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第18話 君を忘れない
【1】
金ちゃん、ないてるの?
「おかあさん、いなくなっちゃった」
「金ちゃんのママ?」
「もうかえってこないんだ」
いなくなっちゃうまえ、おかあさんがごめんねっていったんだ。
おいていっちゃって、ごめんねって。
あいしてるのにゆるしてね、って。
ぼく、おこってないから、おかあさんにかえってきてほしいの。
そう言って大好きな幼なじみの男の子が庭の隅で泣いていた。
男の子が泣いてるのが悲しくなって少女も一緒に泣いた。
男の子のママは自分も大好きな人だったから。
金ちゃんママ、ほんとにいなくなっちゃったんだ。
男の子と一緒に泣きながら、幼い少女は彼のママとの約束を思い出した。
「みさおちゃん、金剛となかよくしてあげてね」
金ちゃんのお家に遊びに行くと、彼のママはいつも美味しいおやつを出してくれて少女の髪を可愛く結ってくれて、本当の娘のように慈しんでくれた。
青山家は轟家とは2軒離れたご近所さんで、操の両親が共働きだった為、彼女は小さな頃から轟家によく預けられていた。
金剛とは生まれた時からの付き合いのようなもので二人は兄妹のように育った。
それはいつだったろう。
ある日、轟家に行くと金ちゃんのママはすごく悲しい顔をして泣いていた。
「金ちゃんママ、どうしてないてるの?」
「もうすぐ、金剛の側にいてあげられなくなるの」
「どうして?ママがいなくなったら金ちゃん、ないちゃうよ?」
「そうね、私も悲しいの。でも時間がないの」
みさおちゃん、と金ちゃんのママは優しく抱き締めてくれたの。
「私がいなくなったら、代わりにみさおちゃんが金剛の側にいてくれる?」
「うん!わたし、ずうっと金ちゃんといっしょにいるよ!」
「ありがとう、みさおちゃん」
みさおちゃん、金剛の事はすき?
「わたし金ちゃんが、だーいすき!」
「そう、良かった。ずっと一緒にいてあげてね」
金剛の母親に他意はなかった。
この小さな女の子がいつまでも息子と仲良くしてくれるなら、自分がいなくなってもこの優しい女の子が息子と共にいてくれるなら、きっといつか息子も悲しみを乗り越えてくれるだろうと信じていただけだ。
大好きな人達に囲まれていれば、私がいなくなってもきっと大丈夫なはずだから。
「やくそくするよ、金ちゃんママ!」
みさおがずーっとずーっと、金ちゃんのそばにいるよ!
まさか少女と交わした約束そのものが呪縛のような役割を果たし、幼い二人が愛する人を失う悲しみと恐怖を忘れ去る為に、互いの心に鍵を掛けてしまうとは夢にも思わなかったろう。
知っていたなら、金剛の母親もそんな約束はしなかったであろう。
時に子供は大人の想像を遥かに凌駕する事を、容易くやってのけてしまう事もあるのだ。
その思いの大きさ故に、その思いの強さ故に。
「あいしてるってゆったから、おかあさんはいなくなっちゃった」
「なかないで、金ちゃん」
「ぼく、おとうさんも、おじいちゃんもだいすき。みーちゃんも、だいすき。でもだいすきっていったら、いなくなっちゃう?」
「みさお、金ちゃんといっしょにいるよ!」
だいすきなおとうさんも、おじいちゃんもみーちゃんもいなくなったらどうしようと、しくしく泣く男の子を抱き締めて少女はいい事を思い付いた。
いつだって操に優しくしてくれる大好きな男の子が、もう泣かなくていいように。
「じゃあ、だいすきもあいしてるもいわないでおこうよ!」
「いわなくなったら、みーちゃんはいなくならないの?おとうさんも、おじいちゃんも?」
「いなくならないよ! だからみさおもね、」
金ちゃんがだいすきだけど、だいすきってぜったいにいわないから。
「やくそくね、あいしてるもだいすきもいわないの」
そしたら、ずーっといっしょだね!
