」
穏やかに操は笑っていた。
「わたし、どうしても轟くんの側にいたかったから」
轟くんとなら、わたしはどんな世界でも良かったの。
轟くんとなら、わたしはどこにいようと良かったの。
「わたし、今でも轟くんが大好きだから」
彼となら、暗闇の中でも奈落の底でも地獄の果てでも、どこにだって行けるの。
そう言った彼女の瞳には優しい狂気が秘められていて、なのに深い愛に彩られた光を放っていた。
「いいえ、謝らなくてもいいのよ」
本当に救いが必要だったのは、誰だったのだろう?
「ごめんなさいね、青山さん」
謝るのは私の方よ、とマチ子は悲しく微笑んだ。
大好きな人が無惨に歪んでいく姿を傍らでずっと見続けた少女もまた、深い傷を負っていたのは間違いなかったのに。
彼女が歪んでいないと何故、言い切れるだろう?
轟 金剛を救おうとする人はいた。
けれど青山 操を救おうとする人は誰もいなかった。
誰にも知られず、誰にも気付かれずに、彼女は静かに静かにたった独りで壊れていったのだ。
「金剛くん、大好き」
その想いだけを抱えて。
青山操は独りぼっちで。
ただ1人を待ち続けて。
果てのない世界で1人。
ただ1人を想い続けて。
彼女が望むのは優しい世界。
貴方と二人で生きていく事。
【2】
轟 金剛が入院してから約2週間が経過した。
その間に営業部のメンバーが部長を始め入れ替わり立ち替わり見舞いに来た。
最初に全員で来たらあまりに煩くて看護士から怒られた為、交互で見舞いに来る事にしたらしい。
「助けてくれたのは本当に感謝しているんだけど」
その日、金剛の元を訪れたのは教育係でもある清澄 雫だった。
雫は怒っているような泣きそうな、複雑な顔で金剛に言った。
「もう、あんな無茶しないで。みんな、轟くんの事を凄く心配したんだからね?」
「……ああ、すまん」
「係長も大変だったんだから」
「け……鏡係長が?」
「そうよぉ、倒れた轟くんを見ていつもの係長からは考えられないくらい取り乱して、救急車が来るまで平くんが押さえていたのよ?」
驚く金剛に気付かず雫は話す。
「鏡係長って普段はちょっとひねくれているけど、何だかんだ言ってやっぱり部下の事を心配しているのよね」
雫の話によれば慶志郎は何度か見舞いに来ているはずなのだが、金剛は目覚めてから彼に一度も会っていない。
担当医になったマチ子に訊くと、自分が寝ている間に少し顔を見てから帰っているらしかった。
「鏡さんは今、私の患者なのよ。カウンセリングを受けて貰っているわ」
「有り難う……マチ子先生」
「青山さんとは会ったんでしょう?」
「……ッ、ああ……」
マチ子の口から出た名に、金剛は動揺しつつ頷いた。
金剛が目覚めた時に傍らで膝をついて金剛の手を握り締めていたのは、マチ子でもなく慶志郎でもなく会社の人間でもなく、長らく会っていなかった幼なじみだった。
「……青、山?」
「良かった、轟くん」
あの頃と何ら変わる事のない幼なじみ。
変わったのは重ねた年月で、それは彼女を大人の女性にしていた。無事で良かった、と彼女は呟いた。
「轟のお祖父様に轟くんが怪我をしたって聞いて、それで、わたし」
「そうか……心配かけちまったな」
「ううん、いいの。わたしが来たかっただけだから」
大きな瞳からポロポロ涙を零して操は泣き笑いの顔で言った。
「轟くん、高校の時よりも見違えちゃったね」
「お前も、大人っぽくなった」
「ふふ、あれからもう四年以上だもんね」
「青山……俺はお前に謝んなきゃなんねぇ事がある」
「……いいよ、轟くん。今はいいの。怪我を治さなきゃだよ」
金剛の手を離して操は涙を拭うと立ち上がった。
「また、来るね。轟くん」
「青山!」
「またね、金剛くん」
金剛くん。
あの日以来、彼女から久しく呼ばれなかった名前。
……みさお、俺、約束を。
「轟くん!」
雫の声にハッと意識を戻すと、呆けていた金剛を雫が心配そうに覗き込んでいた。
「大丈夫?ごめんね、私ちょっと長居しちゃったわ。明日も仕事だし、今日はこれで帰るわね」
「すまん、清澄センパイ」
「気にしないで、轟くんはしっかり怪我を治してね!」
じゃあまたねっ、と明るく笑って雫は帰って行った。
何事にも一生懸命で前向きで明るい女性の先輩には、いつも助けられていた。彼女だけじゃない、双子の先輩社員や同期の平も、いつも自分を気遣っていてくれた。
そして、もう一人。
「……慶志郎」
病室の窓から差し込む夕焼けを見ながら、その名を呟いた。
「あの、轟くんの会社の方ですか?」
「はい?」
清澄 雫が金剛の病室を出ると、1人の女性と出くわした。
少し茶色がかったセミロングの髪をトップで結い上げた、可愛らしい女性。
「ええ、そうよ。あの、貴女は?」
