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第6話
会社用のスマートフォンや財布、ノートパソコンを鞄に突っ込み朝のラッシュに飛び乗った。
ひしめき合う人の多さに酔って吐き気がしてきたが唾と一緒に飲みこんだ。本来なら自宅でのんびりと仕事ができていたはずなのに、自分の失態のせいだから我慢するしかない。
中途で採用されて半年。初めて大きな失態
をおかした。
担当していた二社のイベント搬入が入れ違いになり、現場を混乱させてしまっているらしい。
海璃の働く会社は企業が法人や株主に向け
て行うイベントを企画、提案をしたり、それにあたっての業者や商品を紹介する仲介屋だ。
日時や場所や搬入品などの当日までの流れ
を細かくチェックしていたはずなのに、完全に見落としていた。
二つの会社が同じ日時に株主向けのイベントを開催するのだが、子ども向けのヒーローショーとゲートボールの機材が入れ違いになってしまったのだ。
双方の担当者を含めチェーンメールで送っていたが誰一人間違っていたことに気づかず、当日になって電話がきて、事の発端に気づいたという最悪の後手つき。
狭いオフィスに滑り込むとスーツ姿の深川と榊の険しい顔で出迎えられた。二人の表情からクビもあるかもしれないと肝が冷える。
榊と目が合うとにかっと笑ってくれた。
「やっちまったな」
「すいません。もう本当にどうしたら」
「大丈夫。向こうも確認してなかったと言ってくれたし、とりあえずどうにかなってるみたい」
深川は安心させようと慰めてくれるが、そのやさしさが辛い。どうしてちゃんと確認しなかったんだと責められる方が落ち込みやすいのに、そんな甘さもくれないらしい。
「菓子折りは買ってきたか?」
「はい」
榊に前もって指定された有名な和菓子の詰め合わせを多めに買ってきている。
「じゃあ行こうか」
榊に促されてオフィス近くの駐車場に停めてある車に乗り込んだ。自然な流れで運転席に乗り込む榊に目を丸くする。
「俺が運転します」
「場所わかる?」
「カーナビ見ながらでよかったら」
「わかりにくい場所だから俺が運転した方が
早いよ。それに混乱してるなか事故でも遭ったら大変だからね」
「……お願いします」
おずおずと助手席側に乗り、自己嫌悪を巻き込みながらシートベルトを締めた。
車内は耳が痛くなるほど静かだ。てっきり榊は普段通り取り留めもない話題をしてくれるかと思っていたが、切羽詰まった横顔は眉を寄せてしかめている。怒っているのは明白だった。
さっきは笑ってくれたが、深川がいたから気を使ってくれたのだろう。
(こんな初歩的なミスありえないよな)
前職でもそうだった。車の設備について客からの質問に緊張からしどろもどろで答えてしまい不安にさせてしまい、購入してもらえなかったことは多々ある。
その度に先輩や上司に叱責された。こんな初歩的なことができなくてどうすると責められ、どんどん自信をなくした。
追い打ちをかけたのは三年目になっても売上実績がなく失意のどん底にいるときにきた従業員全員に送られるチェーンメールだ。
《ご成約おめでとう!》の文字で綴られた後輩の名前と車種と値段。それから店長の労りのメッセージが添えてあり、後輩が車を売ったことを知った。
それを読んだとき、音をたててなにかが崩れた。
風前の灯だった自尊心がふっと息を吹きかけられて消えていくようだった。
店長や先輩の顔が両親と弟の顔に変わる。
「おまえはなにをしてもダメだ」とよく言われたことを思い出し、その毒が頭からつま先まで隙間なく犯されている。
(なんて俺はダメな人間なんだろう)
逃げるように退職届けを出してしばらく休職していたが、貯金も心許なくなり、なんとなく見ていた求人サイトでいまの会社を見つけた。
完全リモートワークの完全週休二日制。理想的な条件で迷わず申し込んだ。
仕事はメールと電話で事足りるのでコミュ障の海璃には合っていた。面倒な人付き合いもなく、他人と比較されることもなく安心できたのにーー
その大切な居場所を失いそうになっている。