絶対的な庇護と愛情を注いでくれる存在がある日突然、目の前から失われてしまったら。
愛する者を喪う悲しみは、大人だって受け止めるのは容易ではない。
ましてや小さな子供にとって、無償の愛を注いでくれる母親が永遠に失われるのは、世界が終わるに等しい衝撃だ。
まだ死というものを完全に理解が出来ない幼子に、悲しみを受け止めるだけの力など当然あるはずもなかった。
悲しくて悲しくて心がバラバラになりそうなほどにつらくて、耐え切れなくて大好きだったお母さんのいない世界を見たくなくて、ならば悲しい事は全て忘れてしまえばいいと、小さな男の子は自分の心を守る為に現実をなかった事にした。
轟の男に受け継がれる『意思の強さ』がここで仇になった。
その強い意思で轟 金剛は青山 操を道連れにして、灰色の世界を作り上げた。
独りを選んだつもりで、無意識に操に側にいてもらう事を求めた結果だった。
『 』なんて言わない(愛してるなんて言わない)
『 』なんて思わない(愛してるなんて思わない)
『 』なんて考えない(愛してるなんて考えない)
心に約束という鍵をかけて互いを失わないように。
結果、轟 金剛はその日を境に感情の一部を捨てた。
結果、青山 操はその日を境に何も言えなくなった。
轟 金剛は生まれつき、感情の一部が欠落していたのではない。
彼が自ら愛という感情を必要ないと捨て去ったのだ。
誰かを愛する事で悲しい思いをするくらいなら、愛なんて要らない。
でも『大好きな女の子』は『大切な女の子』だから、彼女だけは失わないように、彼女の『大好き』は聞かない。
言わせたらきっと、彼女もいなくなってしまうから。
灰色の世界の中で彼女だけがキラキラと輝いて、道標のように手を引いてくれたから。
先に気付いたのは、青山 操だった。
皮肉にも、金剛が見知らぬ女性といかがわしい場所へ入って行く所を目撃した事で彼女は幼い頃に交わした約束を思い出したのだ。
その出来事は操を激しく打ちのめした。
ひどい、ひどい、ひどい!
金剛くん、ひどいよ!
その人が好きなの!?
わたしだって、わたしだって。
貴方が好きなのに!
『約束』ゆえに、青山 操は金剛に好きも愛も告げられない。
事実が受け入れられなくて、青山 操は何も見なかったと強く思い込んだ。思い込んで、実際に彼女は忘れてしまった。
心が受け入れる事を拒否した。
それから何度も操は金剛を目撃したが、その都度に全て忘れた。
表面上、忘れはしたが心の奥底はその事実を少しずつ積み重ね、壊れた金剛の心を拾い集める代わりに操はひとつひとつ自分の心を捨てていった。
ゆっくり、ゆっくり、彼女もまた静かに壊れていったのだ。
金剛が記憶を取り戻した翌日、桜井 マチ子と青山 操はマチ子の診察室で向かい合っていた。
念の為、金剛は一日だけ面会謝絶にしている。
「気付いてあげられなくてごめんなさい、青山さん」
「マチ子先生、どうして謝るの?」
優しい笑みで青山 操はマチ子を見詰めた。
その瞳はああ、初めて轟 金剛と出会った時に見た彼の目と同じ虚無を宿していて。桜井 マチ子は己の無力が悔しくて、唇を噛み締めた。
「貴女も助けを求めていたのに、私は轟くんの事だけで」
「ううん、マチ子先生には感謝しているの、わたし」
だってマチ子先生だけが、わたしと金剛くんの味方だったから。
マチ子先生だけが、金剛くんを助けようとしてくれたから。
「青山さん、もう約束はいいのよ」
「でも、わたし金剛くんと、」
「轟くんはね、全て思い出したの。お母さんが亡くなった時の事も、貴女と交わした約束の事も。灰色の世界を作り上げたのが自分だって事も、貴女を一緒に閉じ込めてしまった事も。そして彼は大切な人が出来たの」
貴女とは違う意味での大切な人。
「……そうなんだ」
約束したのに。
ああ、そうだ。
目覚めた彼は何か言おうとしていた。
わたしはそれを聞きたくなくて。
彼の言葉から逃げたの。
きっとわたし、轟くんの言いたい事が分かっていたんだわ。
「青山さん、貴女が言えば轟くんはまた約束を守るでしょう。今度こそ、自分自身を完全に壊してでも何もかもを捨て去ってでも。轟くんにとって貴女は絶対の存在だから」
たとえ空っぽになってもただ一つの約束だけを留めて。
果たしてそれは、轟 金剛と言える人間だろうか?
