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第九章 ギヴ・アンド・リジェクト①
頬に感じるシーツの感触が普段より少し冷たい。薄く開いた口の端から流れ落ちた唾液が枕を濡らし、室内を満たすクーラーも相俟ってひやりと頬を冷やしていた。
寝覚めにこの冷たさがあればゆっくりと眠っていられず、佳嘉はゆっくりと目蓋を上げる。
脳のほうが先に覚醒しつつも身体はまだ睡眠を欲していて、この微睡みの中で惰眠を貪りたいという気持ちにさせる。それほど空調が整った室内での睡眠は快適だった。
耳に届くチュンチュンという鳥の囀り、ベッドに射し込む太陽光を遮るように二つの黒い影が横切る。目の裏まで突き抜けそうな太陽光がとても眩しく、無意識に手の甲で目元を擦る。
「ん、まぶし……」
〝眩しい〟と感じること自体が珍しく、佳嘉は眉間に皺を寄せながら薄目を開ける。レースカーテン越しに見える太陽光は強烈で、微睡みを欲する佳嘉に朝の訪れを叩き付けていた。
しかし部屋にはレースカーテンと遮光カーテンを二重に吊り下げており、四六時中遮光カーテンを閉めているのでレースカーテン越しに太陽光が射し込むことなど考えられなかった。
あまりの眩しさにゆっくり寝ていることも出来ず、佳嘉は嫌々ながらも羽毛布団の中でもぞりと体を動かす。
脳は覚醒していても、目から入る情報の処理には時間が掛かり、ベッドから起き上がり床へ足を付けた佳嘉がそれに気付くには多少の時間が生じた。
「……床?」
常日頃から脱ぎ捨てた服や食べ終わった食事のゴミで埋め尽くされていたはずの床が、今は何故かすっかり片付いていて綺麗なフローリングが見える。この床はこんな色をしていたのかと再認識できるほどだった。
徐々に周囲の状況を認識し始めると、綺麗になっているのは床だけではなかった。あれだけ部屋を埋め尽くしていた服やゴミ袋それらが一切無くなっており、デスクやハンガーラックなど本来の家具が三年振りに姿を現していた。
何故だろうと考えながらぽりぽりと頭を掻く佳嘉は、寝ぼけて部屋を片付けるような持病はないと認識している。更にここ数日は急激な気温の変化による体調不良と脱水症状で職場と自宅の往復のみの日々で、帰宅をしてシャワーを浴びれば泥のように眠るばかりだった。
自然と内側から込み上がる欠伸に背筋を伸ばし、ベッドへ腰を下ろした状態のまま再びうとうとと船を漕ぎ始める。
昨晩も眠る前にシャワーを浴びようとしていたはずだった。その割には左手首にリフレクターバンドが巻かれたままだった。水には弱い材質であるからこそ、シャワーを浴びる前に外し翌朝出勤する時に再度巻き付ける。
リフレクターバンドが巻かれたままだということはシャワーを浴びていないということで、その状態でベッドに入ることは考えにくかった。
シャワーを浴びようという意識はあった。しかしその寸前リビングで力尽きたような気がした。その夜はベッドを使えないから、丁度いいからこのまま寝てしまおうと考えたのだったと思う。起きた時にそのままシャワーを浴びに行けるなのでいっそ効率的だとも思った。
何故ベッドが使えなかったのか。そもそも昨晩はベッドに先客がいた気がする。先客という言い方は適切ではなかったが、なにかしらの理由があってベッドを使えない状態であったことを薄ぼんやりと思い出す。
整頓された室内と窓から射し込む真夏の太陽。懐かしい食欲を唆る香りがどこかからさり気なく漂ってきているような感覚があった。
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