両方の取り引き先に頭を下げて回った。どちらからも厳しい叱責を受けたが、最後はこちらにも落ち度はあったとイベント担当者に謝罪をされた。
まさかの製薬会社の株主のイベントにヒーローショー、おもちゃ会社にはゲートボールの機材が行違ってしまったが、双方の株主たちからは普段関わりもしないものなので新鮮だったと言ってもらえたらしい。
胸を撫で下ろす海璃とは反対に榊の表情は終始硬い。
一段落ついたころには太陽が傾き始めていた。
「俺のせいで榊さんに迷惑かけてすいません」
今日何度目かの謝罪の言葉だが榊は険しい顔のまま空を見上げている。
「退勤メールは送った?」
「いえ、まだ」
「さっさと送って。今日はこのまま直帰でいいと深川さんが言ってたし」
「はい」
慌てて会社用スマートフォンで退勤メールを送る。社員全員のシフト表にぽんと赤丸で海璃と榊のところが退勤に変わった。
「送りました」
「じゃあ行こうか」
「どこに行くんですか?」
「もちろん水族館だよ。ここなら葛西が近いかな」
手早くナビを設定して車は走り出す。ものの三十分ほどで水族館に着いた。
「ギリギリだったね。間に合ってラッキー」
時刻を見ると午後三時五十分。五時に閉園
するので四時からはチケットを販売しないと看板に書いてあった。
笑顔の榊からチケットを受け取ると可愛いペンギンの写真が印刷されている。
「俺のペンギンですよ。榊さん、好きじゃないんですか?」
「いいよ。今日の記念に持ってて」
榊はゆったりと一つずつ水槽を眺めた。さっきまで怒っていたのが嘘のように機嫌が良くて混乱する。
「みて、すごいね」
「わぁ」
榊が指さした先は天井まで届く巨大な円柱の水槽にマグロがぐるぐると回っていた。他の魚には目もくれず、ひたすら泳いでいるマグロはなんだか忙しない。
「マグロって泳いでないと呼吸できないんだよ」
「疲れないんですかね」
「そもそも疲れるって感覚がないんじゃないかな。そうじゃないと死ぬし」
だからこんなに切羽詰まっているように見えるのか。他の魚たちは気ままにフラフラしているのにマグロだけが泳ぐことに生死がかけられている。
あまりにも不公平だ。
でも人間も似ている。朝起きて会社に行って帰って寝る。寝るまでの間ずっと動き回っているのはそうしないと生きていけないからだ。
お金がないと食べ物は買えないし、仕事をしないと稼げない。円のように回る同じ過程をマグロは泳ぎ続けること一つで完結している。
人間みたいに複雑ではないから羨ましい。対人関係に悩んだり、今日なに食べようかと考えたりすることがない分、マグロの方が単純で悩みが少なそうだ。
狩りに失敗しても、それは自己責任で空腹になるのは自分だけ。
でも人間はそうはいかない。
仕事で失敗したら関わった人、みんなに迷惑がかかる。
目元が熱くなってきて堪えるように奥歯を噛んだ。でも間に合わなくて水の膜が張った眼球からぽろりと水滴が溢れてしまう。
それを乱暴に手の甲で拭うとやんわりと手を握られた。
「擦るとよくないよ」
「……俺、なんでこんなダメなんだろ」
自分が嫌になる。こんなの生きている価値すらない。でもだからと言って死にたいわけでもない。
一人きりの水槽で誰の目にも触れず泳いでいたいのに人間では叶わない願いだ。
握られた手のひらはゴツゴツとしていた。
手の皮が厚く硬い。よく見ると白い線がいくつもあり、まるで百戦錬磨の戦士のように鍛錬された者しか許されない貫禄がある。
その傷の分だけ榊は愛情深い気がした。
「笹岡くんはダメじゃないよ。いつも一生懸命じゃないか」
「でも今日迷惑かけて」
「それは謝罪したからもういいんだよ。それに俺もちゃんと確認してあげられなかったし」
「でも、榊さん怒ってますよね?」
「怒る?」
榊は目をまん丸にして見下ろされ、しばらくしてから「あぁ」とこぼした。
「仕事中は上司だからね。取り引き先がいる
前でヘラヘラできないでしょ」
だから今日はずっと難しい顔をしていたのか。いつもにこやかに話してくれるのに、今日に限って難しい顔をしているからよほど酷い失敗なのかと落ち込んだ。
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