びく、と操は肩を震わせた。
「青山さん。貴女も轟くんも、幸せにならなくちゃ」
「……わたし、幸せに、なれないよ……」
「轟くんは、ずっと貴女を忘れていなかったわ。いつだって、貴女の幸せを願っていたのよ」
2人きりの世界で手を繋いでくれた貴女の幸せを。
「分かるでしょう? 轟くんは優しい人だから。青山さん、貴女も自分自身を取り戻さなくちゃ」
青山 操はフラリと立ち上がると部屋を出て行った。
【2】
記憶の全てを取り戻した轟 金剛は目覚めてひとこと、操と呟いた。
「俺のせいだ」
病室で一人、ベッドに腰掛けて顔を覆い金剛は泣いていた。
「俺が、操を壊した」
自分の弱さゆえに彼女を自分の世界に閉じ込めてしまった。
それでも彼女はずっと自分の側にいてくれたのに、彼女の心を踏み躙って粉々にしてしまった。
どんな思いで彼女は自分の側にいてくれたのか。
ただ一つの約束だけを守って。
「みさお、ごめん、ごめん、ごめん……!」
取り返しのつかない事を沢山して。
約束を破って操の想いを無視して。
そうして自分は他の誰かを愛して。
どれだけ自分は人を傷付ければ済むのか。
許してくれだなんて、それこそ言えない。
「……轟、どうしたのキミ」
不意に病室の扉が開いて金剛は顔を上げた。
入って来たのは鏡 慶志郎だった。
「……か、がみ、」
「面会謝絶ってあったけど、まあいいよね」
誰にも邪魔されないだろうし。
ちっとも良くないが、幸いにもここに慶志郎を咎める人間はいない。
「どうして泣いてるんだい、サムライボーイ」
茶化すように言う男を呆然と見上げる。
「らしくないね、いつもの生意気なキミはどこに行ったんだい?」
ベッドの傍らに置いてある椅子に腰を下ろして慶志郎が覗き込んで来た。
「ワタシとキミ、お互いに情けないところも、みっともないところも見せ合っているんだからカッコつけたってまぁ、今更だよね。話すだけ話してみたら?」
ワタシは聞く事しか出来ないけどね。
「…………前に、」
「うん?」
「アンタと出張した時、俺の過去を少し話したろう」
「あぁ……そんな事あったね」
「全部、思い出したんだ」
ガキの頃から俺の目に映る世界は灰色で、他人の区別がつかなくて親父とじいさんと、操だけがいれば良かった。
「操?」
「小さい頃からずっと一緒にいた幼なじみで……四つになる前に俺のおふくろが、死んだ時」
そこでぐっと金剛は言葉を詰まらせた。
「……死んだ時も、一緒に泣いてくれて、それで……それで俺は」
ぎゅう、と己の胸を掴み金剛は振り絞るように声を出した。
「俺は本当に小せェガキで、何で大好きだったおふくろが何でいきなりいなくなっちまったのか、死んだって事がよく分かってなくて、また大好きな人がいなくなったらどうしようって、恐ろしくなって」
操が約束しようって言って。
泣いてた自分を励ますように、もう泣かないでって。
「言わないって、約束した。愛なんて、要らねぇって。失くすくらいなら、誰も好きになんかならねぇって」
「轟、それは」
「分かってる、今なら分かる。けどその時の俺にとっちゃ、約束する事で、もう誰も俺を置いて行ったりしねえって安心出来たんだ。俺にとって約束は絶対なんだ。だけど俺の所為で、普通に生きてく筈だった操まで俺が壊しちまった」
灰色の世界で操は俺の側で、生きてきたほとんどを俺の為に使っちまった。
俺が落としていく物を拾いながら、俺の手を引いて、代わりに自分の大切な物を捨てて。
どんなに謝っても過ぎた時間は取り戻せねえ。
「俺ァ、本当は強くなんかねぇ。大切なヤツがいなくなる事に耐えらんねえ程に弱いんだ」
耐えられなくて、現実から逃げ出してしまう程に。
再び顔を覆って泣く金剛に、慶志郎はかける言葉が見つからなかった。
慶志郎の両親は今でも健在で彼自身、身内を失くす経験が未だない為、最も近しい人が失われる悲しみを知らない。