「あ、ごめんなさい。わたし、轟くんの幼馴染みで青山 操と言います」
「轟くんの?そうなんだぁ、あ、私は清澄 雫です。会社では轟くんの1年先輩で、彼の教育係をしているの」
互いに名乗り合ったところで、雫はしょんぼりと目を伏せた。
「ごめんなさい、轟くんの怪我は私のせいでもあるの」
「え?」
「階段から落ちそうになった私と、私の上司を助けて代わりに轟くんが落ちたの」
本当にごめんなさい、と頭を下げる雫を冷ややかな眼差しが見下ろしていたがもちろん、彼女が気付くハズもない。
雫が顔を上げると、操は優しい笑みを浮かべていた。
「ううん、身体を張るのは轟くんらしいわ。昔から轟くんはそういう人だから」
「そう、そうなのよね。私が言えた義理じゃないけれど、でも無理はしないで欲しいわ」
「あの、清澄さんは轟くんの事を」
「もちろんよ!」
操が言い終わらない内に雫は力強く頷いた。
「轟くんは一緒に働く大事な仲間だもの。早く良くなって帰って来て欲しいわ!」
「……あ、ええ、そうですね」
良くも悪くも清澄 雫は天然なところがあった。
そして雫の中で金剛は完全に年下の手のかかる後輩と位置付けられていたので、操の予想していた答えから斜め上くらいの方向にズレた返答をした。
「……清澄さん。会社では轟くんの事、宜しくお願いします」
「ええ、任せて!帰って来たらバリバリ鍛えちゃうんだから!」
操に屈託なく笑うと雫はそれじゃ、と立ち去って行った。
「あの人は違うのね……」
立ち去る雫を見送りなが、操はぽつりと言った。
あの人は今までに轟くんに近付いて来ていた女の人達とは違うんだわ。
「……わたし、知ってるもの」
青山 操の目は虚無に染まっていた。
何も映さず、ただ深い虚無を覗く目。
『轟くんが昔から何をしてきたか、わたしは全部、最初から【知っていた】んだもの』
マチ子先生、ごめんなさい。
わたし、ずうっと嘘をついていたの。
マチ子先生が気付いてくれた時から、話してない事があったの。
知ってたの、本当は全部。
知ってて、知らないフリをしていたの。
わたしが知ってるって轟くんが気付いたら、彼は本当に壊れてしまうから。
だから何も知らないフリをしていたの。
そして無理矢理、忘れていたの。
「わたしもね、」
金剛くんと一緒に、灰色の世界にいたんだよ。
最初から、ずうっと。
【3】
「轟くん、酷な事を言うけれど貴方は閉ざした記憶をキチンと思い出す必要があるわ」
病室に訪れたマチ子が何時になく、真摯な眼差しを金剛に向けて言った。
「貴方はもう、過去の自分から逃げてはいけないのよ」
「…………そう、だな」
ベッドで起き上がっていた金剛は俯いて答えた。
金剛の記憶の扉はもう半分は壊れかけていて、少し手を伸ばせば押し込めていた記憶は溢れ出してくるだろう。
例え、それがつらく悲しい出来事だったとしても、もう逃げ続ける事は許されない。
「年齢退行催眠って知っているかしら」
「年齢……退行?」
「そう、貴方を深い催眠状態に導いて、小さな頃まで記憶を逆行させるの。多分、大体四歳か五歳辺りまで……貴方のお母さんが亡くなったのは幾つの時?」
マチ子の問いに金剛はビク、と肩を震わせた。
--ごめんね、愛しているわ。
そう言ったのは、この世で最も自分を慈しんで無償の愛を注いでくれた存在。
「忘れてしまったかしら?確か貴方が三つくらいの時だと、轟理事長から聞いているわ」
「……っ、分かん、ねえ……」
ズキズキと頭に痛みが走り、金剛は全身から冷や汗を流した。
--大好きよ、私の可愛い子。
--緒にいてあげられなくて、ごめんね。
--……ちゃんが、あなたの側にいるから。
優しい声が頭に響く。
いつまでも側にいて見守ってくれるはずだった人。
「………………おかあ、さん、」
轟 金剛。
飛びそうになる意識をマチ子が強引に引き戻した。
「駄目よ、逃げる事は許さないわ」
真っ直ぐに金剛の目を見据えてマチ子は言った。
本当なら、これは金剛の精神が安定している時に行うべきものだ。
今の彼に退行催眠を掛けるのは、彼の人格をも破壊しかねない危険な行為だ。それでも、とマチ子は全ての責任を負う覚悟を決めていた。
例え医師でなくなってしまっても。
マチ子は軽い睡眠導入剤を金剛に飲ませ、彼が眠りに就くタイミングを見ながら語り掛ける。
失敗して、金剛が取り返しのつかない状態になればマチ子は医師の資格を失うどころか、人生も捨てる事になるかも知れない。
それでもマチ子は関わった以上、己の全てを賭ける事にしたのだ。絶対に中途半端には出来ないのだ。
「轟くん、私も覚悟をしているのよ」
「マチ、子、先生……」
「私を見て、私だけの声を聞いて」
轟くん、聞こえる?