在り来たりな慰めの言葉くらいなら幾らでも言える。
けれどそれは余計に金剛を傷付けるだけだ。
自ら生きる世界を否定する程の悲しみなんて、想像もつかない。
「……俺は、アンタを失くしたくなかった。操とは違う意味で、俺はアンタを大事にしたかった」
けど約束だから、その言葉は言えない。
結局、アンタの事も傷付けて、俺は誰一人まともに愛せない。
当然だ、愛なんてものを捨てちまったんだから。
慶志郎の目に轟 金剛が小さな男の子に見えた。
真っ暗な道を手探りで歩き、途方に暮れて泣く男の子。
助けてって言えなかった男の子。
「……轟、」
慶志郎がその背に手を伸ばし掛けた時、静かに扉が開いて金剛が弾かれたように顔を上げた。
彼の幼なじみの女性が何かを決意した表情でそこにいて、その気迫に圧された慶志郎は思わず椅子から立ち上がり後ろに退いた。
「…………操、」
「轟くん」
青山 操は金剛の前に来ると、膝をついて涙で濡れる顔を両手で挟んだ。
「もういいんだよ」
「操」
「約束はこれで、おしまい。わたしも貴方も、もう約束はおしまいにしようね」
「みさお、でも、」
「いいんだよ、轟くん。もう誰も貴方を置いてったりしないの、貴方の大事な人もみんな貴方の側にいるよ! 轟くんが好きな人も、轟くんを好きな人も消えたりなんかしないよ!」
金剛の頭を抱き締めて操はボロボロと泣いた。
「ごめんね、ごめんね、わたしが約束しようなんて言ったから!轟くん、ちゃんと誰かを好きになっても大丈夫なんだよ、もう独りじゃないんだよ」
「違う、俺が、俺がお前を」
「金剛くん」
もう一度、金剛を真っ直ぐ見詰めて操は泣きながら笑った。
「金ちゃん、だーいすき」
あの日、小さな女の子がくれた言葉。
金剛は一瞬だけ慶志郎を見上げ、それから小さくて柔らかな細い身体を抱き締めた。
「今まで約束を守ってくれて、嬉しかった。わたしの事、忘れずにいてくれて嬉しかったの。ありがとう、金剛くん」
「みさお……ごめん、ごめんなッ……!」
二人の慟哭が響く。
「お帰りなさい、金剛くん」
やっと帰って来てくれたね、金剛くん。
2人を囲む灰色の世界は崩れ去り鮮やかな色彩を取り戻す。
抱き合って泣く2人をそのままに、慶志郎はそっと病室を出た。
「鏡さん」
病室を出た途端に声をかけられ慶志郎は振り返った。
「ああ、桜井先生」
「轟くんと青山さんは暫く、そっとしておきましょう。私の診察室へいらして」
マチ子の診察室で向かい合って座り、コーヒーを貰うと慶志郎は「あの二人は」と訊いてみた。
「二人はね、もう恋だとか愛だとか、そんな感情をとっくに飛び越えてしまっていたんでしょうね」
だって魂で結び付いてしまったんですもの。
「轟くんにとって青山さんは、今もこの先も大切な人に変わりないの。でも、じゃあ恋人になるの? って話にはならないの」
「それじゃ、彼女は報われないのでは」
「そうかしら。あそこまで結び付いてしまったら、もう恋なんてものに意味はないわ。それに、轟くんにはもう別の誰かが心にいるから」
そう言ってマチ子は慶志郎を見た。
何もかも見透かすような視線に動揺して慶志郎は目を逸らす。
「ワタシは」
「私は轟くんが誰かを愛せる心が戻ったなら、それでいいと思ってるわ。捨ててしまった感情をもう一度取り戻して、本当の『轟 金剛』くんに戻ってくれたなら十分なの」
「彼女はどうなりますか」
「彼女はこれからちょっとだけ長く、私と一緒に治療する事になるわね。鏡さん、彼女とは関係ないでしょうに心配して下さっているの?」
「いえ、ワタシは少しだけ彼女と接点があります」
慶志郎は少し前に操に出会った事を話した。
「そうだったの。あの子も優しいから、困っている人とか見過ごせないのよね」
「少なくともあの時のワタシにとって、彼女は救いの女神でしたよ」
「鏡さんにかかると、女の子はみんな女神なのね」
「もちろん、レディはみな等しくワタシの女神です」
「お上手ねえ」
「叶うなら貴女と一度ディナーを御一緒したいんですけどね」
「お気持ちだけ頂くわ」
サラリと流されても慶志郎はやっぱりな、という感想しかなかった。
この手の女性はきっと、自分の手に余る。
まあ、凄く好みだから惜しいと言えば惜しい。
「鏡さん」
「はい?」
「私、思ったの。結局、貴方が一番強い人なんだわ」
「いや、ワタシは」
「どんな事があっても、どんな目に合っても貴方は自分を見失わない人よ。誰よりも『鏡 慶志郎』を信じているのは貴方自身なんですもの」
轟くんにも見習って欲しいわね、とマチ子はボヤいた。
「そうですか?ヤツも強いのでは」
「腕っぷしだけ強くても意味がないでしょう。轟くんの欠点は優し過ぎるところね」
その優しさゆえに、繊細な心は悲しみに耐え切れない。
「鏡さんのカウンセリングは今回で終わりにしましょう」
「え、」
唐突にマチ子に言われて面食らう。
「もちろん、また辛くなったらいつでもいらして」
「あの、ワタシは」
「鏡さん、お願いがあるのだけれど。轟くんの事で」
「桜井先生」
ピンと来て慶志郎は遮った。
「レディの望みは何でも叶えてあげたいのはワタシの本心です。でも、それは出来ない」
「あら?ダメかしら、やっぱり」
「ワタシは女性が好きです」
「ええ、存じ上げていてよ」
「正直、轟をどう思っているかと訊かれてもワタシは好きではない」
「でも嫌いではないのでしょう?」
「……ええ、確かに。いけすかないヤツですが、嫌いではない。けれど、だから好きというワケでもない」
「それは以前からそう思っていたのかしら?」
「以前は、全く轟に興味も関心もありませんでした」
「好きでもないけれど、嫌いでもないと変わったのはいつ?」
「……それ、は」
「鏡さん、貴方に轟くんを好きになって欲しいと言いたいわけではないの。ただ、彼を見てあげて欲しいの。それに轟くんは貴方に対するケジメをまだ付けていないわ」
「ケジメ」
「ええ、そう。彼は貴方の尊厳を踏み躙ったわ。それについてまだ何も決着を付けていないの。私はそれを許したつもりは無くてよ」
轟くんを許すか許さないかは、貴方が決める事であって私に口を出す権利はないわ。
「ずいぶんと厳しいんですね、桜井先生」
「先生だからよ」
コーヒーを飲んでマチ子は優雅に笑う。
「私はやっぱり、今でもあの子達の『先生』でいたいから。生徒には公平に接するわ」
「ワタシが貴女の生徒でなかった事が残念です」
「あら?貴方が生徒だったら毎日、花束を持って誘いに来そうね」
「何なら明日からでも毎日、花束を持って来ますよ」
「遠慮しておくわ」
バッサリ切り捨てられて慶志郎は苦笑いした後、ワタシはと続けた。
「ワタシは今まで、色々な女性と恋愛を楽しんできました」
「そうでしょうね、貴方のような人は女性が放っておかないわ」
「恋をして、愛を囁くと女性は喜んでくれて、お互いに楽しむ事が恋愛だと思ってました。けど、轟と操さんを見ると」
「違うと思ったの?」
「ワタシはあんな風に、ただ一人を深く愛したり長く想い続けた事がない」
「貴方にそう思う相手がいなかったからでしょう?」
「いなかったのではなく、きっとワタシは自分で無意識に作らないようにしていたんだと」
「本気になるのが怖かったのかしら」
「そうかも知れません。そしてワタシはこの生き方を変えられない」
「ええ、分かるわ。それが貴方が鏡 慶志郎である理由だから」
「けれど、ワタシは少し大人なので考えるくらいの余裕はあります」
「あら、どういう意味かしら」
「ムカつきますが轟は一応、ワタシの部下なので。まあ、多少の面倒は見てやってもいい。貴女の手を煩わせないように」
エベレスト級にプライドの高い彼には、これが精一杯の譲歩だろう。
ひねくれた言い方がぞんざい可愛くて、マチ子は思わず声を上げて笑った。
「ああ、おっかしい!鏡さん、貴方って最高に素敵!」