嗚呼……先生の声、が。
ゆっくりと時間を戻って行きましょう。
23歳の貴方から、20歳、18歳……先生の質問に答えてね。
すうすうと寝息を立てる金剛にマチ子は問いかけた。
「とどろきこんごうくん、あなたはいくつ?」
「……さん、さい……」
おかあさん、いなくなっちゃった。
眠る金剛の目から、ポロポロと涙が溢れた。
轟 剛天の妻は、あまり身体が丈夫ではなかった。
だから金剛を腹に宿した時、医者から体力的にも産むのは難しいかも知れないと告げられた剛天が妻の命を優先したのは、心情的にも当然と言えば当然だった。
何故なら剛天の妻はたった1人しかいなかったのだから。
だが世の母親のほとんどがそうであるように、彼女は否と答えた。
「頼む、お前を失いたくない」
「ごめんなさい、旦那さま」
柔らかく微笑んで妻は愛しげに腹を撫でた。
「無理よ、諦めるなんて。だって私もう、お母さんなんですもの」
まだ生まれてないけど、この子を愛しているの。
「約束するわ、旦那さまとこの子を遺して絶対に死なないって」
見縊らないで、私は轟 剛天の妻よ?
美しい妻は儚げで、でも強かな母親の顔になっていた。
愛する妻の願いを無下にするなど、どうして出来よう。
結局は惚れた弱みで剛天が折れた。
祖父になろう轟 鋼鉄も時にオロオロしながら、剛天と一緒に彼女とまだ見ぬ孫の成長を見守っていた。
周囲の心配を他所に腹の子はすくすくと順調に育ち、育ち過ぎてこれ以上は母体も危険と判断されて帝王切開により、産み月より少し早く剛天の妻は男の子を出産した。
「会いたかったわ、金剛」
約束通り、彼女は死ななかった。
金剛という名は剛天と2人で決めた名前だった。
剛天から一字もらい、そして金剛石のように硬く、意思の強い人になって欲しかったから。
「旦那さまに、そっくり」
母親から無限の、無償の愛を注がれて金剛は真っ直ぐに優しい子に育っていった。
だが轟 金剛が幸せだったのは3歳の終わりまでだった。
「ごめんね、貴方を置いて逝ってしまうわたしを許してね」
まだ死の意味の何たるかを知らない幼い我が子を抱き締めて、母親は泣いた。身体の弱かった母親は、我が子の成長を最後まで見守る命が残されていなかったのだ。
だからこそ、残された命を使って我が子にありったけの愛を注いだのだ。この先、自分がいなくても優しく強く生きて欲しかったから。
おかあさん、だーいすき!
お母さんも貴方がだーいすきよ。
好きがいっぱい集まると、大好きって言うのよ。
大好きがいっぱい集まると、愛してるって言うのよ。
じゃあぼく、おかあさんあいしてる!
お母さんも貴方を愛してるわ。
愛する貴方を置いて逝ってしまう私を許してね。
愛してる、愛してるわ。
貴方も旦那さまも、お祖父さまも。
私のかけがえのない人みんな。
大好きよ、愛してるわ。
「おかあさん、どこ?」
降りしきる雨の中、運び出される棺を見て金剛は手を繋ぐ父親を見上げた。
「……もう、いない」
一言、呟いた父親は静かに一筋の涙を流した。
ぼくがあいしてるってゆったから、おかあさんはいなくなっちゃったの?
おとうさん、ないてる。
おじいちゃんも、ないてる。
ぼくがおかあさんをあいしたから?
ごめんなさい、ごめんなさい。
ぼくのせいで。
おかあさんがいなくなっちゃった。
もう、ぼくはだれにもあいしてるっていわないから。
おかあさん、かえってきて。
剛天も鋼鉄も、あまりに深い悲しみに囚われて幼い金剛の心が引き裂かれた事に気付かなかった。
大人と子供では心のキャパシティが遥かに違う事を、父親と祖父には想像が出来なかったのだ。
ぼく、もうだれもあいさないよ。
大事な人を失くすくらいなら。
この先も俺は誰も愛さないでいい。
愛されなくていい。
愛なんて、知らなくていい。
この日、轟 金剛の記憶は全て甦った。
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