「……そんなに笑う事ですかね」
マチ子が余りに笑うから、唇を尖らせてちょっとだけ慶志郎は拗ねてみせた。
【3】
金剛が3日後に退院するとマチ子から聞いた慶志郎はもう一度、彼を見舞った。
驚異の身体能力で彼の怪我は驚くほど早く治りそうで、もう普通に動き回っても大丈夫との事だった。
「アンタには酷い事ばっかした」
ベッドに腰掛け、真っ直ぐにこちらを見上げてくる金剛の目はもう、あの暗い影はなく力強い光と意思の強さを備えた眼差ししかなかった。
「本当の轟 金剛くん」
とマチ子は言っていたが成程、確かに今までの彼とは居住まいも雰囲気もガラリと変わっていて、まるで初対面のような錯覚を受ける。
「鏡」
金剛はもう何かを決意しているようで、慶志郎は無言でただ次の言葉を待った。
「アンタは俺を許すな。一生、俺を許さなくていい」
謝罪でもなく言い訳でもなく、ただ許すなと思いもよらぬ言葉に慶志郎は顔には出さなかったが、わずかに動揺した。
「アンタが俺に要求する事があるなら、望むようにする。消えろって言うなら消える。アンタにはその権利がある」
「……っ、は、いいの?そんな事を言って」
「嘘は言わねえ」
じゃあ、死ねと言ったらお前は死ぬのかと問い掛けて慶志郎は言葉を飲み込んだ。
訊かなくても分かる、金剛は慶志郎がそう望めば躊躇いなく実行する。
軽々しく死ねだなんて言えないしもちろん、言うつもりもない。
馬鹿だ、本当に不器用で馬鹿な男だ。
「……ひとつ、訊いてもいいかい」
「何でも訊いてくれ」
「キミは今はワタシをどう思っているの」
「愛している」
即答だった。
何の衒いもなく真っ直ぐに慶志郎を見詰めたまま、金剛は答えた。
揺るぎのない眼差しは真実しか語らない。
「青山さんの事は?」
「……っ、操は、」
彼女の事はまだ、金剛の中で複雑な思いがあるのだろう。
一瞬、ギュッと唇を引き結び金剛は目を伏せた。
「操は、俺にとってこの先も大事な者に変わりない。家族のように兄妹のように……誰も、操の代わりはいない。けど、操はアンタを愛するように愛せない」
桜井 マチ子が言っていた。
二人は恋や愛を飛び越えてしまった存在なのだと。
操はどうだか分からないが、少なくとも金剛はそうだ。
器用な男ではない。
操か慶志郎か、どちらかしか取れないのなら彼は慶志郎を選ぶのだ。
「……ワタシは、キミを好きじゃないよ」
「分かってる。俺がそう想ってるだけだ」
慶志郎はマチ子に言っていない事がある。
この生き方は変えられないと確かに言ったが『変えるつもりはない』とまでは言わなかった。
人の心は日々、変わっていく。
昨日まで嫌いだったものが明日は好きになるかも知れない。
今日まで好きだったものはやはり明日も好きかも知れない。
心の可能性を言葉ひとつで慶志郎は決め付けたくなかった。
少なくとも慶志郎は金剛の事は嫌いではない。
肌を合わせてもいいと思う程度には。
本当に嫌いな人間には、指一本だって触れられるのは嫌だ。
金剛の優しい手も、灼き尽くされるような熱も、慶志郎と呼ぶ欲に塗れた声も、全部を覚えている。
今だってほら、手を伸ばせば彼に触れる事も出来る。
分かっている。ワタシが覚悟を決められないだけだ。
この期に及んでまだ無駄にプライドが邪魔をしているだけだ。
本当はもうとっくに、彼に堕ちているのに。
でもやられっ放しは悔しいんだ。
だから、この感情を愛とは呼べない。
愛だなんて、呼んでやるものか。
「ではワタシの要求を述べよう」
尊大に腕を組んで慶志郎は金剛を冷やかに見下ろした。
「っ、ああ……」
「キミが入院しているから、我が営業部はキミの分の仕事まで引き受けてみんなに皺寄せが行っている。キミは無駄に頑丈なんだからサッサと退院して、早く業務に戻りたまえ」
「慶、か、鏡係長?」
「ワタシが言いたいのはそれだけだ」
分かったかい、サムライボーイ?
盛大にフンッ!と鼻を鳴らし、慶志郎はまた三日後に来るよと言い残して部屋を出て行った。
余りの呆気なさに金剛はただ、呆然とその姿を見送る。
どんな罵倒も怒りも逃げずに全て受ける覚悟はあった。
正直もう、彼の顔を見る事も叶わないとさえ思っていた。
なのに慶志郎は会社に戻って来いと言う。
「……俺はまだ、アンタの側にいていいのか……」
都合の良い解釈をしていいのか分からず、金剛は項垂れた。
青山 操はマチ子の立ち会いの元で初めて、鏡 慶志郎と正式に顔を合わせた。
慶志郎は操を覚えていたが、操はハンカチを見せられるまで彼の事をすっかり忘れていた。
「まあ、お互いに名乗りもしなかったしね」
「ごめんなさい、本当に」
「謝る必要はないさ。あの時はご親切にありがとう」
見上げた鏡という男性は金剛の会社での上司だと紹介された。
日本人だそうだが、腰までの長い髪はキラキラと輝く眩しい金色だ。
不意に操は思い出した。
まだ本当に金剛を救いたいと思っていた十代の頃。
わたしでは金剛くんを救ってあげられないかも知れない。
もっとキラキラした、道標のように輝いている人なら、もしかしたら彼を。
「……鏡、さん」
「ん?」
「貴方は、貴方なら、」
「操さん?」
「青山さん、駄目よ」
マチ子が優しく遮った。
「マチ子先生、でも」
「それを決めるのは鏡さんだわ。この人、女性の頼みは何でもホイホイ聞いちゃうから」
「桜井先生……ワタシが無節操のように聞こえるので止めて頂けると」
「あら?実際そうではなくて?」
「参ったね、どうも」
クスクスと笑うマチ子に慶志郎は肩を竦めると、操を見下ろした。
真っ直ぐに向けられる眼差しは、どことなく金剛と似ているような気がする。
ただ気になるのは彼女にはまだ少し、暗い影がある事だ。
これから彼女も心を取り戻す為に、マチ子の元でゆっくりと時間をかけて治療していくのだそうだ。
どれくらいの時間が必要なのかは分からないが、暫く金剛には会えないのだろう。
「操さん……キミはこれで良かったの?」
残酷だと分かっていても、訊かずにはいられなかった。
「寂しいけど、大丈夫です」
意外にも、しっかりとした答えが返って来た。
「またいつか、金剛くんに会えるって信じてるから」
「そう、そうだね。轟もきっと、そう思っているよ」
別れ際、慶志郎は操にひとつ頼み事をした。
「このハンカチ、貰っても構わないかい?」
「え、ええ、そんな物でよければ」
「有り難う、思い出に貰っておくね」
good-bye、と手を振って慶志郎は帰って行った。
「青山さん、本当に轟くんには会わなくていいの?」
慶志郎が帰った後、マチ子は確認するように操に訊いた。
「顔を見るとまた、決心が鈍っちゃうから」
「彼に何も言わなくて良かったのかしら?」
「……ひとつだけ、伝えて貰えますか」
わたしの事はどうか、忘れて下さいって。
「青山さん」
「轟くんにはもう、何にも縛られて欲しくないから。だから、わたしの事は忘れて欲しいんです」
「いいの?貴女はそれで」
「いいんです、これで」
「分かったわ、轟くんが退院する日に伝えておきましょう」
操の意思の強さには何も言えまい。
必ず伝えるとマチ子は約束した。
【4】
「マチ子先生、お世話になりました」
退院の日、諸々の手続きを済ませた金剛は慶志郎と共にマチ子の元を訪れた。
少し外で話しましょうとマチ子に誘われ、診察室から中庭へと三人で出る。
「青山さんの事は心配しないでね」
「宜しくお願いします」
マチ子と金剛が話す側で、慶志郎はこちらに向けられる視線を感じて辺りを見回したが近くに人の姿はない。
「彼女から轟くんに伝言があるの」
「操から?」
「ええ、貴方に会うと決心が鈍るからって」
マチ子は金剛を真っ直ぐ見上げた。
「『また会おうね、金剛くん。いつかきっと会えるから。だから忘れないでね』って」
「……っ、当たり前だ……忘れねぇよ…!」
唇を噛み締めて金剛は頷いた。
刺さるような視線の主を慶志郎は見つけた。
ああ……キミは、やはり。
まだ潜んでいた暗い陰。
「……轟」
慶志郎は懐からパンダのハンカチを差し出した。
「これは操さんの思い出だよ」
ハンカチを手渡され金剛は両手で大切に包み込む。
「さようなら、轟くん、鏡さん」
マチ子に見送られ、二人は病院を後にした。
「ごめんなさいね、青山さん。先生、ウソついちゃった」
貴女の考えは分かっていたから、邪魔しちゃったの。
でも貴女も先生にウソをついていたから、これでおあいこね。
「……ひどいわ、マチ子先生」
病室の窓から青山 操はその光景を眺めていた。
はらはらと透明な涙が止めどなく流れる。
「うそつき、ちゃんと伝えてって言ったのに」
わたしを忘れてって言えば金剛はきっとまた、その言葉に縛られて、どこにも行かないはずだったのに。
マチ子が真逆の言葉を伝えたのは、金剛の表情ですぐに分かった。
操の最後の賭けは聡明なマチ子によって阻止されてしまい、これで轟 金剛は本当に自由になった。
彼はもう、何にも縛られず自分の思うままに生きて行く。
でも、これで良かったのかも知れない。
あの鏡が金剛に何かを渡すのが見えて操はハッとした。
彼にあげたハンカチが金剛の手に渡る。
一瞬だけ鏡と操は目が合い、彼の意図を操は正確に読み取った。
「……ありがとう、鏡さん」
宝石のように綺麗な涙を流して操は泣き崩れた。
彼は操の思い出を金剛に渡してくれたのだ。
鏡 慶志郎の優しさは確かに操を救ったのだ。
きっとまた、会えるよね。
それまで、さよなら。
わたしの好きな人。
慶志郎の車で2人は海岸線に来た。
時々、彼は夕暮れを眺めにここに来るのだという。
真っ赤に灼ける夕日がゆっくりと沈んで行くのを、慶志郎と共に見る。
昔、夕暮れの中を操と2人で帰った事を思い出す。
並んで歩く長い影は交わる事なく、平行線のまま。
金剛は慶志郎を横目で見た。
赤い夕日に照らされた慶志郎の金色の髪は赤と金とが混じり合って、不思議な色合いをしている。
何か話そうと思っても、何を話していいか分からず結局は無言で海を見詰める。
「……ワタシは」
慶志郎が口を開いた。
「面倒事は真っ平なんだ」
「……ああ、」
「キミと関わってから、しなくていい苦労ばかりだ」
「……悪い」
「でも、これはツケが回って来たのかとも思ったよ」
「ツケ?」
「今まで面倒事を避けてきたツケ」
ワタシはね、と慶志郎は続けた。
「誰か一人の事を真剣に考えた事なんてないんだ。でもキミと関わってから否応なしに考えさせられた。そして考えるのも悪くはないと思った。キミは許すなと言ったよね。だったらワタシに許して貰うにはどうしたらいいか、せいぜい悩めばいいと思うよ」
「鏡、俺は」
「それにワタシは桜井先生とも約束したからね。あの麗しいレディの手を煩わせるなんて言語道断だ」
「俺はまだ、アンタの隣にいていいのか?」
「隣にいるんじゃなくて隣に立つんだ、轟 金剛。キミはもう、ちゃんと立てるんだろう?ワタシを手に入れたいなら、証明して見せたまえ」
チャンスくらいは与えてあげるよ。
そう言って慶志郎は車に乗り込むとエンジンをかけた。
「さっさと帰ろう、日が暮れたら寒くて仕方ない」
「……ああ、」
呆然としていた金剛は促されて助手席に乗り込む。
2人を乗せた慶志郎の愛車は滑らかに走り出した。
「慶志郎」
「なに?」
「こっから、俺ァ本気になるぜ」
「……フン、上等だよ」
臆する事なく不敵に笑う慶志郎は自分よりずっと強い男だ。
もう迷わない。
今度は真っ正面から、この男を手に入れてやる。
風に靡く慶志郎の髪をひと掬い、指に絡めて金剛は己の心に誓った。
終
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